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作品名:放課後の親友 作者:munnko

第2回   2
純也が「じゃあね」と階段を降り玄関の閉まる音を確かめると、ゲンタがまだ小声で
「すいません。私が口止めを、お願いしておきながら」
「危なかったぁ。純也の勘のよさには、気をつけよう」
「ええ。これからは、十分気を付けます」
健太は無事にやり過ごせたことに、心からほっとした。
しかし別の無意識の中で、微かに残っている寛子の香りを感じていた。
そんな時、突然
「寛子さん。初めて会った時より、随分大人っぽくなりましたね」
まるで心を読まれたような質問に、健太は固まった。そして
「そ、それが…何だよ。俺に関係ないじゃないか」
意味無く怒った、まるで固まりをとく呪文のように、
「…」
今度はゲンタが固まった。
暫く空気が止まっていたが、夕暮れのカラスの声に後押しされたかのように健太が話し始めた。
「俺さぁ…」
ゲンタは健太の前に座り、見上げた。
健太は窓の遠くを見たまま、未だ言いずらそうにしていた。そして今度は観念したように下を向き
「俺…いったいどうしたんだろう。あの日からかなぁ」
「あの日?」
「やっぱり…いえないよ」
何時もの健太らしくなく、歯切れが悪い。それでも少しづつ話始めた。
「父さんが生きてる時は、父さんと男湯に行ってたんだ。でも…でも亡くなってからは、母さんと女湯に行くようになって…」
(なるほど…)
健太の動揺の端っこを理解すると、ゲンタは少しリラックスし、あぐらに座り直した。
「その日までは、銭湯の洗い場を二人で走り回って母さんに叱られたりしてたんだ」
健太はこれ以上赤くなれないぐらい、真っ赤な顔になっていた。
「そのぉ、ある日寛子が湯船から出たんだ。湯気の中、ぼうっと見えただけだったのに、
白くて丸っぽくて…」
それまでは何とももどかしかったが、急に勢いよく
「ほらサッカーの合宿とか林間学校で、男子達と風呂に入るじゃない」
そして又、スピードが落ち
「そん時のと違って、なんていうか別の種族みたいに、白くてやわらかそうだったんだ。なんか俺悪い事したみたいな嫌な気持ちになって…。
その日からは、一人で男湯に行くようになったんだ」
「なるほど。それは男子として当然の成長の一旦ですよ」
キッパリ言い切ったその言葉に、健太の中のパンパンに張り詰めた羞恥心の空気が少し抜けたように落ち着いた。
緊張感のゆるんだ中、健太は躊躇しながらも
「俺…変じゃないの?」
「まったくもって、正常な反応ですよ」
ゲンタはまるで教師のように、机に飛び乗り健太より上の目線になった。
「四・五年せい頃になると、お互い体の変化がはじまります。女子は胸や尻が丸みを帯び、全体的にふっくらし、男子は逆に筋肉質になり頬がシャープになり丸みがなくなります」
健太は関心して聞き入ったが、戸惑ってもいた。
(ゲンタはなんでこんな話に、こんなに詳しいんだ)
「動物でいうなら、自分のよりよい遺伝子を残すという本能です」
「ところでゲンタ。なんでそんな事にくわしいの?」
等々と述べていたゲンタが、種明かしのように口調が砕け
「実は半年ぐらいの間、小学校の保健室の床下で暮らしていたもので、そういう知識が身についたのです」
無機質で白い保健室のイメージが、健太にまつわりついていた黒い霧を粉砕してくれた。
「よかった。こんな悩み母さんにもそうだんできないし、父さんが生きていてもできなかったとおもう。まして純也になんか相談したら面白がるだけだし。ゲンタがいてくれて本当によかったよ」
猫のゲンタにしたらこの事に関しては、全くのうけうりだったが、健太の悩みに少し貢献でき嬉しくて、より
「寛子さんが、何かを一生懸命やっている横顔をつい見ていたいとかありませんか?」
健太はまだ恥ずかしそうではあったが、変な孤独感からより開放されたく(うん…)とうなずいた。
「それにスカートとか、捲ってみたい衝動に駆られませんか?」
猫ゆえんのぶしつけな質問だったが、健太は十秒ぐらいの間の後、真っ赤な顔でゆっくり頷いた。
そして純也が言った掲示板に張られた絵を思い出した。あの時のかすかに感じた違和感の、理由が分かったように思えた。
いまゲンタを抱いている寛子には、掲示板の絵は子供っぽくすぎたのだ。
そこまで自己分析すると、深海に着地したようなものだ。観念した。そんな健太に、ゲンタは
「それはとっても素敵な感情で、人間でいうなら愛というものに続く素晴らしい感情らしいですよ」
健太は完全に自由になった。

