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作品名:一つ屋根の下 作者:小池紗智子

第1回   プロローグ
何度目かの寝がえりを打った。
目はすっかり暗闇に慣れ、部屋の隅で律義に首を振る扇風機が見える。
ベッドサイドの目覚まし時計に触れるとぼんやりとした灯りが点いて、ギザギザとした数字を浮かび上がらせた。
午前2時半。
私はゆっくりと体を起こして、ベッドの上に座りドアの向こう側を見つめた。
透視でもできてしまいそうなほど、じっくりと。
私の部屋の向かって左が弟の部屋、そして右側は大学に進学して一人暮らしを始めた兄の部屋だった。

空っぽのはずの兄の部屋に、彼がいる。
1年の時に同じクラスだった、菊池君が。
信じられないシチュエーションが実際に私の身に起こった。
数時間前、一緒に夕食を食べて、弟とサッカーのゲームをしてシャワーを浴びた菊池君は「お休み」と一言挨拶をしてくれた後、兄の部屋に入って行った。
明日目が覚めてリビングに下りると、菊池君が朝食を食べているんだろう。
その様子を想像すると胸のあたりをドン!突かれたように、一瞬息苦しくなって肩に力が入る。
大きく息を吐いて、私は昨日から今日にかけて起きた出来事を、もう一度ゆっくりと頭のスクリーンにリピートさせた。

残り少ない夏休みの昨日も、午前中の補習とパン屋のバイトのみに費やして家に帰った。
バイト先のある大きなショッピングセンターから自転車に乗り、家に着いたのは確か7時になる少し前で、玄関には見慣れない靴が並んでいた。
さっと見たところ、男性の靴が2足に地味なパンプスが1足。
きっと料理教室をしているママのお客さんだろうと、挨拶をするのが面倒だと思った私は「ただいま」も言わずにそっと階段を上った。
水色に白い水玉模様のショートパンツ、それに弟が「タイ料理屋のマーク」と笑う、蓮の花がプリントされた真っ赤なTシャツという、センスの欠片も無い部屋着にとりあえず着替え、そっと下へ下りて行った。
和室の前にスリッパが並んでいるのを階段の途中から確認した。
素早く和室の前を通り過ぎようと考えた瞬間にふすまが開いて、にこにことしたママが出て来た。
私の存在に全く気付いていなかったママは、ふすまの向こうにも余裕で聞こえるほどの大きな声を上げて驚いた。
「あらびっくりした!帰ってたの?全然気がつかなかった。ちょうど良かった。ちょっと挨拶してちょうだい。」ママはきっちりとお化粧をしてパールのネックレスまでしていた。
「やだよ、こんな格好だし、汗かいてるし。」私は少し遠慮して声のトーンを落とし、でも必死で拒否した。
「大丈夫だから。ちょっとだけ。ね。」強引なママは私が逃げられないように手首を素早くつかむと、もう片方の手で一気にふすまを開けた。

