9 クジャクのエリアに入ってすぐ、私は愛用のカメラを持って来なかった事を激しく後悔した。 大きく仕切られた檻の中、20羽はいるであろうクジャク達が、あちらこちらで羽を広げている。そして見せびらかすようにこちらに向けてくれるのだ。扇のように大きく広げた羽根に胸から首にかけての鮮やかな青が映える。その上の小さな顔には太いアイラインを引いたような凛とした目。 自然界にこんなにも美しい生き物がいるなんて。神様って本当にいるんだろう。神様は自分が愛でる為にこの鳥を作ったに違いない。そうとしか思えない。 「カメラ持ってくれば良かった。」窓に体を向けて、顔だけを一瞬彼に向けて呟いた。しかし口に出したら余計に悔しくなった。 「あー、本当にカメラ持ってくれば良かった。勿体無い!こんなに沢山のクジャクが見られるなんて知ってたら望遠レンズも持って来たのに!」そう言いながらも目はクジャクからはそらせないでいた 「え、カメラってそんな本格的なカメラの事言ってたの?」驚いた彼は意外そうに声をあげた。私は、はい、と頷いた。 「デジタル一眼持ってるんです。ちょっと古いから大きいし重くて、なかなか持って出歩けないんですけど。」 「すごいね、女の子で。あ、でも最近は多いんだよね。女性向けのカメラ雑誌だってあるし。実は妹も欲しがってるんだよ。今度の出産祝いはデジイチがいいって今から催促されてる。」 「妹さん赤ちゃん生まれるんですか?」 「うん、まだ先だけどね。予定は年末らしいから。」 「買ってあげるんですか?」 「そうだね、俺は母親みたいに何か手伝ってやれる訳じゃないから、それくらいはしてやろうかと思って。」最近は安くなったし、と彼は笑って付け加えた。 「いいお兄ちゃんですね。」私は羨ましかった。家族思いのお兄ちゃんがいる妹さんが。きっとこんな人と一緒にいれば日向にいるように暖かくて居心地が良いんだろう。奥さんになる人もきっと同じように大事にしてもらえるんだろう。絶対幸せだ。 ほんの少し、自分がこの彼と結婚したら、と想像してしまった。「うわ、想像飛びすぎ。」自分で突っ込みを入れるが一瞬のうちに描けた想像図は、温度を持っていたように心臓の辺りをじんわりさせた。 「あ、あそこに白いクジャクがいるよ。」彼が気づいて指を指した。いつの間にか、バスは白いクジャクが飼育されているエリアの前に来たようだ。 「うわー、白いクジャクも綺麗。」私は溜息のように声がでた。 「私がどっかの国の大富豪だったら、庭いっぱいクジャクを飼う。」口にしてから、なんて子供じみた事を言ってしまったんだろうと後悔したけれど、意外にも彼は真面目に答えてくれた。 「歴史上にはそうした人が沢山いただろうね。だってこんなに綺麗なんだよ。神様がいたとしたら、最高傑作だな。」 「あ、私も同じ事思った。」 「本当に?やっぱクジャクには、人間にそこまで思わせるだけの魅力があるんだなあ。でもさ、だとしたら失敗作はブルドックじゃない?あれはどう見ても可愛くないぞ。」 「だって、ブルドックは人間が改良したものですよ。」 「あ、そうか。それにしても、あれはねえ。」 「ねえ。」 バスはなかなか進まなかったけれど、私は彼との会話が心地よく、いつの間にか不快だった空気も気にならなくなった。 今窓から見えているものは、なんて事は無いただの木と葉と、その隙間から洩れる太陽だ。ジャングルと言うほど野性的な印象は受けず、イメージとしては小学校の頃の遠足に近い。「遠足を思い出す。」と私が言うと、今度は彼の方が「俺もそう思った。」と答え二人で笑った。 「いつからデジイチ使ってるの?」 「四年位前です。私も姉が赤ちゃん産んだ時がきっかけで。」姉は里帰り出産をして、義兄は休みの度に新品のカメラを持って会いに来ていた。にわかデジイチカメラマンの義兄にレクチャーされ、すっかり夢中になったのだ。 「じゃあもうベテランだね。」 「そんな事ないですよ。自己流ですもん。同じカルチャーセンターの写真講師の人にたまに教えてもらってる程度です。クラスに通いたいんですけど、なかなか。」 「忙しそうだもんね。時間だって不規則なんでしょ。」 「そうですね、三カ月毎に時間割が変わるし。でも平日休み取れるのはいいですよ。どこに行っても空いてますもん。歯医者だって美容院だって。」 「それはいいね。俺みたいなサラリーマンじゃ何するにも週末だから混むんだよなあ。」 「ここだって平日に来たらきっと空いてますよね。」私は既にクジャクや動物達の撮影の為に平日休みを利用してリベンジしようとまで考えていた。 「写真撮りに来るの?」 私は声を出さずに頷いた。 「じゃあ、俺休み取るからまた一緒に来ようよ。」意外な申し出に私はその答えを用意していなかった。そして唇からこぼれたのは自分でも気付かない本音だった。 「え、また一緒に来てくれるの。」しかも自分で驚くほど声は弾んでいた。彼はまた眼鏡の奥の目を細める。 「いいよ。そんなに気に入ってもらえたなら俺も嬉しいし。じゃあさ、その時デジイチも一緒に見に行っていい?妹にプレゼントするやつ一緒に選んでくれる?」 「私、ちっとも役に立たないかも知れないですよ。」 「いいの、いいの。女性が使いやすいと思う物ならきっと妹だって気に入るから。」 「そうゆう事ならプレッシャー感じなくてもよさそうですね。」 「そんなに難しく考えなくていいよ。じゃあ決まりだね。休みが決まったらまた教えて。」 「はい。多分再来週の水曜日あたりだったと思うけど。確認してメールしますね。」 「うん。その頃なら問題なし。」 彼は良かった、と言って勢いよくシートの背にもたれ、こちらを向いてもう一度笑顔を見せてくれた。私もつられて笑顔になる。 久保さんには何て言おう。やっぱり動物好きな良い人でした、かな。それとも、もう一回一緒に動物園行く事にしました、と言ってしまおうか。久保さんは驚くだろうか。きっと「行って良かったでしょう。」と笑うだろう。 そう言われたら私は「はい。」と素直に頷くだろう。
|
|