 ゲンタが陽だまりの中で漫画を読んでいると、玄関が乱暴に開きそして閉まった。
聞きなれない乱暴な音に、ゲンタはピクリッと身を起こした。
そして、やはり乱暴に階段を上がってくる足音に、ゲンタは思わず机の下に隠れた。
襖が開くと、見慣れた健太の日に焼けた足が見えたので、ゲンタはほっとして机から出てきた。
しかし健太の顔を見て、ほっとした顔を険しくした。
「どうしたんです?」
健太の目の回りに、青い痣があった。
健太はランドセルを乱暴に置くと、畳に胡座をかいた。そして口を真一文字に噛み締め、窓の外に目を遣った。
ゲンタは、健太を見上げ
「どうしたんです?」
心配そうに、同じ質問を繰り返した。
「徹が虐められてたから、助けたんだ」
「で、殴られたんですか?」
「相手は六年生で、三人だったから」
「なんて、卑怯な…」
「徹は凄く太ってるから、時々からかわれたけど。今日は酷すぎたんだ」
「どんなふうに?」
ゲンタは自分の辛い昔を思い出し、沈んだ顔で聞いた。
「豚みたいに四つん這いになって、ブーブー泣けって言われてたんだ」
「酷い…」
ゲンタは、溜息交じりに呟いた。
「だろ?俺思わず相手が六年だったけど、飛び掛っちゃった」
「さすが健太だ!そんな卑怯ものは、やっつけちゃえ」
ゲンタは目を輝かせ勢いよく拍手をしたが、肉球のため音は出なかった。
「俺が怒ってんのは、徹の方だよ」
「えっ?」
ゲンタはどちらかと言うと徹のキャラに近い様に思え、まるで自分が怒られたように顔色を変えた。
「だって徹のやつ、豚の真似しようとしたんなだよ!惨めすぎるよ」
ゲンタは惨め過ぎるという言葉に、(自分だったら)と想像してみた。
しかし猫の場合は四つん這いになっても、余り変わらないので惨めさは感じなかった。
そんなゲンタに
「そうだ!痩せればいいんだよ」
健太の勢いに、豚の想像は消えた。
「痩せれば誰からも、からかわれない。
だろ?」
ゲンタは健太に抱上げられ、何だか分からないが解決したのだと、愛想笑で健太を見上げた。

 次の日、朝礼の後に徹が健太の後ろに寄ってきた。大きな身体に似合わない高い声で
「昨日…ありがとう」
振り返った健太の痣を見て、徹は顔色を変えた。
「もしかして、昨日の…?」
(昨日のに、決まってるだろ)と、思ったが
「気にしないで、いいよ」
安心させ、健太は徹の丸い肩に手を置くと
「それより、ねえ徹。もう虐められんの、嫌だろう?」
徹は健太をじっと見詰め、ゆっくり頷いた。同時に二重顎が膨らんだ。
「じゃ、痩せろよ」
単刀直入に、切り出した。
徹は当たり前のことを当たり前に言われると、大きくため息をついた。そして
「健太ぁ。痩せるって、そんな甘いもんじゃないんだよ」
諭した。
(お前は、デブのプロか)素人あつかいで肩透かしをくい、健太は剥きになった。
「豚の真似しろなんて言われるの、徹くらいだぞ。悔しくないのか」
健太の強い口調に、徹の顔から何時もの曖昧な笑みが消えた。そして
「そりゃ悔しいし、痩せたいよ。どんなに痩せたいか」
そして簡単に痩せろと言われ、徹は太っていることの辛さを一気に捲くし立てた。
「太っていて虐められるのも嫌だけど、ちょっと走っただけで苦しいし、体育の授業中ずっとお腹を引っ込めているのも辛いんだ。
服もバーゲンのが無いって、お母さんに言われるし。母さんは管理が悪いって、伯母さん達に嫌み言われるし…」
「じゃぁ、何で痩せないんだよ」
健太は逆切れぎみになっている徹に、呆れた顔で聞いた。
「痩せられないんだよ、どんなに努力しても」
今度は情けなく呟いた。
そんな徹に、健太は説得するように話始めた。
「うちの母さんが、東城病院で清掃の仕事してんだ。前に聞いた事があるんだけど、その研究室で大人が対象だけど、メタボ対策の基礎の冊子があるんだって」
徹は東城病院の研究室という言葉に、興味を持った。
「その冊子を、母さんに貰ってきて貰うよ。だから、一緒に頑張ろうよ」
「一緒に…?」
「うん。一緒に」
健太は言い切った。
徹はつられるように(うん)と頷くと、二重顎が蛙の腹のように膨らんだ。

 次の日の放課後、教室の片隅で健太と徹は、冊子を挟んで頭を突合せ真剣に話をしていた。
「まずは、運動だな」
「…」
「次に食事療法だ」
「何だ、代わり映えしないな…」
徹は明らかに興味を失ったように、手にしていた鉛筆を机の上に放った。
「文句いうなよ」
「…」
健太は、無言でいる徹の心の中が分かった。徹は研究室という言葉に、一瞬で楽に痩せられる特効薬でもあると期待したのだろう。
「徹、やるよな」
少し語気を強め、改めて確認した。
「うう…」
同意したが、どこから見てもしぶしぶだ。
「健康にも良くないって、書いてあるじゃないか」
「そりゃ、そうだけど」
「じゃ、やろうよ」
健太は、当たり前のように言い切った。
「う…」
(ん)は、聞こえないほど曖昧に答えた。
健太は声を落とし
「又、四つんばいに、させられてもいいの?一度やったら、エスカレートしていくよ」
徹は怯えた目になった。そして机の一点をじっと見ていたが、あの日の屈辱を思い出したかのように表情が険しくなった。
「分かった、やるよ。健太も一緒にやってくれるんだよね」
健太は、いつものはちきれる笑顔で頷いた。

