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作品名:放課後の親友 作者:munnko

第1回   1
 放課後の親友
  
 健太と寛子が小学校の門を出ると、純也が後ろから息を弾ませ追ってきた。
「待ってよぉ」
健太は振り返り、純也の姿に
「あれで、走ってるつもりかなぁ」
ランドセルを背負い直し、呆れ顔で呟いた。
「ほんと、足踏みしてるみたい」
隣に並ぶ寛子も、ころころと笑いながら同意した。
寛子の言うように、必死な表情とは裏腹に純也の体の大きさはなかなか変わらなかった。
 やっと追いついた純也が、両手を膝に付き息を切らせた。
「息切らせるほど、早く走ってないじゃないか」
「しょう…がないだろ。五年で一番、足が遅いんだぞ」
「威張る所かよ」
その時、学年一番のデブッチョの徹が、体の大きさとは裏腹に、息を潜めるように壁ぎりぎりをあるいていた。
純也はそんな徹を目ざとく見つけると、まだ息を切らせてるくせに、
「さすがに…あいつには、負けないだろうな」
そして自分をさしおいて、徹に声をかけた。
「おい、徹そんなに端っこ歩いてると、ほっぺたがこすれるぞ」
少し息が整い始めた純也がちゃかした。そして今度は声を落とし
「そういえば徹のやつ、何時もは無反応な癖に、こないだの身体検査の体重計の時だけ、突然暴れ出したんだって」
こういゆうゴシップめいた情報は、純也はどういう訳か収集が早い。
「先生が三人係りで、何とか体重計に乗せたんだけど。そしたらさ…」
純也はたまらないとばかり、一人でニヤつき
「聞いてよ。押さえつけている先生の体重も
加わっちゃたり、逃げようとして、はみ出した足を体重計に乗せたり…」
ここまで言うと、たまらないとばかり噴出した。
「やっとこさっとこ、計りに押し込み体重を計ったんだって」
純也は徹の醜態ぶりを、健太に同意を求めたが、健太はそれには反応せず
「そういえば寛子の絵、又展示板に張られてたよ。すごいな」
きりっと三網みした寛子の表情が、かすかに緩み
「まぐれよ」
「まぐれなんかじゃないよ。寛子の絵は毎年選ばれてんだから」
純也は自分の話題を無視された形になったが、余り気にも止めず寛子の絵の話に乗ってきた。
その点では、純也は臨機応変な性格であった。その純也が今度は寛子の絵の批評に興味を持った。
「でも寛子の絵って、いつもお日様とか花とかさぁ、なんか明るいけど漫画みたいじゃない?」
純也はある意味、鋭い触覚のようなものを持っていた。
健太は(言われてみれば)と去年まではただ綺麗な絵だと思っていた。そしてその明るい色使いが寛子の性格そのもののように思えた。
しかし純也の批評に(なるほど…)と少し心が動いた。
去年まで明るい色が寛子そのものだと思っていたのと同じように。最近の寛子自身のイメージが健太の中で変わってきていた。
今の絵と変わった寛子のイメージが、今の絵と違ってきたように思えた。
しかしそれが、何かは分らなかった。
そして何時もは純也の批評など相手にしない寛子も、今回は珍しく黙って聞き入っていた。
 垣根に沿って歩く三人に、北風が吹きつけた。
純也はたまらないと細い体を寄り小さくし、ジャンバーのポケットに両手を突っ込んだ。
「健太、半ズボンで寒くないの?」
純也は肩を竦め、目玉だけを健太に向けた。健太は自分の足を見下ろし
「全然!」
はちきれそうな丸顔で、肩をいからせた。
「威張っちゃって、風邪引くわよ」
寛子はいつもの確りとした眼差しに戻り、三編みを勢いよく背中に戻しながら、大人びた表情で言った。
「ほんとに、寒くなんかないよ」
と同時に大きなクシャミをしたので、三人は一斉に笑った。

 垣根が途切れると、左に曲がる純也が、
「家に寄らない?」
二人を誘った。
「いいよ」
健太は直ぐに答えたが、寛子はお姉さんぶって
「私はピアノのレッスン。いいわね、何も習い事が無い人達は」
「別に、来なくたっていいよ。なっ?」
純也は口を尖らせ健太に同意を求め、小石を蹴った。
「だよな」
純也の蹴った石を、今度は健太が蹴った。
「あっ。僕の石だぞ」
健太の前に 純也の背中が滑り込んだ。
「ははは、名前が付いてんですかぁ?」
「名前はなくても、僕のだぞ!」
「ほんとだ、名前はないけど顔が付いてた。よし踏んづけちゃえ。えい」
「やめてよぉ」
必死に止める純也に
「馬鹿みたい」
寛子は、三つ編みを背中に戻し歩き出した。
 寛子と分かれて直ぐに
「きゃぁ」
寛子の小さな悲鳴が聞こえた。二人は顔を見合わせ、慌てて寛子の後を追った。
「寛子、どうした?」
立ち止まっている寛子の背中に、声を掛けた。寛子は振り向かずに、ごみ袋の山を指した。
「動いたの…」
健太達も寛子が示した、ごみの山に視線を移した。すると一番上のゴミ袋が、ごろりと落ちた。
同時に寛子が今度は大きな悲鳴を上げ、健太の背中にしがみついた。
「な…何すんだよ…」
健太は丸い顔を赤くし、肩を大きく回し寛子の手を払おうとした。しかし
「見てきてよ」
口だけは命令口調で、肩を押された。
「押すなよ…」
振り返ると、寛子の後ろに純也が隠れていた。
「全く!」
健太は仕方なく、大きく溜息をつき歩き出した。
 右手を出来るだけ遠くに伸ばし、腰を引きながらゴミ袋を上げた。しかし中を覗くと、ほっとした顔に変わった。
「なぁんだ。来て見ろよ」
健太は袋を持ち上げたまま振り返った。
未だ脅えている二人に
「子猫だよ」
子猫という言葉で、二人の表情は一変した。
「子猫?」
寛子が弾んだ声で近寄ってきた。目を輝かせ袋の下を見たが
「やだ!」
眉を寄せると顔を背けた。後から来た純也も大きく顔を歪め言い放った。
「きったねぇ…、早く袋を降ろしちゃえよ」
そんな二人を
「かわいそうじゃないか」
健太は、真顔でいさめた。