今思い出しても、なんでももう少しマシな格好をしていなかったのか悔しくてたまらない。
真っ赤なTシャツの私は太ももをあらわにして菊池君とそのご両親の前に登場してしまったのだ。
私を見上げるようなポジションからの三人の視線が痛かった。
そしてその真ん中の菊池君と目が合うと私の頭は「?」で満たされ、思考はマヒした。
ママが音も立てずに正座して、私にも座るように足を軽く叩いた。
その一撃でペタンと正座した私を見て、ママは満足そうに菊池君に向かった。
「今ちょうど娘が帰って来たものですから。長女の結衣です。2年生だから涼君と一緒ですね。もしかしてもうお互い知ってるかしら。」笑いながら私に視線を戻したママに向かって私は無言で頷いた。
「はい。」菊池君もはっきりとした声で答えた。
「あら、じゃあ話が早いじゃない。ねえ。」ママが笑顔を向けた女性は柔らかく笑って頷いた。
「急な事で驚かせてしまったと思うけど、明日から宜しくお願いしますね。」菊池君のママらしき人が私に丁寧に頭を下げてくれたので、私も慌てて頭を下げる。
「あの、お嬢さんには、お話は・・・?」菊池君の左側に座っていた男性、お父さんが遠慮がちに端っこでお茶を啜っていたパパに向かった。ママに比べると存在感の薄い父が「どうだったかな?」とママに聞く。
「あ、まだ全然話して無かったわねえ。」ママはそういうと、事情の呑み込めない私を見て楽しんでいるかのように口に手を当てた。
「それじゃあ驚かせてしまったね。どうも、初めまして。涼の父親です。」菊池君のお父さんは心底すまなそうに、丁寧に挨拶をしてくれた。
菊池君とは似ていないけれど、ロマンスグレーを言うのだろう、白髪の交じった髪が舘ひろしのようでピンと伸びた背筋が頼れるお父さんといった感じだった。声も素敵だ。
「急な事で、私が今週末からロスへ赴任が決まってしまって。涼を連れていくわけにもいかずに困っていたんだよ。それで妻がお世話になっている安藤先生にご相談したら、『家にいらっしゃい』と言って下さって。クリスマス休暇には涼の姉がオーストラリアから帰国するからそれまでお世話になることにしたんだよ。」そこまで言うと、お父さんは、のんびりとお茶を啜っていたパパに視線を移した。
「我々は近くに身内もいないものですから。何と感謝申し上げて良いか。」
「本当に助かります、安藤先生。」菊池君と目元がそっくりなお母さんがもう一度頭を下げた。それに習って菊池君も頭を下げる。
「いいえ、良いんですよ。家も長男が出て行って淋しい思いをしていたところだし、賑やかな方が楽しいですし。ねえ。」ママに話をふられてパパは「ええ、そうですよ。」と調子を合わせた。
「そう言って頂けると、我々も救われます。」お父さんがもう一度頭を下げた。
「本当に先生のところにお世話になれるのでしたら、こんな安心な事は無いんですよ。やっぱり育ちざかりですから、お食事や栄養の面が心配でしょう。先生のお献立なら栄養もしっかり考えられているし。先生に教えて頂いたレシピは家でも好評なんですよ。先週の牛蒡の沢山入ったハンバーグ!あれなんて倍の量を作ったのに息子と夫でペロッと食べてしまって。」
「あら、それは良かったわ。男性は意外に嫌いなお野菜がありますもんね。工夫して食べさせるのが台所を預かる女性の役目ですよね。」
しっかり先生モードになっているママと菊池君のお母さんはお料理トークに花を咲かせ、パパと菊池君のお父さんはのんびりと「海外赴任ですか、大変ですねえ。」と話し始めた。
菊池君は私と目が合うと、「よう。」と言うように右手をひょいと上げた。

そして今日。
シルバーのスーツケースにスポーツバッグを持った菊池君が両親と一緒にやってきた。
ママ特製のお砂糖控えめの水ようかんに冷たい緑茶を飲んで、ご両親は何度も頭を下げて帰って行った。
その晩の夕食は豪華で、食べっぷりの良い菊池君にママも「張り合いがあるわ!」と喜んでいた。
弟の弘樹は早くも菊池君に懐いて、夜は一緒にゲームをする約束までしていた。
弘樹も同じサッカーをする菊池君に少し憧れめいたものを感じているようだった。しかも、2年生でレギュラーだと聞けばなおさらなんだろう。
中学生のうるさいほどの質問にも丁寧に笑って答えてやる菊池君を見て、学校でのクールなイメージとは違う意外な一面を見た気がした。
私はと言えば、理由は理解しても、1年も片思いしている相手と自分に家で向かい合ってご飯を食べているという現実に何故かフワフワしていた。
まるで夢だと分かっている夢を見ているようだった。
明日目が覚めたら、寝起きの顔を見られないように顔を洗って、髪もセットして。トイレはきっと2階のを使うはずだから私は下で・・・綿密な計画を頭の中でシュミレーションしているうちに、やっと私は眠りに落ちた。


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