10 クジャクのエリアを抜けた頃から子供達にも疲れが出たようで、一番元気に車内を歩き回っていた男の子も自分の席に戻り大人しくしている。 スペースが空いたので、私は夫に背中を向けるように通路を向いて座った。こうした方が息子を抱いて座り易いという単純な理由だ。夫は隣に座る男の子と何やら話しをしている。子供が得意ではないと思っていたのに、珍しい事もあるものだ。それとも自分に息子ができるとそんな苦手意識も無くなるのだろうか。 まあいいけど、と思いながら私は息子を抱いたまま前後に揺れた。息子が眠っている時は私も一番穏やかにいられる。 「ねえ、その小さなお尻をちょっと寄せて。」後ろから女性の声が聞こえたので振り向くと、二つ後ろに座っていた女性がご主人らしい男性のお尻を軽く叩いて寄せ、その隣にスルリと移動して来た。その様子を見つめていた私に向かって微笑むと、「先ほどは席を代わって頂いてありがとうございました。」と頭を下げた。夫の隣にいる、あの男の子の母親だとすぐに分かった。 「いいえ、この子が寝ちゃったんで。」突然の事に驚いた私は不器用に何度も頭を下げてしまった。 「特等席で動物が見られたから喜んでいると思います。一番お兄ちゃんだから全然構ってやれなくて。今日は友達の子が一緒だから、大所帯で。」お父さんも一緒になってこちらを向き頭を下げる。 「そうだったんですか。私、てっきり四人もお子さんがいらっしゃるのかと。私はもう一人で精いっぱいだからすごいなーって…。」 「四人は…うーん、無理ですねえ。体力が持たないわ。」お母さんは口を大きく開けて笑った。私もつられて笑ってしまった。初対面なのに、このお母さんの笑顔には引力があるようだった。 「喜んでもらえたら私たちも嬉しいです。でも、しっかりしたお兄ちゃんですね。羨ましいです。」歩きまわる男の子の妨害にジッと耐えている様子を見て、このお兄ちゃんにとても好感を持ったのは本当だった。 「しっかり見えても、まだまだ甘えん坊で。でも男の子はそこが可愛いんですけどね。」そう言うとお母さんは息子の寝顔に視線を落とした。 「かわいいですね。しっかり抱きついて眠って。こんな頃が懐かしいな。今いくつですか?」 「一歳半です。でもまだおしゃべりができなくて。どの動物見てもワンワンって言ってました。」笑ってもらおうと思って言ったのに、私自身が笑えていなかった。 おしゃべりだけじゃない。歯が生えるのも遅いし、食も細い。成長はしているのだろうが、不安な事だらけだ。お母さんは私の言葉の続きを察知したように答えた。 「男の子はお喋りが遅いのなんて普通、普通。一人目だと些細な事で心配しちゃうけど、二人目になったら上の子の半分も気にならなくなりますよ。もう適当。」お母さんはそう言うと後ろの女の子二人を見た。どちらかがあのお兄ちゃんの妹のようだ。一人はピンク、もう一人はオレンジ色のTシャツを着ていた。小さなリボンやひらひらとした袖がかわいらしい。「ちゃんと座っててね。」と声を掛けると「はーい。」と声を揃えた。 「下の子なんて本当に手を掛けてあげられなくて。離乳食だって『適当でごめんよ!』って思いながらあげてましたもん。でも下の子の方が丈夫になんですよねえ、不思議と。」 お母さんの話し方が楽しくてついつい笑ってしまう。 私の日々の悩みも、この人に話したら「気にする事ないよ。」と笑ってくれそうだ。 「神経質になっていた割に、上の子なんてしょっちゅう風邪ひいてましたよ。喋るのは遅かったし、幼稚園にあがるギリギリまでおむつ取れなかったからもう焦っちゃって。今も好き嫌いも激しいし、虫歯あるし。」お母さんはわくわくする内緒話をするように声をひそめた。鼻の周りをくしゃっとさせて笑い、小さく人差し指を立てる。 「ちょっと!聞こえてるよ。そんな事チクらないでよ!」お兄ちゃんが前の席から声をあげた。 「あらやだ。耳だけはいいんだから。」驚いた振りをしたお母さんは左手を伸ばしてお兄ちゃんの顔をくすぐった。 息子がぐっすり眠ってくれたのと、何より話しやすいこのお母さんのおかげで、初対面とは思えないほどのお喋りをした。 女性は一日に二万語を話すとストレスが溜まらないそうだけれど、確かに一理あるのだろう。バスがサファリコーナーの入り口に戻る頃には気持ちが軽くなっているのを感じた。 バスを降りると、私達が並んだ時とは比べ物にならないほどの長い行列が出来ている。早い時間にここに来たのは正解だった。話の楽しいお母さんとしっかり者のお兄ちゃんの家族に手を振って別れ、私達は息子が起きないうちに帰る事にした。