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作品名:ライオンバス 作者:小池紗智子

第2回   2
2.
動物園の入り口で入場券を買う人の行列を見て、私はしゃがみ込みたくなった。でも十キロもある息子を抱いてしゃがんだら立ち上がるのが大変だ。だからそうしなかった。
連休中日の今日、それまで停滞していた雨雲は、まるでデリート機能でもあったかのように消え去っていた。久々に見る青空には、スプレーブラシで描いたような雲が張り付いている。強い日差しもほんの少し私を憂鬱にさせていた。
この町に引っ越してやっと二カ月が経った。「やっと」と感じてしまうのは、まだ毎日通えるような公園や児童館を見つけられないでいる為に、だらだらと家の周囲を散歩するだけの毎日だからだ。
友達もいない。
初めて息子を連れて行った公園で知り合った人は結局エステの勧誘になった。予防注射に行った時に声を掛けてくれた人が誘ってくれたランチでは、絶対に儲かるという新ビジネスの説明を延々聞くはめになった。
前に住んでいた町には昔からの友達の他にも、結婚して引越したマンションで出来た友達、出産後仲良くなったママ友、そのママ友と通い始めた子連れヨガ教室で知り合った友達、と毎日いろんな友達に会っていたから一週間はあっと言う間に過ぎた。「近くに住んでいるんだから」と頻繁に孫の顔を見たがる母を、友達とのスケジュール優先で断る事も多かった。
あの頃はどうやって友達を作っていたのだろう?思いだそうとしても、考えてみても、まるでわからない。私と息子の周りに、あれほど沢山の人たちがいたのが嘘のようだ。
息子と二人きりで過ごす一日は恐ろしく長い。
七日しかない一週間も、まるで一カ月のように感じる。
「もう木曜日か。今週も早いな。」とつぶやく夫は、すっかり新しい職場にも慣れて、自分の場所に落ち着いたようだ。
今日来ている動物園も、職場の方に教えてもらったのだそうだ。四連休に浮かれて、動物園が混むという当たり前の事にすら気付かず提案してきた夫の能天気さに腹が立った。「混むから止めよう。」とは言わなかった自分の落ち度は棚に上げて。
「もう帰ろうよ。」と言って夫を困らせたくなった。困った顔と「ユウも楽しいと思うよ。行こうよ。」という夫の懇願にも似たセリフを聞けば私の気持ちも少しは落ち着く。
本当に帰るつもりなんて無いのだ。家に帰っても楽しい事なんて何もないのだから。ただ、困らせたいだけだ。
行列の最後尾のそばで、でもその列に並ぶ事はしないで息子を下ろして手をつないだ。きっとものすごく不機嫌そうな顔を、私はしていたのだろう。夫は入場券を買ってくるからと言ってくるりと背中を向け行列に並んだ。
走り出しそうな息子の手をしっかりとつないで、近くのお土産物屋を見に行くことにした。夫が入場券を買う時間位は潰せるだろう。
大勢の人の声は、寄り集まって一つのサウンドとなりドーム状になった天井に反響した。時折子供の甲高い声が、地面から空に向かって発射されるレーザービームのように響く。
行列にうんざりする人を慰めるためなのか、パンダとウサギの着ぐるみが現れた。子供たちが群がるのがわかる。
「行ってみようか。」私は息子の手を引いて近づいた。しかし2体の着ぐるみを見ると、息子は悲鳴を上げて私の足にしがみついた。絵本で見る動物は大好きなのに、着ぐるみは怖いらしい。
「パンダちゃんだよ。」と言っても息子は信じない。そちらを見ないように私の足の間に顔を埋める。
「うさぎさんもいるよ。お耳の長いうさぎさん。」歌うように言ってみるが息子は顔を向けようともしない。足をバタバタさせながら何やら叫んでいる。息子にとっては恐怖以外のものではないらしい。
そう言えば、当時三歳だった妹もミッキーに会って泣きだしたっけ、と思いだした。この様子じゃ、浦安辺りへ行けるのはまだまだ先のようだ。
あまりにも怯えるので、抱っこして行列の最後尾の方へ戻る事にした。
「パンダちゃん、バイバイ。」と私が言うと、息子は泣きながら素早く手を振った。涙で小さな顔全体が濡れ、興奮のために顔が真っ赤だ。怖いけれどバイバイはしなくちゃ。きっとそう思って勇気を出して振り返ったのだろう。ほんの一瞬顔を向けただけでまた私の胸に顔を埋めてしまった。
「パンダちゃんとうさぎさんにバイバイできたね。偉かったね。」私が囁くと捕まる手に力が入った。私を抱きしめてくれているらしい。
「ユウ君、偉かったね。ママ嬉しかったよ。」
もう一度言って背中を撫でると、ちょうど夫が入場券と財布を手に持って歩いて来るのが見えた。
「早く財布しまいなよ。」夫に対してはいつもきつい事を言ってしまう。でも今のは笑顔で言えた。息子のバイバイのお陰だ。
「あはは、そうやね。」夫は困ったように笑う。いつもそうだ。
園内の地図を見て、まずは息子も怖がらずに見られる水鳥のコーナーに向かうことにした。
しばらく抱いていた為か息子はすっかり元気になり、園内に入ると危なっかしく走り出した。


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