−−あかすきゃあ、おまいさん! という声に、ハッと我に返ったK氏は、長い夢から覚めたような顔でーーというか、たった今人生が始まったような感覚で、声がした方を振り向いた。 実際、K氏は、公園のツツジの植え込みの中から顔だけ出して、猫がウンチするような格好で腰を下ろし、とりとめもない想念に身を任せて、没我の境だったのである。 既に公園は暮色に沈んでいて、色濃くした木立の葉群の合間から、残照が染め残した蒼い空に、秋らしいまるい大きな月が垣間見えた。衣服はしっとり湿気っていて、ひんやり空気も冷たく、足元で、盛んに虫がすだいている。 K氏の顔は薄暮の中に薄ぼんやり白んで浮いていたのではあるまいか。 見ると、常夜灯の光に照らされて、植木鉢を逆さにしたような帽子を被った、大層らしい出で立ちの男が、微笑んで立っている。遊び場側の、芝生の上にである。 背中に何やら丸めた横長の大荷物を背負っており、ヤカンや、手鍋や、お玉、傘、バケツなどの生活用品を体中にぶら下げている姿からして、一見して同類とわかる〈やはり、被っているのは帽子ではなく、プラスチック製の植木鉢のようだった〉。 にしても、いきなりのぞんざいな声かけといい、冬柿のように下膨れに熟れた顔の、中央部に造作をかき集めての愛嬌振りには、いつもながら意表を突かれる。この手合いは初対面であろうがなかろうが、笑顔ひとつを名刺代わりに、なれなれしく話しかけて来る。 よもや知る辺ではあるまいかと、思い直して、更に眼(まなこ)を凝らしたが〈それもいつもながら腹立たしいことだ〉、頭からつま先まで、全く見覚えはなかった。 −−おまいさん、何ぃ。ここは、もうはぁ、長いのか? といって男は近づいて来て、ーーワン! と吠えた。 吠えたのは連れの犬の方であったが、それがゲンさんと、連れ合いの「高橋君」という白毛頭の犬との、正真正銘、初の出会いであった。 犬は吠えた拍子にくわえていたものを落としていた。それは自分の食器のアルミボウルであるらしく、背中に、敷物とおぼしきボロを背負っていた。 (ひとの領分へ来て、いきなり吠えるやつがあるか) K氏が、諸国放浪から再び名古屋に舞い戻って来て、先住者がいないのを見計らってから、この中川区内の児童公園にテントを張ったのは、ついこの間のこと。 ようやく周辺の認知を受けた気でいるところへ、ゲンさんと、その連れ合いが、最初の招かざる隣人となった。 人のよさそうな労務者風情の五十男とーー見た目そうであったが、実際は六十を超えているとのことーー情けない顔の白毛頭の犬を煙たがる理由はほかでもない、テントが二組になればそれだけ目立つし、それを拠り所に、また行き場のない連中がポツポツ集まって来て、たちまちテント村が形成されてしまうのを、危惧するからである。 そうなればまた、何かとわずらわしい近所付き合いが避けられないし、近隣からも苦情が出て、結局はまた立ち退かざるを得なくなるからだ。 そうやって田舎の神社や、公園など、公共施設を転々として来たわけで、本当は誰もいない深山(みやま)にこもるのが一番なのだけれど〈実際何度も試みた、けど、山の妖気に追われて、また、人恋しくなって、長続きしない〉そうもいかないので、できれば誰も傍に来ないで欲しいと願うのだが、叶えられた例(ためし)がない。 独りではいられない、ひとりでは生きられないのが、人間か。人間社会にいる限り、しがらみの蔓はどこからともなく延びて来て、足に絡みつく。 今は黙って男がビニールテントを張るのを見守るしかなかった。もう少し離れたところに、ともいえない。 男は片足が不自由なようだけど、体を右に振幅させながら精力的に働き、手際よく、瞬く間に、K氏のテントから十メートルと離れてないところの、楠の大木の下にテントを張り終えた。ガムテープで、あっちこちのほころびを塞いだ、ボロボロの青いビニールシートを、楠木の枝を利用してミノカサゴのように張り巡らしただけの、お粗末なものであったが。 その中で何やらゴソゴソしていたようであるが、やがてK氏のテントをのぞきにやって来た。そういう事態を懸念して、早々テントに引きこもったのだけど、やはり、無駄であった。 −−ほ。こりゃあまた、ぞんぎゃあ、立派なテントだにゃあか。……自衛隊の野営テントと違うか? というつぶやきが外からしたと思ったら、入り口が無遠慮にめくられた。 日焼け染めのアメ色のツルツル頭と顔が差し込まれ、ワンカップとツマミのようなものが入ったコンビニ袋が振られて、その顔が招き猫のような愛嬌を作った。挨拶代わりに、一杯どうだといわんばかりに。 