5 バスの一番後ろに座った私からは車内の様子がよく見えた。三人掛けのシートが五列あり、最前列はカップルがいた。後ろに子連れファミリーが続き、私達が座る五人掛シートの真ん中には、三人掛けに座れなかった父親らしい、コロコロとした体型の男性が座った。前列の、これまたコロコロとした男の子が通路を歩き、その度にこの父親は体に似合わないか細い声で注意していた。 その右隣は外国人カップルで窓にベッタリくっつくようにして座っていた。帰るまでに縦になってご飯が半分ほどに潰されたコンビニ弁当を連想させた。男性が女性にぐいぐいと近づき、女性が車体と男性にぺちゃんこにされている。 このカップルが一番後ろのシートで良かった事は、まだ小さい子ども達が、彼らのネチャネチャとしたスキンシップを見ずにすんでいる事だ。そしてデメリットは、彼らの強烈な香水だかシャンプーだかの匂いを、私がモロに受けてしまう点だ。 今、猛烈に気持ちが悪い。 今日は朝からチーズオムレツを食べて来たのだけど、バターの量が多すぎたのかも知れない。 ああ、そんな事を考えていたらまた気持ち悪くなってきた。 「どうした?気分悪い?」私の冴えない表情に気付いたらしい彼が心から心配そうに気遣ってくれた。 「うん、ちょっとだけ。でも大丈夫です。バスもスローダウンしてきたみたいだし。」実際バスはまだ草食動物のエリアにいた。マイカーが多い為か少し進んでは止まるを繰り返していた。動く時には、バスが「よっこいしょ。」と言っているようにガクンと動く。 「ちょっと窓開けようか。」 「そうですね。ここならまだ大丈夫そうだし。」私は窓ガラスのはじのつまみになっている突起に親指を掛けて押してみた。 「あれ?」つまみはびくともしない。何度か力を入れてみたがダメだった。 「どれ、貸してみ。」彼は親指以外の四本の指を突起に当て力を込めた。 「ホントだ、開かない。おかしいな。」そう言うと左手を私のシートに当てて体重を支えると、手形でもとるように掌を広げてガラスに当てた。 彼の胸元が私の耳に当たりそうなり思わず息を止めてしまった。私もこんなピュアな部分があったのね、と笑いたくなる。 彼がぐっと力を入れると、窓ガラスはあっさりと開いて、ちょうど吹いて来た風で私の前髪がふわりと浮いた。開いた窓ガラスを見ると突起は付いていなかった。突起は車体の方に付いているもののようだった。 「なんだ、こっちに付いてたのか、ややこしいなあ。」彼も同じことを思ったようでストンとシートに腰を下ろしながら笑った。そっと流れ込んでくる風が、車内に漂っていた甘い匂いを少し浄化してくれた。 「あー気持ちいい。」思わず日向の猫のように目を細めた。少し動物の匂いはするものの、風が顔や髪を撫でて行くのは気持ちが良かった。 外では名前は分からないが見るからに平和主義といった表情の動物達が日陰で寝そべったり、のろのろ歩きながらこちらを見ている。 久保さんが言った通り、大人になってからの動物園もなかなか良いものだった。キリンや像が大きいのは、まだ小さな子供の頃に見たからだと思っていたけれど、それは全くの間違いだった。大人になって見ても、像やキリンが大きいものは大きい。そして自分より大きな生物を目の当たりにするのは新鮮だった。彼にその事を伝えると、「でしょ!」と嬉しそうに笑った。 子供達の歓声が聞こえたので窓の外を見ると 大きなラクダがのそのそと現れた。ドライバーが張り切ってアナウンスをした。 「あのラクダはアラジンと言って、とても人懐こいオスのラクダです。この園で生まれました。人間で言うと中学生くらいの一番元気な時です。呼んであげてください。寄って来ますよ。」 子供達が窓から一斉に「アーラジーン!」と声を掛ける。ドライバーはここに来るまでの間、どこかで取っておいたのだろう、大きな葉っぱでラクダを誘った。ラクダはドライバーの所まで一直線に来ると、葉っぱを食べながらバスの周りをゆっくりと歩いてくれた。開いている窓があると顔を突っ込んでみたり、愛嬌たっぷりだ。 「そうなんだよ。サファリはバスに乗った方が絶対面白いんだ、ドライバーが動物の呼び方を知ってるから。」彼は満足そうに言って、ラクダの登場に湧く子供達を見ていた。 「だからバスに乗ったんですか?私、クルマが傷付いちゃうからバスにしたんだと思った。」バスが停まった事で少し落ち着いた私は、つい本当の事を言ってしまった。しかし彼は気にするようでも無くこちらを向いて言った。 「確かに傷つくのも困るけどね。こっちの方が動物見る事に集中できるじゃない。動物もマイカーよりバスの方が見慣れてるから近くまで来てくれるよ。お、来た!」開けた窓からラクダの鼻先が侵入して来た。 「わあ!ビックリした!」私は突然現れたラクダの大きな顔に驚いて思わず彼の方へ体を寄せてしまった。