既に一時を回っていたけれど空腹もピークを越えればなんて事は無い。 いつものように夫が運転席で、私は後部座席にセットしたチャイルドシートの隣に座る。 「ユウ、喜んでたね。」珍しく、夫は運転しながら後ろの私に声を掛けた。 「そうだね。やっぱり動物好きなんだね。会社の人に良いところ教えてもらって良かったね。お礼言っておいてね。」私が言うと、夫も弾んだ声で、そうだね、と答えた。 混雑していたのは動物園に向かう車線だけで帰りは空いていた。朝は座る事を嫌がる息子に手を焼かされ、駐車場に入る渋滞を恨めしく思っていたのに。眠ってくれている時に限って道は空いているのだ。 「ねえ、バスで一緒になったお母さんね。」私は運転席の方へ体を乗り出して夫に声を掛けた。夫はサングラスを探して左手が忙しく動いていた。 「うん?あの子のお母さんがどうしたの?」 「近くの小学校の体育館でバレーやってるんだって。良かったらどうですかって誘ってもらったんだけど。」それはとても嬉しい誘いだった。引越してから二回も痛い目に遭っている私も、つい「行きたいです!」と即答してしまったのだ。元バレー部なのも理由の一つだけど、大部分はあのお母さんの人柄だろう。 「いいじゃん、行っておいでよ。」 「でも水曜日の夜なんだって。ユウ君連れて行けないし。」 「行けばいいよ。せっかく誘ってもらったんだし。僕が見るから大丈夫だよ。水曜日なら残業無いし。」やっと見つけたサングラスを掛けながら夫はミラーで再度私を見た。 「でも泣いたりしたら困るでしょう。」 「そんな心配してたら何も出来ないよ。もう一歳半だし、大丈夫だよ。そろそろ好きな事してもいいんじゃない。僕も協力するから。」 結婚したら片手が折れる。子供が出来たら両手が折れる。実家の母にはそう言われ、我慢するのが母親なんだと思っていた。転勤が決まった時、幼稚園に行くまでは自分が我慢しなければいけないのだと、絶望的に覚悟をしたのだった。 「お母さんに頼れなくなった分は僕が見るから。」夫はゆっくりとブレーキを踏みながら言葉を続けた。 「君が良い状態でいてくれる事が一番なんよ、この家は。バレー行きなよ。友達出来れば、こっちの生活も楽しくなるよ。また友達づき合いで忙しくなるよ。きっとなる。」話しをする機会が減ってしまってけれど、夫は私の気が晴れない一番の原因をきちんと分かっていたようだった。そうだ、妊娠して仕事を辞めた時もそうだった。私はスケジュールが空く事が何よりもストレスなんだ。 「それにさ、ユウも体力付いて来たじゃん。たまには僕が手荒く遊んでやった方がいいやろ。僕もユウと遊ぶのが面白くなってきたから男同士の時間を提供すると思って行っておいで。それとも、また何かあるんじゃないかって心配なの?」まるで父親が子供を心配するように優しく、おそるおそるといった感じに私に尋ねた。 「いや、そうじゃないけど…」あのお母さんに限ってそんな事は無いと強く思った。 「大丈夫だよ。またそんなのが出てきたら僕が撃退するから。」夫は冗談を言うように軽く言った。ああ、そうだ。私がピンチの時は、いつもこの人が助けてくれたんだ。 マチュピチュで高山病になった時だって。 クルマで事故った時だって。 父を亡くした時だって。 エステの勧誘も新ビジネスの誘いも断ってくれたのは夫で、それ以上に私の気持ちの隙をついた彼女達の事を怒っていた。自分の事のように。 普段の生活では発揮できないだけで、夫はいつも私と息子を守ってくれていた。愚痴も言わず、不満も言わず。それなのに、私は生活の場が変わった不都合や寂しさを全部夫のせいにしてしまった。 「ありがと。本当に嬉しい。」アクセルを踏みだした夫の横顔を後ろから見つめながら、私は素直に口にした。謝る代わりにできるだけ丁寧に。 「最近さ、きちんと話しができてないじゃん。そうゆうの良くないと思うんだよ。不満があるなら言いね。全部は応えられないかも知れんけど。困ってる事があるなら僕がどうにかするから。」 「本当にありがとうね。」出来る限り、私は丁寧に言った。夫が望んでいる事は良く分かっている。私と息子が元気に笑っている事だ。 「腹減ったな。何食べて帰ろうか。」夫は左手を伸ばして私の髪を撫でながら言った。 「そうだね、ユウ君も食べられるもので…お寿司なんてどう?」私は夫の一番の好物を提案してみた。
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