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作品名:リフレクト・ワールド(The Reflected World) 作者:芽薗 宏

第10回   第八章 センチュリオン
 柔らかな若緑色をした見渡す限りの草原に、何本かの小道が走っている。砂と小石だけの乾いた路面は、次第に粗い石を埋め込んだ石畳の道となり、道幅も広くなってくる。石畳が同じ大きさの薄い直方体に切り出されたものとなって、整然と敷き詰められて並ぶようになってくると、その道はそのまま遠くにある城壁に繋がっている姿が視認出来るようになってくる。道の両端には、桜色の花弁を持つ小さく可憐な花が咲き誇る木々が並んでいる。穏やかな風が吹き、その柔らかく小さな花弁は花を離れ、風に乗り、宙をゆっくりと舞いながら、石畳の上にそっと落ち、あるいは草原の草々の成す細波の中へと消えていく。周りには何軒もの家が建っている。平屋建てもあれば二階建てもある。ログハウス風の家もあれば、レンガ造りの家もある。ポーチに木製のロッキングチェアがある家もあれば、広い庭に干された真っ白いベッドシーツが大きくゆったりと風に任せてたなめかせている家もある。食事の用意をしているのか、煙突から白い煙をうっすらと上げている家、荷車から牛乳を入れる大きなアルミ缶のような瓶を父と息子らしき二人が下ろし、それを笑顔で見守りながら声を掛ける母親らしき女性の姿、幼い子供達が庭で互いに駆け、笑いながら遊んでいる姿、先頭に獣を歩かせ、道をゆっくりした速度で進む幌馬車風の乗り物、そのようなのどかな風景が城壁まで続いている。