 次の日の朝、健太は徹と三十分早く待ち合わせをし、校庭を走る約束をした。
今朝は一層冷え、健太は蒲団から出るのが辛いと思った。そう思いながら、いつのまにか二度寝をしてしまっていた。
「健太。走るんでしょ」
「ううん…あと五分…」
「健太。徹君の力になるんでしょ」
「そうだ!」
健太はガバッと蒲団を跳ね除けると、無言で着替えた。ばんそうこうを剥がすように、一気に起きたので寒さは感じなかった。

 健太は徹が本当に来るか、心配をしながら学校に向かった。
学校が近づいてくると、健太は徹の優柔不断な顔を重い浮かべ、来ないのではと決めつけた。
そして(自分が、こんなに頑張っているのに)と勝手に腹を立てた。
 しかし、校庭が見えて来ると、徹が走る姿が目に入ってきた。健太は思わず、校庭を囲む金網を掴んだ。
彼が走ると、一拍遅れて腹の肉が揺れた。
決して早くはないが、汗だくで苦しそうに歪んだ顔を見て、勝手に腹を立てたことを悔いた。
健太は早速ランドセルを下ろしながら、校門に向かった。

 走り終わると、徹が息を切らせながら目を輝かせ、
「お母さんが、はぁはぁ、ありがとうって。それから食事も、はぁはぁ、昨日貰った冊子の通り作ってくれるって」
息は粗かったが、いつに無くはっきりとした口調で礼を言った。
健太も息を上げ、満面の笑顔で徹に向かい
「俺さぁ。徹がもしかしたら、来ないんじゃないかって疑ったんだ。ごめんね」
徹は笑顔で首を横に振った。そして恥ずかしそうに、下を向き
「僕さ、太っていることで、今までずっと嫌な思いしてきたんだ。健太みたいに一緒に、ダイエットしてくれる友達なんていなかったし。
僕さ絶対痩せて、いじめた奴等を見返してやるんだ」
「うん。じゃぁ、まず三キロ痩せるのを目標にしよう」
こうなると、健太のゲーム心に火が付いた。
「今日さぁ、帰りに家によれよ。母さんが皆勤賞で、病院から優れものの体重計貰ったんだ。
体組計っていうんだ。体脂肪と基礎代謝量筋肉率とかも、計れるんだよ」
徹は、自分のでっぷりと膨らんだ腹を見下ろし
「じゃ、この肉の量とか分かるんだ」
言いながら、自分で摘んだ。
「あっ、そうだ、グラフ作ろう。こないだ算数で習った、折れ線グラフで」
「うん。頑張るぞ」
 
 徹を見送り、階段を上がってきた健太にゲンタは
「しかし徹君は、大きいですね…」
「だろう」
健太は帰っていく徹の背中を、窓から眺めながら語尾を上げた。
「でも、今日から変わるぞ。明日から毎朝、早く起こして」
「任せてください。なにしろ、たっぷり昼寝してますから」
(あっ)ゲンタは健太に頼りにされ、自嘲していた昼寝を自慢してしまった。
しかし徹のグラフ作りに気を取られていた健太は、気に留めず
「さてと。グラフを作るぞ」
机の椅子に掛かっているランドセルから、包含用紙を取り出した。
「何です?」
ゲンタはホッとして身軽に机に飛び乗ると、規則正しく並んだ升目の包含用紙を覗き込んだ。
「これで、折れ線グラフをつくるんだよ。えっと、どうするんだっけかな」
健太は大きく体を捻り、後ろのランドセルから、算数の教科書を取り出した。
「この縦線に体重の数字を書き込む、さっき計った体重が六十二キロだから…」
健太は誰に話すのでもなく、方眼用紙に覆いかぶさるように呟いた。
「でもって横線が日付だろ、今日が一月二十一日っと」
健太は削りたての尖った鉛筆の先を、縦と横の交わる一点に置いた。
方眼用紙の左上に、黒い一点が付けられた。
「今日からだ」
健太は、人指し指で鉛筆の黒い点を指し
「見てろよ。上の方にあるこの点が、段々下がってくるぞ」
まだ一点しか付いてない点から、健太の人指し指が右肩下がりの架空の点を指していった。
ゲンタは友達のために、こんなに一生懸命に目を輝かせている健太を眩しそうに見上げた。