彼のわき腹辺りに私の右腕が当たる。 「あ、ごめんなさい!」謝る私に彼はおかしそうに笑いながら右手をラクダに伸す。 「いいって、いいって。ほらアラジン。近くで見ると可愛い顔してるよなあ。」確かに愛らしい目をしている。でも手を出したら、モグモグと動いている口でパクっと食べられてしまいそうで、私は手を出せない。 彼はそっと鼻先を撫でた。ラクダは羨ましいほど長いまつ毛持った目をぱちくりとさせて彼を見つめ、少しだけ目を細めた。撫でられるのは嫌いじゃないらしい。 ラクダは長い舌で口の周りを舐めると、ゆっくりと前方へ移動して行った。前の子供達の歓声が一層大きくなり、その親達はカメラを構えて子供とラクダとの遭遇に備える。 「前にも来た事あるんですか?」落ち着いた私は、かなり通な事を言う彼に聞いてみた。 「姪っ子を連れて年に一回は来てるよ。妹の子なんだけど、もう四歳だったかな。旦那が出張の時なんかによく連れて帰ってくるんだけど、俺が休みの時はどこかに出かけるのがもう定番になってて。」 「姪っ子ちゃんがいるんですか。いいなあ。」 私には姉の息子がいるけれど、遠くへ嫁いだのでほとんど会える事が無い。 「女の子だから難しいけどね。俺相手に人形遊びするんだよ。バービーだっけ?あの金髪の女の子。お着替えさせるからこれ着せろ、あれ着せろって大変だよ。適当な靴履かせたら『それじゃない!』って怒られるし。男の子だったらミニカーで遊べたんだけどなあ。」彼はきっと姪っ子ちゃんを思っているのだろう、眼鏡の奥の目が優しそうに一層下がる。言う事とは反対にすごく嬉しそうだ。 「でもかわいいんですよね?」試しに聞いてみると、そりゃあもう、と言うように大きく頷いた。 動物を探しながらのろのろと進むマイカー達を、ドライバーはハンドルを大きく振りながら避けて追い抜いて行く。その度に車体は上下左右に大きく揺れた。私の体の水分も揺さぶられているようだ。止まっている間はまだ我慢できても大きく揺れるのは辛い。 「次はライオンやトラがいる猛獣コーナーへ入ります。恐れ入りますが窓を閉めてください。お子さんをお連れの方は、途中で窓を開けないようにご注意ください。」ドライバーがアナウンスして子供達は素直に窓を閉めた。いよいよライオンが来るぞという、子供達の興奮と緊張が見て取れるようだった。 少しでも風を受けていたい私はドライバーの言葉を聞こえなかったふりをして窓の外へ視線をやった。少しでも新鮮な空気を肺に送ろうと大きく息をする。 日は高くなり、紅葉し始める前の葉がさわさわと風に揺れて地面に水玉模様の影を作っている。枝の隙間からキラキラと光る太陽光がまぶしい。本当は紫外線には気を付けなければいけない年齢なんだろうけれど、この眩しさを体全体で受け止めるのは好きだった。 こんな風に木の下から太陽を見上げる映像を見た事がある。あれは映画だったろうか、ミュージックビデオだったかも知れない。草原の中に1本だけ生えたその木の枝に、白いワンピースを着た女の子が沢山のリボンを結ぶのだ。リボンは風を受けてヒラヒラと揺れる。その子は自転車で気持ちよさそうに走って行く。 「ねえママ。まだ窓開けてる人がいるよ。」ぼそりとつぶやく声に反応して思わず前を見ると、前の女の子がシートの背から目の上だけを出してこちらを見ていた。眉毛の上にピッチリまっすぐ切り揃えられた前髪と一重まぶた。まつ毛が不自然にカールしているのは、まさかまつ毛パーマだろうか。不自然極まりない。 「ライオンのところへ行くまでにちゃんと閉めるから大丈夫。」母親はこちらを見ないように、女の子に向かって囁いた。 それはそうだ。猛獣ゾーンに行くには、草食動物との間を仕切るものがあるはずで、そこまで行ったら、窓は閉める。その事をどう女の子に伝えれば良いのが少し迷った。 「でも運転手さん、閉めてくださいって言ってたよ。」女の子は私から視線をそらさず、隣の母親に訴える。でも間違いなく私に向かって言っているのだろう。きっと学級委員をまじめにやるタイプなんだろう。苦手なタイプだ。 「そうだよ、運転手さん言ってたよ。」狭い車内を動物が現れるたびに動きまわっていた、あの男の子も参戦だ。こうなるともう勝ち目はない。 「ごめんね、今閉めるからね。」うまく笑えたか自信が無いが、とりあえず笑顔を作って言いながら、彼が開けた時と同じように掌を押しつけて窓を閉めた。女の子は、よし、と頷くと前を向いて座った。 「小学生くらいになると手ごわいなあ。」彼は声をひそめて、耳元で囁いた。 「本当に。」私も眼だけで頷いた。あのカップルの匂いが渦巻きを描きながらこちらに向かってくるような錯覚がした。
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