 王都エリュシネ。
 城壁はパールホワイトの色が目に眩しい石造りの壁で、所々に見守り用の尖塔がそのオレンジ色の屋根を見せ、壁の色と丁度いいコントラストを呈している。壁の向こう側には活気が溢れる街並みが広がっている。城壁と同じ色の建物はやはりオレンジ色の屋根を持ち、さながら南欧の田舎町を彷彿とさせる。人で賑わう市場では、見た目にも鮮やかな様々な種類の農産物や、パン、チーズ、香辛料とも思われる赤や茶色の粉や小さな実がぎっしりと入った布製の大袋などが、所狭しと並んで売られている。熱い金属を叩いて伸ばす、鍛冶屋からのキンとする音が空に響く。酒場では男達が仲間と豪快に笑いながらジョッキや高杯を交わし、最近の出来事や家族自慢などの話に花を咲かせている。建物と建物との間を石畳の道が網の目のように張り巡り、遊んでいる子供達の笑い声や掛け声らしき言葉が聞こえてくる。陽の光を浴びて背伸びする猫ほどの大きさの動物が屋根でくつろいでおり、学校らしき建物の大きく開かれた窓から流れてくる、書物を暗唱しているような生徒の声は、エキセントリックな宗教唱歌のようだ。パンを焼く香りが辺りを包み、何とも香ばしい。通り沿いにある広場では、絵を描く者、肩を寄せ合い微笑み合う恋人同士の男女、赤ん坊を胸に抱き、ベンチに座って大きく深呼吸をする若き母親、そしてその上を白と黄色の色をした小鳥達が、三、四羽の群れで上空を舞っている。
 そうした人々の変わらぬ平和な毎日の生活を送っている真上を、飛行帆船「サンクトゥス・クラトール」を先頭とする女王の艦隊は進んでいた。その船々の優雅な様を目にした街の住人達は歓声を上げ、手を振った。
「お帰りなさいませ、女王様!」
「女王陛下、お帰りなさい!」
 女王の船「ベネウォレンチア」が帰還を歓迎する声の上をゆっくりと飛行していた。
 十数階建ての準高層建築物が何本も見える。それらは石造りで、オレンジ色の尖塔の屋根を空に向け、荘厳且つどっしりと構えた宮殿を囲むようにそびえている。それらの内側にはフランス風の庭園を思わせる、芝生と刈り込みにて装飾された木々、優雅な石像、華麗な噴水を持つ広大な庭が、白く直線状に伸びる小道に仕切られるような様で宮殿の正面に広がっている。宮殿は白っぽくも半透明な水晶のような石で造られており、全体が丸みを帯びた形をしている。外面に直線は殆ど用いられず、全ての壁面が緩やかなカーブを描いた球面を見せている。円形に切り取られた巨大な吹き抜け窓のような部分からは、宮殿の外面とは打って変わって、黄金一色の壁面が見える。宮殿はその外面が二重構造になっていて、内側の壁は細密画(ミニアチュール)のような装飾と、縦に長い採光窓を横一列に並べた外観になっている。宮殿の屋根の最も外側にある部分は、球体を斜め縦半分に切り落としたようなドーム状を呈している。そのドームの内側にもう一つ別のドームがあり、これも同じような斜め半分を切り落したかのような形をしている。それら二つのドームは切断面を互いに向き合わせており、その中央からは三十階建てのビルに相当する高さの黄金一色の重厚な高層建築物がそびえ、その尖塔を空へと向けている。この国を治める女王アフェクシアの居城であり、王国政府の高官達がその中で執務を行っているのだ。宮殿の背後には広大な湖が陽の光を受けて輝いている。水面には白い石造りの遊歩橋が数本走り、その繋ぎ目には円形パビリオンがあり、そこでは何人かの者達が水面を見ながら語り合っている。
 船々はその船体の両脇にある推進エンジンを水平方向から垂直方向へ向きを変え、VTOL機の如く、ゆっくりと高度を下げていった。水面に着く前に、水が内部に浸入しないようにエンジンはその機関弁を閉じ、そしてゆっくりと着水した。波が音を立て、横に広がりながら水面を走る。
 各々の着水地点の周囲にある白い尖塔上の建物から、桟橋が伸びていき、船体脇にある乗降口とドッキングした。緩衝ブレーキから空気を噴出する音が周囲に響く。
「接舷完了。艦内各機関、全て異常無し」
 航行係の声がブリッジに響くとまもなく安堵の息が聞こえてきた。「サンクトゥス・クラトール」艦長ペイトンが振り向き、グランシュに声を掛けた。
「当艦、接舷終了。お疲れ様でした」
「うむ。ご苦労であった」
 空間近衛騎士団隊長グランシュは引き締ったままの表情で返すと、ブリッジのスタッフ全員に対しても、
「総員、ご苦労であった。それぞれの担当業務を終了させ、後にゆっくりと休養して貰いたい」
と、緊張感をやや解いた声色で伝え、ブリッジを離れた。
 声色では緊張感を解いたとは言っても、今のグランシュの心の内は穏やかならぬものがあった。ざわつくものを感じたままだった。近衛艦隊管制局からは、騎士団の一人のシュナの搭乗する「イスマイル」からの報告があったと聞いている。グランシュはその報告を聞くと、多少ならずとも穏やかならぬ表情をした。それを他の者に悟られてはいけない。またトルソのことも気掛かりである。グランシュははやる心を抑えつつ、騎士団本部のある宮殿北東部にある塔へと歩みを速めた。

 グランシュは女王謁見の前に先ず、本部の医務室で休む仲間であり、騎士団副隊長のトルソの元へ向かった。磨かれ光沢を放つ石造りの廊下を歩く足音が円形の天井に緊張感を伴って響いていた。天井にはルネッサンス期の美術作品を思わせる絵画が所狭しと描かれている。それらが表現しているものは実に様々な「神々」の姿だ。花園で恋人達の頭上を飛び交うキューピッド達、まだ赤ん坊である頃のイエス・キリストを抱く聖母マリア、絨毯の上でひざまづき頭を下げる信者に教えを説く預言者ムハンマド、後光に包まれた千手観音や弥勒菩薩、悪鬼を踏みつける帝釈天、シヴァ神、ヴィシュヌ神といったヒンズー教の数多の神々など、あらゆる宗教におけるあらゆる神々が描かれ、それらが丸天井を飾り、ずっと先へと続いている。ラファエロやボッティチェッリ、ダヴィンチの歴代の名画を思い出させる画風で描かれた絵画は、もし宗教家が見れば間違いなくカオスだとでも言うであろう。そのような、数多の神々を十把一絡げにしたような天井画は、よほどの悪趣味な遊戯施設においてでもなければ、地上にある寺院仏閣では決してお目に掛かることはない。だがそこにある絵画は悪趣味な雰囲気は全く醸し出してはおらず、寧ろ地上の様々な文明、文化、民族、営みによって異なる宗教、崇拝を一挙に集めた、そしてそうしたものを一手に見守る総世界の神々の居城とでも言う雰囲気を漂わせている。その下を金色の甲冑に身を包み、しかし兜を外したグランシュは先へ先へと歩き進んで行った。