 一ヶ月後の放課後、健太と徹は校庭の朝礼台の上に胡坐をかいて、グラフを睨んでいた。
最近逃げるように早く帰っていく徹を、健太はこの朝礼台の前でとっ捕まえた。
徹はまるで首根っこを捕まれたように、朝礼台に乗せられた。
「今週全然減ってないよ、おかしいと思わない?それどころか、ここ見てよ」
グラフの一部を、指差した。
「増えてるよね」
「ほんと、おかしいね」
徹は落ち着かない様子で、胡坐から正座に座り直した。
健太もつられるように、グラフに目を落としたまま正座になった。乾いてざらついた木の感触が、健太の脛に当たった。
健太は上目遣いで、徹を見ると
「食事はちゃんと、冊子の通りにしてる?」
徹は勿論というように、早く何度も頷き
「お母さんが、そりゃ一生懸命作ってくれてるよ」
健太は、腕組みをし
「ほんとに?」
もう一度、確認した。徹は膨れたほっぺたを、より膨らませ
「おかあさんが、ちゃんと作ってくれてるって言ったでしょ」

 徹と別れ十分位すると
「あっ、いっけない」
健太は(忘れてた)と、ランドセルを下ろすと中を覗き込んだ。
「あった」
緑の冊子を出すと、声を上げて読んだ。
「メタボの為のスイーツ。あいつ喜ぶぞ。お母さん大変だけど」
満足そうに、にんまりと笑った。
(俺の脚なら、直ぐに追いつける)ランドセルを背負い直すと走り出した。
 背中に汗が流れだした頃、住宅街から商店街に出た。
その商店街に、徹の後ろ姿が小さく見えた。徹の喜ぶ顔が早くみたくなり、大きく息を吸い
「とぉ…」
と言い掛けた時、徹の姿は店の中に消えた。健太は徹を呼ぼうとして吸った息を、そのまま飲み込んだ。
店に近づくと、徹がビニールの袋をぶら下げ出てきた。健太は何故か、声を掛けずに後を付けた。
歩き出して一分もしないうちに、健太が後ろにいるとは夢にも思っていない徹は、立ち止まりビニール袋の中を覗いた。
丸い手が袋に入ると、なんと油ぎった茶色いから揚げが出てきた。
そしてそれを、おもむろに口に放り込んだ。
健太は自分の目を疑った。そして、袋の膨らみを見て
(あれ全部、から揚げかよ!)怒りの前に、驚きが沸いた。
徹は満足そうに口を動かしながら、力士のように再びゆっくり歩き始めた。
一つほおばると、まるでメトロノームのような正確なリズムで、から揚げを口の中に放り込んで行った。
そのから揚げの数と比例して、健太の心に怒りが膨らんでいった。
今、徹に声を掛けたら殴ってしまうと、健太は立ち止まり再び小さくなって行く徹の後ろ姿を睨んだ。
健太の心は怒りから虚しさとに変わり、そして孤独感に襲われた。
すると無性にゲンタに、会いたくなった。

 家に近づくと、孤独感は再び怒りに変わった。二階に上がり、思い切り襖を開けた。
「ゲンタ!」
しかし、ゲンタの姿はなかった。ゲンタが居ることが、当たり前になっていた。
父が亡くなるまで、母親の信子が当たり前のようにいたように。
健太は急に不安になり、徹への怒りは消えていた。
「ゲンタ…」
電車の汽笛と共に、茜色に染まっていた四畳半は一層暮れた。
健太はゲンタがこの家に来た日を、思い出した。暮れた部屋で膝を抱え、ゲンタと共に壁に凭れていた日を。
あの時はゲンタがこんなに大切な存在になるとは、思ってもいなかった。今はまるで親友であり、兄弟のような存在になっていた。
猫が喋るという非現時的なゲンタの存在は、突然居なくなってもなんの不思議もないように思えた。
健太は父を亡くした時の悲しみに、再び襲われる恐怖を感じた。