 ゴミ袋の合間にいた猫の左目は潰れ、右眼には目脂が付いていた。毛は汚れで身体に絡み、しかも尻の毛が疎らに抜けていた。
健太が手を伸ばそうとすると
「止めなさいよ。病気がうつるわよ」
潔癖症の寛子が、生理的に強い口調で止めた。すると子猫はまるで、隠れようとするかのようにより奥へ歩いた。
健太は姿勢を低くして、奥を覗きながら苦しそうな声で寛子を責めた。
「寛子がうつるなんて言うから、気にしたじゃないか」
「そんな訳ないでしょ。猫よ」
すると純也は、寛子を加勢するように、
「寛子ぉ、見てみろよ。おまけにこの猫、足を引きずってるよ。」
大げさに、身体を引いてみせた。
しかし寛子は、純也の言葉には相手にせず
「私帰る」
寛子の癖である三つ編みを背中に戻し歩き出した。
健太はゴミ袋を除き込みながら
「おい純也。給食のパン出せよ」
食の細い純也は、必ず食パンを一枚持って帰った。
「そのきったない猫に、あげるつもり?」
「だって震えてるよ。きっとお腹が空いてるんだ」
純也は黒いランドセルから、しぶしぶ食パンを出し健太に渡した。
「僕も帰るよ」
溜息交じりに言い捨てると立ち上がり、猫に執着している健太を後にした。
「ああ…」
健太は振り返らず生返事を返すと、食パンを千切り白い部分を猫の前に置いた。