 医務室の中は明るく、サテンのような白い生地のカーテンが、開放された窓から緩やかに吹き込む微風でゆらいでいた。広い室内の所々で焚かれている香がはやる気分を些か落ち着かせてくれる。奥のベッドでトルソはその身を横たえていた。
「隊長……!」
「そのままでいい」
 体を起こそうとしたトルソに、右手の平を下に向けて前に出し、グランシュはそう答えた。
 生還したトルソの表情は歪んでいた。恐怖に打ち震える心が表に出ていた。部下を失うという失態に対しての、自身に対する怒りと悔恨の情もあった。眉間に皺を寄せ、視線をグランシュの足元に落とし、自分の目を相手に合わせられないでいた。その体は小刻みに震えている。
「顔を上げよ」
「隊長……私は……申し訳ありません! 誠に申し訳ありません!」
 トルソは嗚咽を堪えつつ、低く途切れ途切れになった声でひたすら繰り返した。シーツに涙の落ちる音がして、その部分をいくつも丸く濡らした。
「トルソよ。今、貴様の行うべきことは何があったのかを私に報告すること、そして十分に休むことだ」
 グランシュはベッドの脇に置かれた椅子に腰を下ろした。椅子がきしむ音と共に、甲冑のパーツが節々で互いに接触し、軽い金属音を立てた。
「さあ、話してみよ」
 穏やかな声と視線をトルソに向け、グランシュは膝の上に両肘を置いて手を組み、そしてゆっくりと目を閉じた。体のあらゆる動きに対応出来るだけのジョイント部を持つ甲冑が再び静かな音を立てた。
 トルソはことの始終を伝えた。
 グランシュは自分の顔から血の気が引いていく感じを覚えた。

 女王はテラスに立ち、宮殿裏に広がる、艦船の港になっている湖を眺めていた。陽の光が湖面に瞬く星の光のように優しい反射光を呈している。両肩に掛かる茶褐色の髪が風に優しくなびく。金色のドレスと丸く編まれた大きめのレースの襟に髪がふわりと掛かる。白くもっちりしたきめの細かい肌に濃いめに描かれた眉、大きな鳶色の瞳、はっきりと整った目鼻立ちに紅をさした艶のある唇、けれんのないイヤリングにネックレスと、数個のティアラを重ねたようなこじんまりとした王冠が、派手さこそ無いものの、見たくれだけの虚飾で飾る必要など全くないまでの美しさと気品を女王アフェクシアはその身に纏っている。
 アフェクシアはゆっくり踵を返すと、湖に背を向けて広い室内に戻っていった。二十五平米ほどの広さの部屋だ。天井は一面が額縁に入れられた絵画のようにデザインされており、そこには中央に神と思われる人物から啓示を受ける王族の娘が描かれている。その絵を中心に、周りに歴代の王達の肖像画が描かれ、部屋の四方の壁にも、床から約一メートルの高さに彫刻が施されている。壁の傍にはドレス類の入った棚や室内を優しいオレンジ色の明かりで染めるスタンドランプ、腰掛椅子があり、隣の間にはラッパを持つ子供達の彫刻が飾る天蓋ベッドが中央に置かれている。その二間がアフェクシアの居室である。広い宮殿と言えど、そこに住む者の一人当たりの実際の住環境はその程度だ。宮殿の大きさはそれを所有する王族や貴族の、または国力の権威の象徴としての意味合いがあったりする。だが、アフェクシアが住むこの宮殿はそれ以外にも、国の各行政立法機関が並存しており、国家機関の中心地として機能している。グランシュが航海中に通信を交わした王立学術院も同じ宮殿の中に存在している。その宮殿の中にある自らの居室を出ると、アフェクシアは長い廊下を歩き、螺旋階段を下って行った。目の前の重厚で高さのある扉が宮殿内の衛兵の手で開かれた。その向こうには女王の玉座のある謁見の間が広がっていた。奥行きのかなりある長い部屋で、薄暗い中でこじんまりとしたシャンデリアがいくつも下がっていて、それらが柔らかい光を放っている。王座の前には二本の太い円柱があり、数段の階段を下りたところに、玉座と向き合って謁見希望の者が位置する箇所があり、その床には赤と緑の二色別で描かれた大きな円と正方形の模様があった。アフェクシアは玉座に静かに座すると、控の間で待つグランシュを呼ぶよう、衛兵の一人に声を掛けた。
 隣の小部屋である「控の間」でグランシュは目を閉じ、自分が呼ばれるのを静かに待っていた。黄金色の輝く甲冑は脱ぎ、黒色の謁見専用ローブに身を包んでいる。
「陛下がお呼びです」
 衛兵の呼び声を受け、グランシュはすっくと立ち上がると、精密な絵画や彫刻、円形の天井とそこから下がるシャンデリアのある間を抜け、謁見の間にて待つアフェクシアの前まで進んで行った。
「陛下」
 片膝をつき深々と頭を下げるグランシュにアフェクシアは声を掛けた。
「楽にせよ」
 頭を上げるとグランシュは大きく息を吸い、そしてゆっくりと吐いた。
「陛下。ご報告がございます」
「お前の顔を見れば、それが良くないものだということは容易に推測出来ます」
「はっ」
「何が起こっていると言うのですか」
「……騎士団副隊長、トルソからの報告をお伝え致します」