 「健太、帰ったの?」
階段の下で、信子の声がした。
(まさか…母さんが…)
健太はもの凄い勢いで階段を降りた。最後の二段は、踏み外し滑り落ちた。
「母さん。ゲンタ、知ら…」
いい終わらないうちに、信子の腕の中に喉に包帯を巻いたゲンタの小さな姿を見つけた。
ゲンタの姿が見えなくなってから、初めて呼吸をしたように、大きく息を吸い吐いた。
「どうしたの?」
ゲンタを見詰めたまま、信子に尋ねた。
信子は呆れ顔で、ゲンタを無造作に健太に押し付けた。
「まったく、猫の癖に。隣の犬が吠えたら、階段の上から落っこちたのよ、」
健太はゲンタを抱きながら、黙って信子の話を聞いた。
「その時、階段の角で顎を打ったの。血が出たから、獣医さんとこに行ってきたのよ」
そう言うと、台所の水道で長い間手を洗った。洗いながら、振り返り
「お陰で晩御飯が、遅くなっちゃったわ。
急いで作るから、手伝ってちょうだい」
「う…うん」
信子の苛立ちに、健太はゲンタが気になったが、ゲンタを茶の間に置き。
「何すればいい?」
横目でゲンタを伺いながら聞いた。
ゲンタは普通の猫の様に、後ろ足で耳の後ろを掻いていた。心なしか、何時もより普通の猫の真似が上手に感じる。
健太の心に、再び不安が蘇った。
喉の怪我がきっかけで、話せなくなったら。いやそれより普通の猫に戻ってしまっていたら。
「今日は、オムライスで我慢してね」
我慢してねと言う言葉の割には、語尾が強かった。
「うん」
「卵を四個、割って頂戴」
健太は冷蔵庫から卵を取り、伏せてあったボールを用意した。
早くゲンタと二人きりになり確かめたく、焦って卵の殻がボールに入ってしまった。
苛立ちながら小さな殻を取ろうとするが、殻は摘む瞬間にスルリと逃げる。何度挑戦しても逃げる。
何故か健太の目に涙が溢れた。
同時に野菜を炒める、ジャーという威勢の良い音がした。
健太の涙を知らない信子が、炒めながら振り返り、その仕草が可笑しかったのかクスリと笑った。
「もういいわよ。母さんが取るから、出来たら呼ぶから猫と二階に行ってなさい」
「はい」
健太は短く返事をするなり、ゲンタを抱いて階段を駆け上がった。
襖を閉めると電気も付けず机の上にゲンタを上げ、見詰めたまま自分もゆっくりと椅子に腰をおろした。
暗闇の中で、心臓が痛くなるほどドキドキした。ゲンタも静かに健太を見上げていた。
「ゲンタ」
「…」
ゲンタはじっと健太を見上げながら、返事をしない。健太は大きく息をすうと、もう一度
「ゲンタ、まさか…口がきけなくなっちゃったの?」
「いいえ」
健太は大きな溜息をつくと、椅子の背もたれに勢いよく持たれた。そして
「何で、直に返事しないんだよ。心臓が止まるかと思ったぞ」
大きな声を出してしまい、襖を気にした。
「申し訳ありません、健太があんまり怖い顔で見詰めるんで。お母さんに迷惑かけしまった事を、怒っているのかと思って」
ゲンタは健太の勢いに、腰を引いて言い訳をした。
「良かった…」
ゲンタが今まで通りのゲンタだと分かると、やっと落ち着き蛍光灯の紐を引いた。数回の点滅の後、部屋は昼間のように明るくなった。すると徹への怒りがぶり返した。
「ゲンタ、驚くなよ。徹のやつ、とんでもない奴だったんだ。
毎朝早く起きて付きやってやったのに、あいつから揚げつまむ食いしてたんだ。絶対に許さない」
健太は鼻の穴を膨らませ、いっきにまくし立てた。その時、下から信子の呼ぶ声がした。
「オムライス、出来たわよ」
「はーい」
すきっ腹が勝ち、健太は慌ただしく階段を駆け下りた。

 健太はパジャマに着替え、タオルで頭を拭きながら襖をあけた。ゲンタは既に、蒲団の中で漫画を読んでいた。健太も蒲団にもぐり込み
「あったけー」
と目を瞑った。ゲンタは健太が寝る少し前になると、蒲団の足元で丸くなり温めた。
「明日、徹の奴、どうとっちめてやろうかな」
天井を見詰め呟いた。ゲンタは漫画を置き、暫く黙っていたが
「健太」
「うん?」
「徹君の事だけど…」
「心配いらないよ。手は出さないから」
「そうじゃありません。そのう…徹君が体重を計りに来た日、感じたんです。どこか私に似ているようだと」
「ゲンタは、徹なんかとは全然違うよ」
「いえ。健太は正しいと思ったことは、今度の事みたいにやり通しますよね。でも、そんな人間ばっかりじゃないと思うんです。弱い人間もいます」
「でも、から揚げたよ。その十分前に、ちゃんと食事制限してるって言ったくせに。弱いとかいう問題じゃないよ」
ゲンタも当然、一緒に怒ると思っていた健太は、ゲンタにつっかかった。
何時ものゲンタなら、ここで(そうですね)と引き下がった。しかし今日のゲンタは窘める様に
「勿論、健太の言っている事は、正しいですよ」
まずは、肯定した。自分の言っていることを認められ、健太は少し落ち着いた。
「健太がお母さんに頼んで、冊子を貰ってきたり、早く起きて一生懸命ランニングに付き合ったり、グラフを作ってあげたりしたのに、嘘をついて一番食べちゃいけないから揚げを食べるなんて最低です」
健太は、満足そうに頷いた。
「話は少し、脱線しますが。徹君にいいところは、一つもありませんか?」
健太は話が急に変わり戸惑ったが、少し考えるように黙った。
そして音楽の時間の出来事を、思い出した。歌のテストで一人づつ歌っていった中で、徹が女子のような高く透き通る声で歌った事を。
その素晴らしい歌声に、皆は口を開けて聞きいった、一番驚いたのは音楽の先生だった。
先生はテストを中断し、ピアノの鍵盤を一つ叩いては徹に音階を尋ねた。
次々に答えて行く徹に、先生は感嘆の声を上げた。
「凄い、絶対音感の持ち主だよ」
健太は何の事だか分からなかったが、なんだかかっこいいと思った。
 「そうだなぁ。歌が凄く上手なとこ…かな」
「そうでしょ。皆、得意なものは違います。だから逆に、世の中うまくいくんですよ」
「ねぇ、ほんとに…十歳だよね」
「はい…。なにぶん、苦労が多かったもので」
健太は初めて会った日を思い出した。しかしあの日とは違う、もっと深い思いでその言葉を聞いた。(いったいどんな苦労を、してきたのだろう)と。
「健太も片付けが苦手ですよね。漫画を見つけると読み耽ってしまうし、友達から電話があれば行ってしまう。静かだと思うと、居眠りしている」
ゲンタは言い過ぎたと言葉を呑んだが、健太はゲンタの言おうとしていることが、分かるような気がしてきた。
「それに健太は、徹君の為に走ってあげたと言ったけど、健太の身体も随分締まりましたよ」
健太も思っていた。元々足は速かったが、最近走った時の景色が、前より早く過ぎるような気がしていた。
「一見、健太が徹君の為に行動しているようでも、お互い影響しあってる所もあると思います」
そして、ゲンタは急に声を落とし
「私と健太の場合は、私が一方的にお世話になっているんですけど…」
目線を落とした。今の言葉で健太はゲンタの言いたいことが、ストンと心に堕ちたような気がした。
ゲンタからも、沢山のものを貰ってきたからだ。
「もう寝ようか」
「はい」
「お休み」
「お休みなさい」
 寝たまま灯りを消せるよう、蛍光灯に長く付け足された紐を引っ張り灯りを消した。
そして、暗闇の中で
「明日、徹に言うよ。もう少し、ゆっくりやっていこうって」
「そうですね」