 辺りはオレンジ色の、夕日に染まりだした。一層冷たくなった木枯らしが、健太の頬に吹きつけた。
「速く食べな。お腹空いてるんだろう、そんなに痩せて」
しかし子猫は蹲り、身じろぎもしない。
健太は両手を擦り(はぁ)と息を吹きかけては、冷たくなった頬を暖めた。
「ほら食べないと、死んじゃうよ…頑張れ」
それでも子猫はじっと、地面を見詰めるだけだ。たまに肉球で顔を舐めるだけで時間は過ぎて行った。
しかし健太は何故か諦めなかった、一匹でじっとしている小さな猫が気になった。
健太の父は事故で亡くなったため、母がパートで働くようになった。
遅番の日には、長い間寂しい思いをしていた。初めのうちは母親がいないことが寂しくて心細くてよく泣いたものだった。
そんな健太は、寒い夕暮れに小さな子猫を一人ぼっちに出来なかった。
相手は猫だというのに、心細さが痛いほど健太の胸に染み、何とかパンを食べさせようと声を掛け続けた。
鮮やかなオレンジ色の景色はすっかり暮れ、風はいっそう冷たく吹いた。
健太の半ズボンのももにも、容赦なく吹き付けた。健太は堪らなく頬を擦ったり足を擦ったりしだした。
(俺はハエか…)
しゃがんでいた足も痺れ出し、健太はトントンと股も叩かなければならなく大忙しだ。
すると
「有難うございます…」
木枯らしにのって、弱々しい声が聞こえた。
健太は周りを見回したが、暮れかけた冬の路地はただ風が吹き抜くだけで人影はない。
「そのぅ…私です」
健太は目を丸くして、再びゴミ袋の奥を覗いた。するとゴミ袋の下から猫が首をもたげ、申し訳なさそうに見上げた。
(まさかな…)健太が、鼻で笑った瞬間
「私なんです…」
健太の目の前で、猫が口を動かしはっきりと喋った。
健太は生まれて始めて腰を抜かし、その場に尻餅をついた。
猫は後ろ足を引きずりながら、ゆっくり出てくると
「脅かして、済みません」
ぺこりと、頭を下げた。
「お…お前、喋るのか?」
健太は尻餅をついたまま、突拍子もない声で猫に向かい聞いた。
「はい」
「(はい)じゃないよ」
健太は起きている事が理解出来ず、訳のわからない受け答えになった。
「驚かれるのも無理はありません。私も実際話したのは、生まれて初めてでして」
猫は、恐縮しながら答えた。
「じゃぁ、何で俺に話しかけたの?」
健太はまだ躊躇しながらも、仕方なく猫に尋ねた。猫はうな垂れて
「いやぁ、私とした事が」
猫は伏し目がちに
「こんな醜い私に、こんなにも優しくしてくれたのは貴方が始めてです。感動して、ついお礼の言葉が口を突いてしまったんです」
「そうだったんだ…」
猫は顔を上げ
「それとですね。さっき子猫と言って頂いたんですけど…」
「エッ!猫じゃないの?」
健太はもう何が起きても、おかしくないように思えた。
「まさか。そっちじゃなくて」
猫は一丁前に含み笑いで否定した。
「そのう…私、結構いってまして」
「子猫じゃないの?」
「はい。期待を裏切るようで、申し訳ありません」
「そんなに、小ちゃいのに?」
「栄養失調の所為で発育不全で。子というより、貧相という形容の方が適格かと…」
「そう言われれば…」
健太はつい、じろじろと訝しげな顔で見下ろしてしまった。猫は気まずそうに顔を逸らしたので、健太は慌てて
「ご…ごめん。でっ、幾つなの?」
健太はいつの間にか、猫と普通に話していた。
「人間で言うなら、十歳位ですか…」
「なんだ、俺と同じじゃないか。それにしては、話し方がおっさん臭いな」
「何分、苦労が多かったもんで」
「そうなんだ。ところで、何でパン食べなかったの?こんなに長い間」
健太は足を摩りながら、鼻をすすった。
「ええ。私のような猫に、餌などくれる人など居ませんでした。それが一度、やはり小学生がパンをくれたんです。私は周りなど見ず夢中で食べました」
そこまで聞いて、健太は予想が付いた。
「その子達も棒でちょっとからかおうとしただけだったのでしょうけど、私が怯えてよけようとして、かえって眼に刺さってしまったんです」
「酷いな。そんなやつがいるんだ」
正義感の強い健太は、芯から腹が立ち怖い顔になった。
「それ以来というもの恐ろしくて、警戒心が強くなってしまって」
「そりゃそうだよね」
しみじみと、傷ついた片眼を見てしまった。しかし話を変え
「ところで、名前は何て言うの?僕は健太っていうんだ」
「私に、名前なんてありません」
猫は溜息混じりに呟いた。
健太は余計にど壺にはまってしまったと、焦った。
それと共に、頭をうな垂れた痩せた猫が、しみじみ気の毒になった。自分と同じ歳まで、名前も付けてもらえなかったのか。
健太は自分が産まれた時、お父さんが名前を決めるのにそれは色々迷ったという話を思い出した。
健太は元気を出させようと、思いついた。
「じゃぁ、俺が名前付けてやろう」
健太は少し空を見詰め、そして
「俺が健太だから、ゲンタにしよう!」
すると猫は、少し俯き
「あまり、ぱっとしませんね」
腰が低い割には、自己主張したが
「そうだゲンタ!いい考えがある」
名前は、ゲンタに決まった。
「何も、話せる事を隠す必要なんかないよ。皆にこの事を知らせれば、ゲンタはテレビやショーに出られるぞ、一躍スーパースターだ」
健太は右手を高く上げ
「喋る猫登場」
目を輝かし、空に文字を書いた。
しかしゲンタは、首を横に強く振り
「とんでもありません。しゃべる事がばれたら、それは不幸の始まりですよ」
健太は、良い思い付きを否定され
「なんでだよ?」
ぶっきらぼうに、尋ねた。
「もしもですよ。健太さんに尻尾や牙があったら、さっきのお友達は羨ましがると思いますか?自分達も欲しいと、言うでしょうか」
健太は、想像してみた。
寛子の「馬鹿みたい」と言う言葉が、聞こえてくるようだった。
少なくとも、寛子は羨ましいとは言わないだろう。
「んん…ん」
「又は、健太さんが壁を駆け登ったり、高い所から飛び降りて器用に着地したりしたら、皆は驚いてテレビやショーに出られるでしょう」
「だろう?」
謙太は、身を乗り出した。
「しかし気持ちが悪いと、思う人も出てきます。中には化け物という人も、必ずいるでしょう」
「そうかなぁ…」
「そういうものですよ。それに猫族は、ゴロゴロするのが好きでして」
「じゃ、それなりに活躍すればいいじゃない?」
「そういう問題じゃ、ありません。
人間社会にばれると言う事は、猫の世界にも知れ渡ると言う事なんですよ。
こんな私でも、家庭を持ち安定した生活を諦めている訳じゃありません」
「お前、本当に十歳?」
ゲンタは、申し訳なさそうに首を引っ込め頷いた。
「ま、いいや。ゲンタがそう言うなら、誰にも言わないよ」
「そうして頂けると、助かります」
ゲンタはほっとして、頭を下げた。
「じゃ、家に来いよ。家で飼ってやる、病気みたいだし」
健太はここに入れと、ジャンパーのチャックを下げた。
「いやぁ。私なんかを連れて帰ったら、御家族に叱られてしまいます。さっきのお友達の反応を、見たでしょ」
「大丈夫だよ。家は母さんと二人暮らしだから。母さんが帰ってくる前に、お風呂に入ればなんとかなるさ」
何時もの丸い笑顔を向けた。
「でもう…。お風呂に入っても、この目や足は治りません。何も好き好んで、私みたいな猫を飼わなくても」
遠慮している割には、確りパンの上に前足が置いてあった。
健太は少し強い口調になり
「俺はいじける奴は嫌いだぞ。早く入れよ」
鼻を啜りながら、チャックを寄り下げた。
こうなると、父親ゆずりの江戸っ子気質が譲らなかった。
ゲンタは俯いて、すすり泣きだした。
「有難うございます。こんな私に…ううぅ」
健太は泣いているゲンタの頭を撫でた。
ゲンタは涙を拭き、ひとつ咳をすると
「ではお言葉に甘えて、前を失礼します」
ゲンタは、申し訳なさそうに入ってきた。
健太のジャンバーの中に入ったゲンタは、照れくさそうに俯いていたが、暫くすると
「ああ…。なんて暖かいんだろう」
うっとりしているゲンタの顔を見て
(極楽・極楽)と言わないだけましか。なんたってまだ十歳なんだから。
その温もりにゲンタは又咽び泣いた。健太はしょうがないなと、笑顔で溜息をついた。