 表敬訪問で向かった隣国に艦隊が到着してまもなく、騎士団本部からグランシュ宛てに一通の連絡が入った。アフェクシアの王国より西方に四八〇〇ミル(一ミルは一キロとほぼ同じ距離)の地点にあるフスの村郊外の空間近衛騎士団駐屯地から定時通信がなく、本部からの打電にも全く応答が無いとのことだった。そこでグランシュは旅先から連絡を入れ、副隊長のトルソ率いる一師団を調査へ向かわせたのだった。
「……フス村に到着する直前で突如、トルソの乗る艦『ヴンダバール』が航行不能となる異常事態が発生し、手前の草原に不時着。艦の状態や周辺の調査、並びに必要箇所の修理のため、乗員十四名のうち六名を残し、トルソ含む計八名で村へ向かいました」
 トルソ率いるグリフィス部隊は最初八名だった。その八名が村に到着して、そこで異常な事態が発生していることを発見したのだ。
「村の住人達が一人としていなかったのです」
「住人が一人もいない?」
「それだけではございません」
 村の家々は黒く変色し、建物の上半分が抉られたように削られていたのだとグランシュは言った。村の郊外には緑色の草むらがどす黒く「溶けて」いて、更にその汚泥地帯は西へ伸びていた。その先にある駐屯地も同様に、建物は土台のみを残して消えていて、駐屯部隊もその姿を消していた。八名は更に二手に別れ、五名は駐屯地含め村に残り、トルソと他二名は先に伸びる汚泥地帯を追って、空へ飛び立った。
 そこで、トルソは「黒い霧」に部下二名を奪われたのである。
 白簾霊峰にて襲撃を受けたという話のくだりで、アフェクシアの眉がぴくりと動いた。
「傷付いたグリフィスを駆って駐屯地へ戻り、残っていた部隊と合流、その場で不時着中の艦へ帰還。艦が原因不明の動力低下によるもので、まもなく再起動した艦でエリュシネへ向かいました」
 ところが、である。
 艦の後方から「黒い霧」が高速で追尾してきたのだ。霧は何本もの細い弾道状になって艦に突っ込んできた。船体の各所を貫かれ、推進エンジンも破壊、帆も片っ端から折られ、その破片を地上へと落としていった。船体のあらゆる箇所に穴が空き、耳を劈くような爆裂音や素材が力任せに引き裂かれるような轟音が船内外を駆け抜け、それに合わせて騎士団員の絶叫や恐怖におののく声、グリフィス達のいななきが木霊した。足元や壁に穴が空き、そこからは若緑色の空に白い雲が見え、恐ろしいほどの激しい気流が流れ出し、そこから破片や悲鳴を上げる搭乗者が吸い出され、瞬く間に大空の中の点となって見えなくなっていった。放り出されまいと船内でしがみつく残りの搭乗者やグリフィス達も黒霧の弾道に体を包まれ、その姿を消滅させた。錐揉み状態で墜落していく「ヴンダバール」の中で、トルソはその体をブリッジの各所に打ち付け負傷した。船体は地上すれすれで分解、四散し、トルソは外へ放り出された。奇跡的に生存していたトルソの駆っていたグリフィスが、自らの傷付いた体で力を絞り、地上に打ち付けられる寸前のところでトルソをその嘴でくわえ、現場を飛び去ったのであった。
「……霧から『声』がしたのだそうです」