 次の日徹は何度も健太と顔を会わせたが、あからさまに逃げた。
なんとなく、後ろめたい気持ちがあるのだろう。
それには健太も、傷ついた。
昨日ゲンタと話したように、今日は(もっとゆっくりやっていっこう)と優しく言ってあげるつもりだったのに。再び怒りがぶり返した。

 下校の時、健太は思い切り徹の丸い肩をつかんだ。
徹はまるで銃で撃たれたように、一メートルもすっ飛んだ。
「俺見たんだぞ。昨日のから揚げ!」
話している自分の声に興奮し、昨日の穏やかな気持ちは消えうせた。
「ごめん。本当にごめんよ」
徹はじりじりと後ずさりした。健太はその態度に余計に腹がたった。
健太はきちんと話しあおうとしているのに対し、ただただ謝って逃げようとする徹に、怒りが頂点に達し、大きく息を吸った時
「怖かったんだ…」
言い訳をするのかと思っていた健太にとって、意外な言葉だった。
「でも、へ…ヘルシー料理は、お母さんが毎日一生懸命作ってくれてるんだ」
「そんなお母さんを、よく裏切れたね!」
健太の怒りはより強くなり、鼻の穴は怒りで膨らんでいた。
健太は怒りから意地悪い気持ちで、まさかという言葉を口にしてみた。
「最初っから、本気じゃなかったりじゃないよね」
「…」
(うっそ!)
「からかった奴を見返すって決意の表情も、全部嘘だったの?」
「…」
健太の思考が、根本から崩れだした。
すると逆に徹の本心をゆっくり聞きたくなった。
「俺は徹が豚の真似しろなんて言われてたから、徹の為に何とかしようと思ったんだ。
痩せれば解決できると思って、俺も一生懸命協力してきたのに」
「徹の言ってる事は分かってるし。本当に感謝してんだ」
健太は無言で黙っていた。徹はしかたなさそうに続けた。
「太ってるから外に出たくなくなって、家の中でお菓子たべながらゲームや漫画読んでたら。ついにこんなになっちゃって」
健太は話の先がどういくのか、予想もつかず黙っていた。
「健太くんから、声を掛けられた時は、ただただ怖かったんだ」
怖かった?ただ徹の為にと思ってきたことが、単なる怖かっただけだったのか。
「俺のことがが…?」
徹は怯えた顔だったが、確り頷いた。
あまりの以外な答えに、言葉が出なかった。
「だって健太君は人気者だし、クラスのリーダーでしょ。そんな健太君が急に僕なんかに話しかけてきたんだもの」
ここまで打ち明けると、徹の怯えも落ち着いてきたようだ。
「ただただあの場から、逃げたかったんだ」
「そんなに、俺って怖い…の」
あっけにとられ、確認した。
徹は上目使いで、再び頷いた。
健太は昨日のゲンタの言葉をゆっくり思いかえした。
人によって価値観は全然違うんだ。
健太は自分が徹からそんなふうに見られていたことに動揺した。。
今度は健太がゆっくりと
「俺のことが怖いから。ただそれだけであんなに上手に心にもなく合わせだけだっていうの?」
「ごめんね」
健太の心から、怒りや攻めの気持ちはは消えた。それどころか恥ずかしくて、視線が下がった。
自分の考えだけを押し付けてきたことに、申し訳ない気持ちになった。
その時、純也が寄ってきた。
「何やってんの?」
ダイエット計画の事は徹の願いで、皆に内緒にしてきたので、勿論純也も知らなかった。
あまり見ない組み合わせに、純也は二人の顔を交互に見た。そして
「そういえば、徹少し痩せたんじゃない」
こもっていた空気に、風が吹いた。
徹は吃驚した顔で健太を見た。
健太は純也の言葉に、胸に熱いものがこみ上げた。
それほど徹の言葉が、健太にショックをあたえていた。しかしそれでも結果が出ていたことが、本当に嬉しかった。

