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作品名:K氏の手記 作者:異邦人

第9回   9
 名前は小塚(こつか)源氏(げんじ)。伊勢生まれの、漁師の五男坊。
 中学卒業から土木作業員として、東海三県の飯場を渡り歩く生活を五十過ぎまで続け、ダム工事現場での労災事故で、一命は取り留めたものの、片足を不自由にして、まともな仕事ができなくなったことから、食い詰めたのだという。
 孫請けのちっぽけなヤクザ紛いの組を渡り歩いたので〈早い話、タコ部屋である〉、年金などはかけていない。元請会社がかけていた労災保険金が下りて、親方に少しピンハネされたけど、一時はまとまった金を手にして、人生最高の栄華を極めた。が、それも、土(どん)古(こ)競馬と、中村トルコ(ソープランド)で泡と消えた。
 歳は六十三歳。そのわりに顔に皺がなく、血色がいい。頭は剃ったわけではなく、初めから無毛。境目のない頭も顔も、アメ色のゴムのような皮膚。アルコールが入ると、それがまたみごとに、金時(きんとき)の火事場見舞いの態(てい)になった。
 一度も家庭を持ったことがなく、故郷(くに)に帰る顔もない。体のあちこちに不具合を抱えながら  近頃難儀なのは、目玉の座りが悪くなる病気だとかで、景色が左右斜(ななめ)に傾いて見えるのだという  野良犬の高橋君と残飯を漁る共同生活を余儀なくされている。
 そのわりには生来が楽天家なのか、冗談をいってよく笑う。笑顔は百万ドルの値打ちがある。
 お人よしで、気弱な、そして淋しがり屋の、自称元ヤクザ  というのが、ゲンさんの正味のところだろう。
 独りになりたくて、誰もいない小さな公園を選んで住み着いたのに  。
 うんざりしながら、K氏は帳面を閉じて、手製のローソクランプを吹き消し、例によって、寝袋にもぐり込んだのだろうか。

 そうなのである。
 K氏はどこでもここでも、芋虫のように寝袋の中で寝る癖がある。そうしないと、安眠できないのだ。
 若い頃から、一人キャンプや、野宿が好きだったK氏は、よく寝袋で寝た。頭からすっぽり被ってチャックを閉めると、蚊や虫が入らないし、何より一番の強敵、ムカデを防げる。そればかりか、一度クマに前足で弄られ、鼻で転がされたこともある。あのムッとする獣臭さが鼻腔に蘇るから、夢ではあるまい。
 独身時代には、アパートの部屋の中でも寝袋に寝たほど、それは習慣化していた。結婚してからでも、そうしょうとして、妻の顰蹙(ひんしゅく)を買った。
 実は、子供時分からその傾向はあったのである。狭い処が異常に好きな子だった。自分の息遣いが耳に響くほどに狭い処が好きだった。
 押入れや、布団の中、屋外では、藪の中や、穴倉や、水中や、雨の中  雨の中を、傘さして歩くのが、ことのほか好きだった〈雨降りの日は、今でも気持ちがなごむ〉。
 わけても、雨降りに藁束を広げて頭から被り、独り黙念と川釣りをするというシチュエーションは、最高だった。雨が世界を遮断し、自分の息遣いだけが、耳に大きく響く、自分だけの世界。雨紋や、波紋に漂うウキを見つめて、陶然(とうぜん)としていた。
 それはほとんどエクスタシーに近かった。
 あらゆるものから隔絶した自己がそこにあった。自己は世界からかき消されていた。自己が唯一の存在であり、かつまた、自己を所有していた。
 後者の自己とは、想念のことである。
 幼少の頃の想念は、多くの場合、好きな子の前でカッコイイとこを見せる、悪い奴らをバッタバッタとやっつける、という他愛のないものであったが、その虚構にのめり込むと、脳から快感物質がこんこんと湧き出て、得もいえない甘美に包まれて、我を忘れた。
 気がつくと、夕闇が迫っていて、もの悲しいヒグラシ時雨が降り注ぎ、周りの景色は一変、ものみな濃い色合いに形を失い、それが怪しい影をつくり、蒼い空と、水面だけが、不気味な明るさに光っている。
 ゾクッと、背筋が冷たくなり、首筋から戦慄が後頭部を這い上がる。ラムネのように肌が粟立つ。水死人の亡霊や、尻の穴から肝(きも)を抜くというカッパに追われて、パニックになって逃げ帰るのであった。
 家に帰っても茅屋は暗く、迎えてくれるのは腹を空かせたニワトリや、三毛猫、犬の親子、神社の草叢に繋がれたままのヤギの啼き声、そして、いいつけられていた風呂焚きなどの手伝い仕事  という現実だった。
 やがて、土塊(つちくれ)のように疲れた母が野良仕事から帰って来て、風呂が沸いてないことを叱られる。
 そういった幼少期の思い出は、際限もなく、いくらでも湧いて来る……。
 
 −−ギャッ! と、銀杏の梢で、月夜の夢見ガラスがひと声啼いた。
 それで目が覚めた。
 チチチッと、セミが木の葉か何かにぶつかって飛び去る羽音がした。
 松虫のチンチロリンに混じって、咳払いがした。
 ……ぁかすきゃぁ、ぉまいさん。
 しわがれた声で、ゲンさんが何やらブツブツつぶやくのが聞こえる。
 小便に立ったような音。
 トイレにも行かず、近場の夾竹桃(きょうちくとう)の根元ですませている小便の音。
 屁の音。
 ……ああ、うんざりだ! 人の世の雑音!
 またぞろ、山が恋しくなる。


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