こういう手合いは、そうやってひとの世界に土足で踏み込んで、憚らない。社交辞令や、相手の気持ちを斟酌する、という手続きは必要としないのである。 そういう赤裸々な世界に身を置いているから、仕方がないとはいえ、その直截で、厚顔無礼な態度には、K氏はいつも、辟易した。 だが、そんなひとの迷惑顔などお構いなしに、男と、柴犬は、もうテント内にいた。 男はゴザの上をにじり寄り、袋からワンカップを取り出して、夕餉のしたくがしかけてある折りたたみ式テーブルの上に、勿体振りながら並べ始める。魚の干物や、ケンサキ、ピーナッツなどのツマミ類を、恩着せがましい顔つきで、紙皿に広げようとしているのだ。 ……まあ、よう。……あかんがや。 したくができあがると、髪の毛が一本もないツルツル頭の男は、ゴザの端にしおらしくひざまずいた。 白いワイシャツの上から紺のカーディガンを羽織って、片足立てに座ったK氏に、 おまいさん、ホワイトカラーかよ、といって、ーーさあ、やろまい、とカップ酒を掲げた。 どうせ、どこぞの居酒屋からでも下げもらった燗冷ましを集めたものに相違ない。ツマミも勿論、残り物だ。 K氏は、ーー酒はやらない、と胸の前で手を振って断った。 男は拍子抜けした顔をした。 じゃあ、タバコはどうだと、マジシャンのように、シケモクが入ったケースを取り出して、差し出す。 K氏は、それも遠慮した。他人(ひと)に借りを作ると、あとで高くつく。この世界で学んだことだった。 こういう手合いは、断固はねつけるに限るのだ。少しでも隙を見せると、そこから侵入して来てまとわりつき、日常生活のリズムを掻き乱されてしまう。 男は気色を悪くしたが、そんなことで引き下がる手合いでもない。 ーーあかすきゃあ、おまいさん。ロープを張ってまってだなぁ、立ち入り禁止の立て札だがや。 と、カップ酒を振って、唐突にいきまいた。腹立ちをほかに託(かこつ)けて表わす。前説がないのも、この手合いの特徴である。 何のことかと思えば、どうやら白川公園のことをいっているらしい。そこを追い出されたことを憤慨しているのだろう。 白川公園のテント村が迫害にあっていることは、新聞や何かでK氏も承知していた。そのうち難民がここにも流れて来やしないかと、恐れてもいたのだ。 果たしてそのようだった。 ーー何だかんだゆうて、お上は生活保護の給付は渋るくせによう。住居が定まってないと駄目だゆうて、金がにゃあから住居が持てんのだがや。そうだろう? ほんだで、支援団体いうのも気ぃつけんとさいが。中には、ゴリ押しで生活保護の給付を叶えてくれるは、住むところも用意してくれ、仕事まで世話してくれる、至れり尽くせりのところがあって喜んどったらおまいさん。あかすきゃあ。バックは極道だいう話だにゃあか。家賃の高い、タコ部屋が待っとるぎゃ。 男は何とか取り付く島を探すような目付きで、半ば脅しつけるように、K氏をねめつけながら、ワンカップをあおる。 ーーまあ、わしらのような、ロートルのヨゴレは、見向きもされんがよう。 今気付いたのだが、男の眉はイレズミで描いてあるようだった。その上から産毛のように薄い眉毛が生えている。体にも入れているような口振り。 ほいでも、お上よりはましだと、バカどもは有難がっとる。とりあえず、住家と、飲み食いが、保障されるもんだでよう。 K氏は隙を与えないように、凝然と男を見つめたまま、相槌ひとつ打たない。本箱兼食器入れに背を持たせて、片足立てに胡坐(あぐら)をかき、膝の上に手をついている。 早い話が、早く出て行ってくれといわんばかりの体勢だ。 共通の話題にも乗って来ないので、男はさすがに気落ちしていた。 こういう飲み助は、きっと、飲み相手を必要とする。能書きを垂れ合いながら飲んでこそ、心地よく酔いもするのだろう〈酔漢の能書きを聞かされるほど、バカらしいものはない〉。 K氏にとっては、鬱陶しい以外の何者でもない。癇癪玉が爆発しないうちに、早く出て行ってくれ、という思いを募らせていた。 いつのことだかわからないが、飲みながらセミのように能書きを垂れる輩の傍にあった小型扇風機をいきなり蹴り飛ばしてバラバラにしたことがある。 そんなわけで、その日のゲンさんは、独り飲み、独り語りに、自分の名前や、素性・経歴のあらましを語って〈それは自分を十倍大きく見せる彼ら特有のカタリであった〉、燗冷ましに酔いもせず、淋しい後ろ姿を見せて、出て行った。 食卓にのった牛乳パンと牛乳を横目に見ながら、ヨダレを垂らしていた高橋君も、コウベを垂れて、振り向き振り向き出て行った。
|
|