 健太の家は、二階建ての一軒屋だった。
一軒屋といっても、二階は小さな廊下を挟んだ四畳半と六畳の振り分け、一階は四畳半の茶の間と三畳の台所といたって小さな家だ。
 健太は台所の湯沸機で、ゲンタを洗った。小さな流しはお湯の湯気と、シャンプーの泡と香りでいっぱいになった。
「沁みるか?」
尻の部分を洗う時、健太は心配顔で聞いた。泡だらけのゲンタは
「とんでもありません。こんな気持ちのいいことは産まれて始めてです」
とまた泣いた。
「泣くなよ。母さんのリンスもつけてやるぞ、母さん遅番で良かった」
今日の健太は、母親の遅番にほっとした。
洗い終るとゲンタは白いタオルで包まれ、茶の間の畳に置かれた。タオルからちょこんと出した、ゲンタの顔を見て
「お前、こんなに白かったんだ」
ゲンタは、タオルの白さに負けない白さで健太を見上げ
「さぁ。物心付いた時には、ねずみ色でしたから」
 健太はさらにドライヤーで乾かしながら、満足そうに感嘆の声を上げた。
「どうだ。フカフカじゃないか」
目脂の取れた右目はぱっちりと見開き、尻以外の毛は風に揺れるほど柔らくなった。
ゲンタも、鏡の中の自分を見て
「これが、これが私ですか…?」
暫く、自分に見とれていた。そして、また泣き出した。
「そう一々泣くな。
死んだ父さんがよく言ってた。男はめったに泣くもんじゃないって」
「はい。でも今まで辛い人生だったもので、情けが身に沁みるんです」

 健太は母親の信子が帰るのを、ゲンタとテレビを見ながら待った。
「これが、テレビというものですか?」
ゲンタはしげしげと、テレビを見上げた。ゲンタは家に入ってから、全てのものに興味を持った。
「なんだゲンタは、テレビ見るの初めてなのか?」
健太は後ろから、ゲンタの横顔を覗き込んだ。
「まさかぁ。傍で見るのがってことですよ」
「ああ…むきになってる。やっぱ十歳だな、よかったぁ」
健太はさっき同じ年のゲンタから、大人っぽく説得された。それを巻き返すように、囃し立てた。
「向きになんて、なってないですよ」
からかわれゲンタは思わず、胡坐をかいていた健太の足の裏を押した。
「ハハハッ、くすぐったいじゃないか。止めろよ」
思わず胡坐から正座に座りなおした。ゲンタは興味津々で、後ろに回り、
「人間ってこんな所が、くすぐったいんですか?」
正座をしている、足の裏を押した。
「止めろってばぁ、ハハハ」
健太は堪らず仰向けになり、裏がえった亀のように手足をバタつかせて非難した。
「どうだ、もう届かないだろ」
その時、母親の信子が帰ってきた。
「ただいまぁ」
いつもの明るい声に、健太は仰向けのまま満面の笑みで振り返った。
「お帰りなさい」
「ごめんね、お腹空いたでしょ」
と言うなり、健太の後ろにちょこんと隠れているゲンタを見下ろした。すると眉をひそめ
「なにその猫」
声を落とした。
「ゲンタって言うんだ。ねぇ飼っていいでしょ?」
「片目が、潰れているじゃない」
まさか猫が喋るとは、思ってもいない信子が言い捨てた。
健太は気を使い、チラッとゲンタを見下ろした。しかしゲンタは慣れているのだろう、知らん振りで毛繕いをしていた。
「お願い。世話は俺がするから」
信子は、水色のエプロンを締めながら
「母さん、猫は駄目なの。捨ててきてちょうだい」
信子にしては珍しく厳しい口調で言い放つと、話は終わりとばかりに忙しそうに夕食の仕度を始めた。
「何で、駄目なの?」
健太は信子のエプロンを掴んで、上下に振った。
「片目の猫なんか、気味が悪いわ」
「そんなの、おかしいよ。目が潰れているのは、ゲンタの所為じゃないもん」
「駄目だったら駄目。何か陰気臭くて嫌なのよ」
「そんなぁ…」
 健太はゲンタを抱き二階の自分の部屋に入ると、襖を力いっぱい閉めた。
パシッという渇いた音が、小さな家に響いた。こんな閉め方をしたのは、始めてだった。
健太は電気も点けず、壁に寄りかかり膝をかかえた。真っ暗な中、目の前の窓には街の明りが灯っていた。
遠くで電車の警笛が物悲しく聞こえると、健太は涙が込み上げた。
溢れた涙で、街の灯は揺れた。
健太はゲンタに涙を見られないよう、膝に顔を埋めた。
うな垂れて見えるその姿に、ゲンタは申し訳ない気持ちで瞑れそうに見上げた。
自分が原因で、健太が母親と喧嘩して辛い思いをしているのだ。やっぱり自分のいった通りに、なってしまった。謝ってすむ問題ではないが。
「済みません…私なんかの所為で。お母さんと喧嘩させてしまって」
(又(私なんか)何て!)
しかし今何か言葉にしたら、泣き声がゲンタにばれてしまう。
「もう充分です。こんなに、綺麗にしてもらっただけで。
有難うございました、私…出て行きます」
健太は一つ大きく咳し、声を整えると。
「待てよ。もう一度、頼んで見るから」
「いえ、こんな私が飼って貰おうなんて、所詮無理だったんです」
「又、いじける!」
暗闇の中で、健太が小声で怒鳴ると
「きっと私には、人を不快にしてしまう何かがあるんです」
健太は言葉が出なかった。二人は黙った。
 すると襖が少し開き、暗い部屋に廊下の明かりが射した。信子の白いソックスが、静かに入ってきて
「分かったわ」
「え?」
健太は顔を上げた。信子は健太の前に座ると
「考えたらお父さんが事故にあってからずっと、寂しい思いさせて…。ごめんね」
信子の声が暗闇の中、涙声になった
「ましてお母さんが遅番の時、健太は何時も一人だもんね」
「ほんとに、いいの…?」
健太は目を丸くして、膝を抱えていた腕を解いた。
「早く、ご飯食べなさい。今日はから揚げだよ」
優しく健太の頭に手を置いた。

