7 子連れで出かけた場所に同じくらいの子供がいないと、私は途端に心細くなってしまう。息子がぐずり出したらどうしよう、大きな声を出したらどうしようと不安になるのだ。賑やかなレストランならまだ良い。ノイズが息子の声など消してくれるし、外へ連れ出す事だって出来る。 電車や飛行機はデッキやギャレーの近く、最悪はトイレへ逃げる事ができるからましだ。一番避けたいのは、このようなバスだ。逃げ場も無ければ立って抱く事も難しい。途中で降りる事も出来ないとなると、息子のご機嫌を少しでも良い状態で維持する事に、私はあらゆる手を尽くすしかない。完全に息子の僕となるしかないのだ。 ライオンやチーターを見ているうちは良かった。メスのライオンは歩きまわり窓のすぐ近くまで来てくれた。初めて見る実物のライオンに、息子も興奮したように盛んに声をあげていた。この時は周りの子供達も、その親達もライオンの登場に大いに盛り上がっていたから、息子の騒ぐ声なんて簡単に消してくれた。 バスは名残押しそうにライオンをおいて走り出し、興奮が冷めた車内はエンジンの音だけが響いている。少し疲れが出たのか、それとも次に現れる動物に備えて体力を温存しているのか、あれほど元気だった後ろの子供達も静かだ。 この渋滞で、三十分と言われていた所要時間はすでにオーバーしている。それなのにバスはほとんど進んでいない。 エンジンの細かい振動は、それが電気を持っているかのように私の背骨をしびれさせる。 動物を探すことに飽きた息子の顔から笑顔が消えた。眩しそうに目を細めるのも良くない兆候だ。 いよいよ私は焦り出した。まずはお菓子。ダメならジュースも。頭の中で対策を順序立てる。 「あー!」息子は抱いている私の手から逃れようと腰を引きながら声をあげた。 始まった。 まだ言葉が話せない息子は、イライラを音で表現する。「あー」とか「ぎー」といった音を出して不快感を精一杯表現するのだ。 「もうすぐ動くよ。クルマもうすぐ動くからね。そうしたら、ほら、お外に動物が見えるよ。今度は何かな?」なるべく優しく、息子の耳に届くように声を掛けるが聞こえてはいないようだ。息子の声はますます大きくなる。 「お腹すいた?じゃあクッキー食べようか。クッキー。ユウ君の好きなクッキーだよ。」 大好きな「クッキー」という単語はキャッチしたようで、息子は声を出すことを止めた。 私達のやり取りを聞いていた夫が慌ててバッグの中から黄色い花柄のミニバッグを取り出した。ジュースとお菓子はこのミニバッグの中にある。チュブラーシカの絵が気に入って買ったこの小さなお弁当箱はふたがしっかり閉まらない不良品だった。しかし他に適当なケースが無いので輪ゴムをして使っている。夫は輪ゴムを外しクッキーと卵ボーロの入ったケースを息子の前へ差し出した。 息子は嬉しそうに両手を伸ばした。 「なんで目の前に出すのよ。」思わず声を荒げてしまった。 「目の前に出したら全部欲しがるでしょ。一つずつ渡して。」 「あ、ごめん。」夫は素直に謝る。しかしそれが私の癇に障わった。こめかみの上の方の髪の毛がわさわさと浮いていく。静電気で引っ張られるように。 息子は既に夫の手にあるケースから卵ボーロとクッキーを掴み、全てを口の中へ入れようとしていた。 「ダメだよ。一つずつだよ。ゆっくり食べよう。ね、ゆっくり。」私は夫の方を見ないようにして、息子の手とお菓子のケースを離そうとした。 「あー!」お菓子を取られると勘違いした息子はまた大きな声をあげる。 「わかった、ごめんごめん。」ここで大声を出されたら辛いのは私だ。お腹もすいているだろうからもう少し食べさせて落ち着かせよう。卵ボーロを小さな指で器用に抓み、次々と口へ運ぶ息子を見ながら、夫の失態を心の中で毒づいた。 この人がユウ君の前に出すから。だからいけないんだ。もっと普段から面倒見てくれていれば分かる事なのに。 時計を見ると、いつもお昼を食べさせている時間だった。お腹が空いているのは当然だった。 「ごめんね、お腹すいたね。ゆっくり食べてね。まだ長いから。」 私の言葉など耳に入っていない様子で、息子はクッキーにかじり付いた。反対の手には卵ボーロが握られ、ひとつ残らず口に入れてやる、という勢いだ。 普段は食の細い息子だけれど、時折ものすごい食欲というか、食い意地を見せる事がある。目の前の食べ物を、とにかく全部口の中に入れようとするのだ。こんな事をするのは息子だけなんだろうか。どうしてこんな食べ方をするんだろう。 友達にわざわざメールしてまで相談するような事かと躊躇してしまい、結局その時は夫に相談した。 「ねえ、どうしてこんなにすごい勢いで食べるんだろう。食い意地が張ってるのかな。何かストレスかも知れない。」 真剣に考えていた私に夫は笑って言った。「男の子なんてそんなもんやろ。」私の心配をそう言って一笑した。 こんな食べ方をするようになったのは、今の町に引っ越して来てからなのだ。私は息子なりにストレスを感じているんじゃないか、と考えた。環境が変わった事は息子にとっては大きなストレスだったはずだ。私と同様に。 夫はそんな事にも考えが及ばないのだ。私達の事なんて、ちっとも考えていない。 突然ガクンとサファリカーが揺れ、ゆっくりと進みだした。私の思考はそこで切断され、息子もビックリしたように肩をすくめてフリーズした。 「あ、ユウ君、お外。ライオン見えたよ。」私は息子の視線をお菓子のケースからそらし、素早くケースを自分のお尻の後ろに隠した。当然、外にライオンなんていない。 「ほら、あそこの木の後ろにね、尻尾が見えたよ。」もう少し息子の頭からクッキーを離しておかないと。そう考えてのフェイクだった。 思いだしたように小さな口をモグモグ動かしながら、粉だらけの手を広げ動物を探そうとする。何でもいいから動物に登場して欲しい。 「あうー!」息子が更に不機嫌な声を上げながら目をこすった。 「まだお腹すいてるのかな。もう少し食べさせたら。」夫が横から声を掛ける。 「これは眠い時の声なの。」焦る私は夫へ答えるのももどかしい。 「ちょっとどいて。」私は夫の方は見ないようにして息子を抱いて立ち上がった。立って抱っこしないと、息子は眠らないのだ。ちょうどバスが止まったタイミングだった。夫の座るシートの右側のスペースに立ち、息子を抱いて縦に揺らす。スクワットをしているようでかなり辛い。いつ動くかも知れないので運転席にも気を配りながら足を踏ん張る。 「大丈夫?代わろうか?」 「いいよ。私じゃないと泣いちゃうから。」 息子は何度か私の胸に頭をぶつけるしぐさをした後、ピッタリと顔を付けた。やっぱり眠かったんだ。バスはのんびりと進み、わだちに足を取られるように大きく揺れた。倒れないように、息子をしっかりと抱きしめて足をふんばった。
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