 「健太―っ。買い物行ってきて」
二階でゲンタとジグソーパズルをしていた健太は、「はーい」と返事をして手に持っていたピースを箱に戻した。
ゲンタはピースを持ったまま、真剣な目でパズルを睨んでいた。そんなゲンタに
「行くぞ」
健太は立ち上がった。
「行ってらっしゃい」
「行ってらっしゃいじゃないんだよ。一緒に行くの」
ゲンタは浮かない顔で、窓の外を見た。
隣の塀越に葉の落ちた柿木が、細い枝を寒そうに震わせていた。
ゲンタは視線を健太に戻すと
「余り、気が進まないんですけど…」
眉を潜めた。しかし健太は立ち上がり、「駄ぁ目」と言い切り、ジャンパーの袖に腕を通しながらゲンタを抱き上げた。
「えーっ。健太が買い物に行ってるあいだに、私がパズルを完成させるのが悔しいんでしょ」
ゲンタは健太のジャンパーに入れられ、恨めしそうに見上げた。
「当たりまえじゃないか」
言うなり、電気を消してしまった。
「もーっ」
暗い中で、ゲンタのぼやきが聞こえた。
「いいじゃないか。晩御飯食べたら、又一緒にやろう」
チャッ、とファスナーを半分上げた。
「はい。しかし、やっぱりここは暖かい」

 健太は、階段を駆け下りると。
「何、買うの?」
長葱を切っている信子の隣に並んだ。信子はニヤッと笑うと
「牛肉を、買ってきてちょうだい」
健太の喜ぶ笑顔を待った。
健太は茶の間のお膳に並んでいる、カートリッジ式のガスコンロと小鉢の生玉子を見て
「やったーっ。すき焼き!すき焼き!」
大声を上げて飛び跳ねた。ぎしぎしという床に
「こら。床が抜けちゃうわよ」
信子は息子の成長を喜びながら諌めた。
 
 健太は使い古した運動靴を引っかけ、玄関を出た。
「さぶっ」
日が落ちると気温が一気に下がり、さすがの健太も肩をすくめた。ゲンタはジャンパーの中から顔を出し
「あれ。それ、お父さんの手袋ですね」
健太は、指先の余った手袋をかざし
「そうだよ。いつか指先が余らなくなる日がくる。そしたら母さんに、うんと楽させてあげるんだ」
「その日が、早く来るといいですね」
ゲンタはジャンパーの中で揺られながら、健太のはちきれる顔を嬉しそうに見上げた。
「ダッシュするぞ、しっかりつかまっていろ」
そう言うなり、走り出した。
「ちょっ、ちょっと待って下さいよ。私は足が悪いもんで、スピードには慣れてないんです」
ゲンタはジャンバーにしがみ付き、しっかりと目を瞑った。そんなゲンタを見下ろし
「本当に弱虫だなぁ。男だろ」
「面目ありません」
ゲンタは目を瞑ったまま、胸を張ってみせた。健太は(まっ、いいか)と苦笑した。