 伝えよ。我の存在を伝えよ。

「その後、事態の詳細を把握していなかった私は、シュナの『イスマイル』を再派遣致しました。運良く『イスマイル』は無事でその後の現地の状態を報告してきたのですが……」
 現地に巨大な穴、そしてクレバスが連峰に向けて走り、山の麓から頂にかけてはその地形を変化させているとの報告があり、現在シュナは王都に向かっているとの旨を伝えた。
 アフェクシアは大きく息をついた。
「然るにグランシュよ。お前はその異変について如何に考えるのですか?」
「正直申しまして、考えたくもない凶事が発生しているとしか思えません。我々空間近衛騎士団が結成された真の理由は、今日まで私も忘れたことはございません。まさか、そのことが……」
「確かに考えたくもない。だが、避けられもせぬ」
 アフェクシアは静かに立ち上がった。
「ついて来るがいい。お前に見せたいものがあります」

 二人は謁見の間を出、アフェクシアが先程下りてきた螺旋階段を更に下りて行った。何処まで下りてきたのだろうか。今いるこの場所は王族以外の者は立入厳禁のエリアの筈だ、とグランシュは思っていた。何処へ向かっているのか見当が付かない。明かりは石積みの壁に取り付けられた小さなランプのみで、階段の周りはほぼ真っ暗だ。しばらくすると階段は終わり、暗い廊下が続く空間に出た。小さなランプが照らす壁は、その周りに丸い光を点している。その廊下を更に二人は進んで行った。足音だけが周囲に反響し、その木霊が前後に続く暗闇を揺さぶっている。もったりした冷たく重い空気が全身を四方から挟み込んでくる。
 やがて巨大な石の扉が目の前に現れた。
「この部屋にあるものは、この世界の根幹とも言うべきものです」
 アフェクシアが扉に手の平を当てた。すると押したわけでもないのに、ゆっくりと音もなく扉が開き出した。二人は部屋の中へと歩み出した。
 室内は異様に広く、その天井も更には壁さえ見えない。石の床が広がり、その中央に巨大な「球」が浮いている。その下には同じく巨大な円状の箇所があり、そこには「水」がなみなみと満たされている。球体は何かによって吊り下げられているのではなく、まさに「浮いていた」。室内は静まり返っており、明かりは一切点っていない。それでも室内がほんのりと明るいのは、そこに浮かぶ「球」自体が淡い光を発しているからだった。
 グランシュは目を見開き、息を呑んだ。
 アフェクシアは口を開いた。
「これは心の球体と呼ばれているものです」
 ココロノキュウタイ?
 アフェクシアが球体に手をかざすと、球面に映像が浮かんできた。

 日本軍と米軍との南方の島にての交戦が終わった直後、その瓦礫の山の中で幼い子供が恐怖にその身を震わせている。言葉は発せず、口は真一文字に結び閉じ、その目には涙を流す心の余裕さえ完全に打ち消されている様が如実に浮かび上がっている。
 後ろ手に縛られ、目隠しをされた者達が地を焼く荒々しい太陽の光の下、荒野の真っ只中で横一列に並べられ、順番に銃で後頭部を撃ち抜かれていく。たった今まで息をしていた者が、動いていた者が、神に救いを求めていた者が、乾いた砂の上に脳漿を撒き散らし、一瞬で二度と動かぬ肉の塊になっていく。銃殺した者達は、命乞いをしていた者が口にしていた同じ神の名を大声で叫んでいる。
 自分より脆弱な生き物をその歪んだ快楽を達成するためだけに、敢えてその生き物が苦しみのた打ち回る方法にて、残忍に命を奪っていく。鮮血に染まりしその若者の手は凶器を握りしめ、口元に冷酷極まりない笑いを浮かべている。その果て無き残虐な快楽追求はやがて、自分と同じ人間に対して刃を向ける。
 愛し合った二人の結晶であった筈の我が子を際限なく虐げる親達。満たされぬ欲求に勝手気ままに絶望し、それを環境のせい、自身を理解せぬ冷淡な周りの者達のせい、そして自身の足枷としか見えなくなった我が子のせいとして、際限なく追い込み死に至らしめる。
 周りに対し一切心を許さず、信じず、自身の心の周囲に強固な障壁を築き上げ、他の者達に対し威嚇や攻撃のような行動しか行えず、そしてそのような歪んだ心の持ち主を一国の指導者として選んでしまった者達は、その狂った思想に翻弄され、家族や友人と引き離され、或いは命を奪われ、終わりの見えぬ地獄の道を歩むことしか出来なくなっている。暴力は暴力を呼び起こし、「大義」の名の下に数多の命が消されていく惨劇を何度も引き起こす。空に業火が飛び交い、街は破壊され、大勢の、実に大勢の者達が納得いかぬまま突然に、自身の人生に強制的に終止符を打たれていく。