 信子が許してくれたといっても、ゲンタを嫌っている事に変わりは無い。ゲンタは、信子の前には姿を出さないよう気を使った。
一日中、健太の部屋で過ごし、健太の帰りを待った。しかしそれはゲンタにとって、産まれて始めて味わう幸せな時間だった。

 「お帰りなさい」
ゲンタはちょっと得意顔で、健太を迎えた。健太はランドセルを下ろしながら、部屋中を見回し
「ゲンタが、片してくれたの?」
「ええ…まぁ」
ゲンタは照れた。畳が見えないほど、漫画本や服で散らかっていた部屋が、整然と片ずいていた。
「ゲンタ、おまえ片付け出来るんだ」
「ええ、健太と一緒にいるうちに、色々出来るようになったみたいで」
「スゲーッ」
 健太も弟が出来たようで、帰ってくるのが段々と楽しみになった。

 「おいゲンタ」
揃えた両手の上に顎を乗せ、窓の外を眺めていたゲンタに健太が声を掛けた。
ウトウトし始めていたゲンタは、虚ろな目で振り返った。
「お前、俺が学校とか行ってる間、何してるの?」
ゲンタは虚ろな目のまま
「そうですね…部屋を片して、洗濯物を引き出しにしまって…後は陽があたる場所に移動しながら寝ていますかね」
「おまえは主婦か。それが、十歳の少年の行動かよ」
「そう言われても。ごく普通の猫の、行動パターンだと思いますけど」
訳の分からない事で急に責められ、ゲンタの眠気は吹っ飛んだ。
「何処が普通の猫の、行動パターンなんだよ。普通の猫が部屋を片したり、洗濯物をしまうかよ」
「そう言われれば…そうですね」
ゲンタはしみじみ、納得した。
「ゲンタは俺の飼い猫じゃないんだよ、俺の友達なんだ。
外見が猫だからって、猫と同じ生活してたら、もったいないだろ」
友達と言われ、ゲンタの顔は見る見る赤くなっていった。しかし毛の為、健太に知られずに済んだ。
健太はゲンタを抱き上げると、思い付いた様に
「そうだ、字を教えてやるよ」
再びゲンタを畳に戻すと、押入れに首を突っ込んだ。ゲンタは健太の尻越しに鼻の下を延ばし押入れを覗き込み
「字って、何です」
「これだよ」
健太は押入れの奥から、一年生の国語の教科書を出してきた。
「これを覚えれば俺が学校に行っている間、漫画や本を読んで待っていられるだろ」
「へー」
健太は畳にうつ伏せになり、教科書を広げた
「漫画とか読めたら、楽しいぞ」
ゲンタは健太の横にピタリと座ると、目を輝かせ教科書を覗き込んだ。
「本が読めたら、色々な事を覚えられる。
そしたら自分がやりたい事が、分かってくる。昼寝なんかしてられないぞ」
「私のことを、そこまで真剣に考えてくれていたんですか…うううっ」
「いいってば、こんな事で泣くなよ…」
健太は照れたが、こんなに喜んでもらえ嬉しくなった。ゲンタはまだ涙のたまった眼差しで、シンミリと
「ダンケシェ…」
「…」
そういえば、昨日、付けっぱなしのテレビから、ドイツ語講座が流れていたのを健太は思い出した。これからは、なるべく日本語だけを流そうと思った。
 ゲンタはあっという間に、(あ)の行を覚えた。
「凄いぞ、ゲンタ」
何時の間にか部屋は暮れなずみ、健太は立ち上がり丸い蛍光灯の紐を引いた。
「健太の教え方が、上手なんですよ」
謙遜したものの、ゲンタは本当に嬉しそうに健太を見上げた。一人っ子の健太もまるで弟の面倒をみるようで、教える楽しさを知った。
「国語を制覇したら、算数を教えてあげるよ」
言いながらゲンタを抱き上げると、台所からカレーの香りが上がってきた。
「腹減った!」