 「健太、起きなさい。雪よ!」
階段の下から弾んだ信子の声に、健太は蒲団を跳ね除け窓を開けた。
「わーぁ」
冷え切った空気が健太の身体を一瞬で包んだが、健太は白い息を吐きながら目を輝かせた。
窓からの景色は、たった一晩で銀世界に変わっていた。
 健太はかき込むように朝食を食べると、父さんの手袋をはめ玄関に向かった。
「そんなに焦んなくても、雪は逃げないわよ」
食べ終えた皿を重ねお膳を拭きながら、信子は笑顔で呆れた。
健太はまだ、口をもぐもぐ動かしながら
「純也達と、授業前に雪合戦するんだ。この父さんの手袋で、固くにぎってやるぞ」
健太は左の手のひらを、右の拳で叩いた。
 表に飛び出し数歩あるくと、慌てて履いた運動靴が脱げてしまった。
健太は苛々しながら、隣の家のフェンスに手をかけ靴を履き直した。
その時、隣の犬が飛び掛かってきて、一瞬で手袋をくわええ持っていってしまった。
「何するんだ!」
健太は顔色を変え、フェンスを登ろうとした。しかし健太の背丈と同じ高さのフェンスは、健太がどんなに登ろうとしても超えられない。
その間にも、目の前で大切な手袋がかじられていた。
 昨日すき焼きの肉を買った時、途中で紙袋が破れてしまった。健太が慌てて入れ直そうとして、手袋に肉汁がついてしまったのだ。
犬は興奮し前足で手袋を抱え咥えると、首を左右に振り出した。
健太は何も出来ないまま、拳を握っているしかなかった。
すると何と、そんな健太の横をゲンタが擦り抜けた。
真っ白い雪の上をゲンタが、犬に向かいまっしぐらに向かって行ったのだ。
「ゲンタ、やめろ!」
健太は慌てて、手袋を取られた時より大きな声で叫んだ。
しかしゲンタは振り向こうともせず、犬に向かった。あんなに臆病なゲンタが、なんと毛を逆なで爪を立てて犬に飛び掛って行った。ゲンタの小さな爪が、犬の鼻に食い込んだ、キャーンッという犬の高い声が、銀世界に響いた。
しかし相手は犬だ、頭を大きく振るとゲンタはあっけなく雪の上に振り落とされた。
落ちたゲンタを再び咥えると二・三度振り、雪の上に投げつけた。
「ゲンタやめろ、やめるんだ。」
健太は叫びながら再びなんとか、フェンスに登ろうとした。しかし両足は同じ位置で滑るだけだ。
ゲンタは健太の言う事を聞かず、再び犬に向かった。
「ゲンタ、戻るんだ!」
健太の叫びは涙声になっていた。
フェンスを握り締め叫ぶ事しかできず、健太は泣きながら途方にくれた。
健太の、尋常ではない叫び声に
「健太!」
信子が血相を変えて飛び出してきた。健太の無事な姿を確認し、少し安心した信子は健太の視線の先を見た。
「ゲンタ…」
眉を寄せ、初めてゲンタを名前で呼んだ。
そして隣の門に走って行き、
「奥さん!奥さん!」
呼び鈴を鳴らし、大声で叫んだ。
ゲンタは何度も噛まれ投げ飛ばされ、それでも向かっていった。ゲンタの身体は、見る見る赤く染まっていった。
呆然としている健太の元に、ゲンタが手袋を咥えよろよろとやっと戻ってきた。
健太は、しゃくり上げながら
「なんでだ。なんで俺のいうこと聞かないんだ…。こんなになって…」
ゲンタをそっと抱き上げると、咥えていた手袋を受け取った。
「お父さんの手袋…守りました。男らしかったですか?」
「ああ男らしかった、ほんとに。直ぐに、お医者さんに行こう」
「いえ…。このまま抱いて居てください」
ゲンタの声は、消え入りそうだった。
「私は健太の事が、大好きです。一緒に居た時間は、夢のように楽しかったぁ…」
「俺もだよ…俺たち親友だ。だからお医者さんに行こう。又元気になって一緒に遊ぼうぜ」
「私は…もう駄目です」
「そんな事言わないでよ。お願いだよ」
ゲンタは力なく、横目で手袋を見ると
「ああっ。そんなに血を付けちゃって、私って本当に役立たずですね」
「なに言ってんだ。父さんの手袋守ってくれて有難う。本当に有難う…」
ゲンタは
「よかった…」
健太の涙が、ゲンタの顔にぽたぽたと落ちた。
「健太、男は泣いちゃいけませんよ」
といって、健太の腕の中で静かに目を閉じた。
「ゲンタ、死なないでよ…ゲンタァ」
健太は、ゲンタの小さな体を抱きしめた。
信子も息を切らせ戻ってくると、健太の泣きじゃくっている肩を抱きしめた。信子の目にも涙が溢れ、そして怒りに変わった。
「前から犬を繋いでおくように、言っていたのに…」
そして、踵を返し再び隣の家に向かった。
「奥さん。出てきてもらえます!」
その時、声を上げ泣き続ける健太に、ゲンタが申し訳なさそうに片目を開けた。
「あのぉ…」
「エッ?」
涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔で、健太は目を丸くした。
「あのぉ。ほんと、間が悪くてすいません…」
「エッ?」
健太は同じ言葉をはいた。
「この血は私のではないようです。犬の鼻の血みたいで…」
「い、犬の血?」
「さようのようで」
(さようのようで…)
健太はゲンタの体中を触って、怪我の様子を調べた。するとゲンタの言ったと通り、擦り傷だけで大きな傷は見当たらなかった。
健太は深く目を瞑り
「まったく、紛らわしいんだよ!」
しかし、余りの嬉しさに又泣いた。
そしてまだ隣のドアを、必死に叩いている信子を横目で見た。
「おい…母さん、どうすんだよ」
ゲンタの耳元に囁いた。ゲンタが振り向くと、髪を振り乱し鬼のような形相で、ドアを叩き続けている信子の姿が見えた。
「どうしましょう…」
「どうしましょうじゃないよ。見てみろよ、力入れすぎて、がに又になっちゃってるし」
「ほんと、ひどいですね」
「お前がゆうな!」
健太は、嬉し涙で怒鳴った。










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