 球体の映像が変わった。真っ黒な水が映し出されている。それはどこまでも果てなく広がっている。
 歪んだ心の連鎖。悪しき気は同じ悪しき気を呼び込み、濃縮され、周りをも巻き込み、光さえも通さぬ真っ黒な海を作り出す。その海の底では無尽蔵の人の叫び声が木霊している……泣き叫ぶ声、絶望に打ちひしがれた悲鳴。

 慈しんでくれ。
 愛してくれ。
 助けてくれ。
 
 わかってくれ。

 その叫びは屈曲し、悪意と暴力の衣を纏い、他者を傷付けていく。
 
 球体の色が徐々に濁り始めた。水の入ったグラスの中に黒い塗料を流し込むかの如く。

「陛下、これは……」
「『生ける者達』の心は今、大いに病み、傷付き、その灯火を消さんとしています。その歪んだ思念の波がここに流れ込み始めてからどれほど経ったことでしょう。今やその受け皿からも溢れ出し、悪しき力は全てを飲み込もうとしている」
 グランシュは黙ったまま女王を見詰めていた。
「彼等の心が歪めば、その心の連鎖で成り立っているこの世界も同様に歪み出し、やがてはそのような心を拠所とする『闇』が現れ、全てを飲み込んでしまう。我等の世界で暮らす者達を滅ぼしてしまう。全ての希望、心の不滅なる流れ、縁、絆、慈愛の精神……何もかもが消えてしまう。我が王族、そしてお前達近衛騎士団はその『闇』からこの世界を守護するために、良き心の連鎖を守り抜くために存在してきました」
 アフェクシアは振り向き、グランシュの目を見た。

「この心の球体が映し出すものこそ、『生ける者達』の世界の様子であり、『生ける』人間達の心、潜在なる意識の姿。そして我々は、この『生ける者達』が命を全うし、その後になり転生した姿であり、この世界は彼等が『あの世』『来世』と呼ぶ場所なのです」

 グランシュはその目を大きく見開き、続くアフェクシアの言葉を無言で聞いている。
「彼等がその天寿を全うすると、その肉体は滅ぶが、しかし魂はこの世界へ戻ってくる。そして新たな生を謳歌し始め、そして再びかの世界へと旅立って行く。これは全ての命ある存在物の摂理」
 アフェクシアは大きく息を吐いた。
「生者と我々は繋がっているのです。母親の胎内にて生きる胎児が胎盤を通して生きているように。『心』と言う血潮を通じて結合しているのです」
 もう一度息をゆっくり吐いてから、アフェクシアは低い声で漏らした。
「だが、それを断ち切ろうとする者がいる。病んだ心を糧とし、膨れ上がる一方の存在が」
「地獄の者……ですか?」
「地獄? いいえ、そのような生易しいものではありません。その者からすれば、たとえ地獄であろうと何であろうと打ち砕き、跡形も残さず消し去ってしまうことでしょう」
「ではやはり……」
 グランシュの口から言葉が洩れた。
 アフェクシアは静かに頷いた。
「生ける者達の世界からの病んだ心がこの世界に流入してきている状態がもうずっと続いてきていました。だから私はこのことが怖かった。何時の日かあの者がその姿を現すであろうと。そして未だに考えたくはない。無論、信じたくもない。だが、その報告を聞く限りではそう判断せざるを得ないであろう」

「センチュリオン」
 グランシュは重々しくその一言を口にすると、女王の顔をじっと見詰めた。 
 女王は言葉を発さずに目を閉じた。


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