 「これ、何ですか?」
ゲンタがたたんだハンカチを、タンスの一番下の引き出しに入れようとして尋ねた。
健太はゲンタの頭越しに手を伸ばし、引き出しの中の大きな手袋を取り出した。
「これは、父さんの手袋なんだ…」
健太は机の前に座り、しみじみ手袋を見下ろした。ゲンタもひょいと、机の上に飛び乗り
「手袋?人間の手の形をしてるんですね」
興味深々に見詰めた。
「お小遣い貯めて、お誕生日にこの手袋をプレゼントしたんだ。
その時の、父さんの嬉しそうな顔ったら…」
健太は、視線を遠くにはせた。
「会社でも皆に自慢してたって、家に遊びにきた同僚の川合さんが笑ってた」
健太はその大きな手袋をはめて、両手をかざした。そして、両手を組み合わせ
「父さん二年前に、仕事中に事故で亡くなったんだ。事故のあった日も、ロッカーの中に風呂敷に包んで大切にしまってあったって。御通夜に川合さんが、わざわざ持ってきてくれたんだよ」
西陽がまるで手袋を温めるように、黄金色に染めた。健太は手袋を顔に当て、目を瞑ると大きく息を吸った。
「こうすると、父さんの臭いがするんだ」
「じゃぁ、この手袋は健太にとって、お父さんを思い出す大切な宝物なんですね」
「うん、なんか父さんが、傍に来てくれてるみたいな気がするんだ」
ゲンタも西陽に顔を染め、その手袋を眩しそうに見上げた。
「だからもし火事になっても直ぐ出せるように、布団の傍の一番下の引き出しに入れてあるんだよ」
ゲンタは、羨ましそうに
「いいですね。健太はお父さんやお母さんに愛されて、友達もいて」
「ゲンタの、お父さんやお母さんは?」
「私は、捨て猫です…」
「あっ、ごめん」
(だよな、お母さん達がいたら、あんな所で震えていないよな)
「いえ、いいんです。おまけに犬に足を噛まれて、こんな足になってしまいました。
きっと神様は、私の事がお嫌いなんです」
健太は(いじけるな)とは言えなかった。
しかしゲンタは声音を強くし
「しかし健太と会って、色々と気づいたんです。
私は産まれた時からずっと、自分は何の価値もなく、ただその日を生きる為に、残飯をあさる毎日でした。
人生を振り返ると、闇しかありません。
でも健太みたいに、お父さんが亡くなってもいじけなく、お母さんに寂しさを見せなく頑張っているのを見てきました。
そしてクラスで人気ものの健太に出会えて、私も自分を変えようと、思うようになりました」
ゲンタの話に健太は戸惑ったが、黙って聞いた。
「健太さんから言われた(いじけるな)。あの言葉は私にとって衝撃でした」
健太は深い意味がなく、父さんの受け売りに過ぎなかった言葉が、ゲンタにそんなに影響したのかと改めて深い思いがした。
「それまでの私の生き方は、いじけることが身を守る手段でした。息を潜め希望を持たない事が、傷つかない唯一の手段だと、思っていたからです。しかし健太と出会って、前に進む充実感を知りました」
ゲンタにしみじみ言われ、健太も思った。
ゲンタと会ってから、今まで当たり前にあると思っていた事に、感謝するようになっていたと。
お父さんは亡くなってしまったけど、暖かい家や、お腹が空けば母さんが直に何かをつくってくれる。ゲンタに勉強を教えているうち最近の成績も上がってきた。そして学校の友達の笑顔が次々に浮かんだ。
「でも…やっぱり。私なんかがそんなこと思うこと事体、だいそれているんでしょうか」
「何を言ってるんだ。もっと自分に自信を持たなきゃ駄目だよ。ほら男らしく胸をはって!」
健太に優しく励まされ、ゲンタは座り直し
「これからは、男らしくします」
右目をきりりと上げ言い切った。その時、隣の犬が
「ワンッ!」と吠えた。
途端にゲンタは、一目散に健太の膝に飛び降りた。
「全然男らしくないじゃないか、だらしないなぁ」
「足を噛まれてから、どうも犬は苦手で…」
ゲンタは照れくさそうに、健太を見上げた。
健太は満面な笑顔で、手袋をしたままゲンタを抱き上げた。
「どうだ。父さんの手袋の中に居ると、安心だろう」
「本当にそうですね。何か暖かい鎧みたです」
(暖かい鎧か、まさに父さんのそのものだ)
「だろ。だから隣の犬なんか怖がるな」
ゲンタは特に隣の犬を怖がった、隣の犬が吠える度に健太の胸に飛び込んできた。

 「ごめん健太。お母さん、寝坊しちゃった」
信子はぼさぼさの髪で、蒲団の中で丸くなっている健太の体を大きく揺った。
「起きて。もう七時四十分なの」
健太は跳ね起き
「嘘!」
「ほんと」

 健太が食パンを咥え玄関を出ると、ゲンタがちょこんと座っていた。
「健太、こっちこっち」
言うなり、足を引きずり走りだした。
「何処、行くの?」
ゲンタは走りながら、振り向き
「近道です、付いて来て下さい」
足を引きずり、必死に走った。
しかし幾らゲンタが必死に走っても、健太の歩く速度だ。
「ゲンタ。気持ちは嬉しいけど、これじゃ余計に遅くなっちゃうよ」
健太は困った。しかし
「分かっていますよ」
息を切らせながら、まだ開いていないクリーニング屋の前まで来た。隣の家との、四十センチほどの隙間を指し
「ここを抜けたら、右へ行ってください。
そしたら、潰れた自動車工場の裏に出ます、その工場に沿って左に走れば学校に出ます」
健太は訝しげに隙間を覗くと、黒い隙間の向こうに、縦に伸びた細い光が見えた。
「さあ、早く」
急かせた。
「分かった。隣の犬に、気をつけて帰れよ」
健太は心配しながら、隙間に入っていった。
「そりゃ、もう。それより急いで下さい」
健太の背中に叫んだ。
健太は、ゲンタの言うとおり走りながら(こんな所が、通れたんだ…)まるで、別な街に来たようで驚いた。

 学校に着くと、未だチャイムは鳴っていなかった。健太は息を弾ませながら、ゲンタに感謝した。
健太が席に着くと、2・3人の男子が寄ってきた。
「健太。昼休みドッチボールしようぜ」
「おおっ。やろう」
答えているうちにも、健太の周りに四・五人にふえていた。
その隙間を縫うように、分厚いセーターを着込んた純也が寄って来た。純也は一番健太と親しいのは自分だという自負があった。
「健太、今日遅かったんじゃない?」
純也はまるで健太のマネージャーのように振舞った。
「そうなんだ。もうちょっとで遅刻だったよ、ヤバ」
まだ息を弾ませ、教科書を机に入れながら報告した。
「健太は足が速いからな。僕だったら完全に遅刻だよ」
「いやぁ、今日はほんとヤバかった、ゲンタがいなかっ…」
健太は(いけねっ)と、不器用に言葉を止めた。
「ゲンタ?」
健太は何とかごまかそうと、一つ咳をして
「な…なんでもない」
余計におかしい。
「あれれっ?。何か可笑しいぞぉ」
純也は気が小さいが、妙に感が良かった。
「ゲンタ…ゲンタっと。え?あの汚ったない猫を飼ったの?だから最近、さっさと帰っちゃうんだ」
「…」
健太は純也の余りの鋭さに驚き、返事に詰まった。
自分と付き合いが悪くなった原因が、あの汚い猫のせいだと分かったからか、純也のはやす笑顔が一瞬真顔になった。
「わー。病気が移ったんじゃない!」
純也は業とらしく、健太の机から離れた。健太をからかう純也の中に、やきもちが混じった。
「ゲンタは、病気なんかじゃない。お尻の毛も生え揃って、今はフワフワなんだぞ」
二人のじゃれ合いに、寛子が寄って来た。
「どうしたの?」
純也が振り返ると、艶のある黒髪をいつもの三網みに編みこんだ寛子が立っていた。純也は、いいところに来たと言わんばかりに
「寛子。この間の、気味の悪い子猫を覚えてる?」
寛子は、眉を寄せ
「ゴミ袋の猫でしょ。覚えてるわよ」
(ゴミ袋の猫…)か、あの当時は自分もその程度に思っていたな。時間の早さを遠くにかんじた。
「健太ったら、そのゴミ袋の猫を飼ってるんだって」
「えーっ。やだぁ、信じられない」
寛子は途端に、不快な顔になった。
「そんな事言って、見たら驚くぞ」
健太はむきになって、二人を見上げた。
「フワフワに、なったんだってさ」
寛子の味方を得て純也は調子に乗り、嘘だと決め付け語気を強めた。
しかし寛子は(フワフワ)という言葉に反応した。
「健太君、見に行ってもいい?」
「え?」
純也の情けない声が漏れた。
健太は寛子が確かめる為だと勘違いし、口を尖らせ、
「いいよぉ」
語尾を上げた。

 健太は慣れた手つきで、玄関の鍵を開けた。そして誰も居ないはずの家の中に、わざと大きな声を掛けた。
「ただいまー」
ランドセルを茶の間におろすと、身軽になった健太は二人を措いて急に勢いよく階段を駆け上がった
「お邪魔しまーす」
寛子と純也も、玄関に入った。
二人は玄関に取り残され、ランドセルのベルトを握ったまま顔を見合わせた。
下でまっている二人に、階段の上から健太が顔をヒョイと覗かせ
「上がって、おいでよ」
言うなり振り返り、小声でゲンタに
「言ったとおりに、するんだよ」
早口で囁いた。ゲンタが黙って頷いたとたん、健太の後ろで
「可愛い!」
寛子の黄色い声がした。
さっそくゲンタの前に座り抱き上げた。そして白い手で、小さなゲンタの頭を撫でながら
「健太君の言うとおり、別の猫みたい。お前、随分と太ったね」
健太はこんな寛子の眼差しを初めて見た。
(なんか、母さんみたいだ…)
朝、純也が言っていた今回の絵が今の寛子と合わないと言っていた事が朝より、より理解できるような気がした。
健太は意味無く顔が赤くなり、慌てて視線を剃らせた。
寛子に抱かれ時々見せる、人間のように照れるゲンタの表情が、健太は可笑しくてたまらなかった。
 純也はゲンタには全然関心を示さず、漫画を読み始めていた。
今この二人にゲンタが話せると知らせたら、きっと自分と同じように腰を抜かすだろう。健太は無性に、打ち明けたい衝動に駆られた。
そう思った瞬間、寛子の向こうで漫画本から顔を上げ、じっとゲンタを見ている純也の視線に気づきはっとした。
ゲンタが話せることを打ち明けたいという気持ちは消えた。
もしばれたら、ゲンタが居なくなってしまうような気がしたからだ。
その時、襖の向こうから信子の声がした
「入るわね」
襖が開き、お盆にジュースとポテトチップの袋を乗せ入ってきた。
「おやつ持ってきたわよ」
「あ、ありがとう。今日は随分早かったね」
特に早いい帰宅ではなかったけれど、このまま純也の視線を信子に向かす流れにしたかった。
「えっ?いつもの早番の時間よ」
「まぁ、そうだったね」
「変な子ね」
「お邪魔してます」
二人も個々に、挨拶をした。
「寛子ちゃん、また靴が大きくなったんじゃない」
「はい。今のも、少しきついんです」
寛子はゲンタを撫でながら、信子を見上げ肩を竦めた。純也が
「いいな寛子は。僕なんて、四年の時から変わってないよ」
空気が一気に変わり、健太はほっとしてポテトチップの袋を開けた。
しかし勢い余って袋が裂け、ポテトチップが畳に散らばった。
「乱暴に、開けるからよ」
信子が呆れて拾い始め、寛子も手伝った。
ゲンタも思わず拾おうとして、慌てて肉球を舐めた。
健太は思わず純也を気にした。が、やはり純也はその一瞬を見逃さなかった。
純也はゲンタを見詰めたまま近寄ってきて、寛子からゲンタを取り上げると高く上げた。そして色々な角度から、まるで点検するように見回した。
そのうち大きく広げられたゲンタの股間が、寛子の目の前に晒されてしまった。
ゲンタは必死に両足を内側に丸め、何とか隠そうともがいていた。
(俺だったら絶対転校する)健太はゾッとして立ち上がり
「恥ずかしがってるじゃないか!」
(いっけねぇ…。猫が恥ずかしがる訳ないよな)
健太は純也の顔を見られなかったが、何とかゲンタを取り返した。しかし純也は剥がされるように、ゲンタを取り上げられ
「へー。猫がチンチン見られて、恥ずかしがるんですか?」
はやした。
それまで微笑ましくゲンタを見ていた寛子が、真っ赤な顔になり
「何いってんのよ、馬鹿じゃないの!」
烈火のごとく怒った。
純也はゲンタの行動を暴くのに夢中になり、寛子の前でとんでもない言葉を吐いてしまった事にうろたえた。後ずさりしながら
「だ、だってこの猫変だよ、ポテトチップを拾おうとしたんだ」
寛子が、癖の三編みを背中に戻し
「猫が、ポテトチップを拾う訳ないでしょ」
いつもの表情に戻り、きっぱり言いきった。
健太はドキッとした。やっぱり純也の勘の良さは凄いと、空恐ろしさを感じた。
しかし幸運にも、寛子は相手にせず
「私そろそろ帰る。小母さん、ご馳走様でした」
「又、遊びに来てね」
「はい」
寛子は健太と純也を呆れた顔で睨むと、信子と階段を下りていった。
「お、俺は関係ないじゃない…」
健太は慌てた呟きは、虚しく階段の下に消えた。
顔を戻すと、目の前に純也の顔があった。
「吃驚するじゃないか!」
純也は健太の顔を、真剣に見詰め
「本当のこと、言ってよ」
余りの純也の勘の鋭さに、健太が途方にくれていると
「この猫、人間の真似するんじゃない?」
(え?)
純也の以外な言葉に、健太は肩透かしをくったがほっとした。
「さっきから、健太が笑うと、この猫もにやつくし、ポテトチップを拾うと、拾おうとするんだ。
猫の癖に、猿みたいに人の真似をするんだ」
なるほど。まさか喋るなんて、夢にも発想しないのだろう。
純也は、ゲンタを見詰めたまま、
「健太ぁ、ちょっと、頭の上に手を置いてみてよ」
そして自分の右手を、頭に乗せてみた。
健太はゲンタに、(分かっているよね)と、いうように小さく頷いた。ゲンタも、ゆっくり瞬きをした。
それを確認すると、健太は頭に手を置いた。
ゲンタは純也の視線を痛いほど感じながら、肉球を舐めては顔を拭いてみせた。
純也は意外な結果に、少し苛付き
「じゃベロを、出してみてよ。べーっ」
と言って、舌を出し健太の方に向いた。その瞬間、純也の涎が健太の膝に垂れた。
「きったねーっ」
健太は慌てて手で涎を拭った、しかし今度は手に付いてしまった涎に
「ああっ…母さーん」
健太は血相を変え、階段を駆け下りて行った。
「わ、悪かったよ…。(でも、そんなに汚がらなくたって…いいじゃないか)」 
もうゲンタを、暴く雰囲気ではなくなった。純也がゲンタを見下ろすと、ゲンタは退屈そうに大きなあくびをした。
こうなると、さすがに純也は諦めるしかない、大きく溜息を付くと畳に後ろ手を付いた。


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