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作品名:K氏の手記 作者:異邦人

第4回   4
 困惑の末、K氏はそこに行き着いた。そう折り合いをつけた。不安定のままでいつまでもいるわけにはいかない。あの痩せ犬に対する妄執は、断固断ち切るべし。
 ーーこう開き直ったのである。
 かわりに、用心の為に備忘録をつけることを始めた。妄想や、夢魔の入り込む余地がないように、日常の些事を、出来るだけ克明に記述することにした。
 のみならず、自身の体調や、言動の変化をも、客観的に観察し、それらを赤裸々に書き留めておくことも。
 どういう変化を遂げるにせよ、それを読めば、その様子が明瞭にわかるように、アイデンティティーを保全しておくべし。  
 医者に相談に行くつもりは毛頭なかった。肉体的苦痛があるならともかく、頭の中をのぞく医者はごめんこうむりたい。あの見透かすような目つきが、厭なのである。
 結核で死んだ啄木の句に、「思ふこと盗みきかれる如くにて、つと胸を引きぬ、聴診器より」というのがある。
 どうしてぼくは、人気のない谷の奥の方へと、山の高い所から更に高みへと登って行ったんだろう? 
 それは口が裂けてもいえないことだった。
 だが、あの黒縁メガネは、それを見抜いていた。あのメガネの奥で光っていた目が、ずっと眼底に焼き付いて、離れなかった。時々、ポマードのニオイとともに、夢にまで出て来て、同じ質問をした。
 ーーどうしてかな?
 ーーさあいってごらん。 
 あれから医者は、触ると頭が禿げるといわれた〈ムカデより何倍も気色悪い〉、あの足長のゲジゲジよりも薄気味悪い、大の苦手となったのであった。
 子供染みた医者嫌いのK氏は、家族や友人らの奨めも、切なる願いも、頑として受けつけなかった。
 実際、その牢固とした意思が、信念が、それからの氏の、骨張った体を支えたといってよい。

 あれ以来ーーつまりあの痩せ犬に出くわして以来、確かに心身に小さな変化が起こり、自分でもおかしなことをするようになったと思う。
 そのひとつは、何かといえば、自分の手の甲を、鼻先に持っていって、ニオイを嗅ぐような仕草をするようになったことだ〈懐かしくも妖しい草のニオイがする〉。
 それは傍(はた)から見ると、猫が顔を洗っているように見えたかも知れない。滑稽なことは自分でもわかっているのだが、そうしないではいられない〈というか、いつの間にかそうしている〉。
 大きな執務机に座ってボーとしているか、それをやっていると、秘書の川瀬女子とよく目が合った。
 川瀬女子といえば、三十過ぎて独身のこのキャリヤウーマンは、相当な美人だ。外来者はまず彼女の美貌を褒める。そして、羨ましがる。
 実際、単身赴任の寂しさもあって、身の回りの世話をしてもらっているうち、危ない関係にまでいきそうになったことは、一再(いっさい)ではない。欲望と分別との板挟みに悩んだ時期もあった。それほど彼女は魅惑的であり、その若さが悩ましかった。
 それがなぜか、全く彼女に欲望を感じなくなったのだ。
 彼女に限らず、女性に性的興味を失ってしまった。精力が減退したことを痛切に感じる〈それがどれだけ気力を、覇気を、阻喪(そそう)させるものであったか〉。
 そのほか、味覚の変化もそのひとつ。ようやく慣れ始めていた「赤だし」のしょっぱい味がしなくなった。あの赤味噌の塩辛さがまるでなくなったのだ〈今や梅干よりか、プチトマトの方が数倍すっぱい〉。
 そういえば、いつとはなしに、肩から首にかけて湿布を貼りつけたような違和感が生じていたし〈なので、そこから首が右に折れ曲がってしまい、背筋はしゃんとして怒り肩なのに、振り向く時は体ごと動かすようになってしまった〉、左の膝頭もなんだかおかしい。そこだけ無感覚で、自分の領分のような気がしない。掻いても、叩いても、きっと針を刺しても、何も感じないだろう〈というか、くすぐったいような変な感じがする、のちにこの治外法権的領土は知らぬ間に返還されており、かわりに足の先が燃えるように熱くなることがあった〉。
 そのような、細々した変化を冷静に見つめ、客観的に、あくまで客観的に、委細漏れなく大学ノートに書きつけた。
 客観性を担保にして、そこに軸足をおいている限り、いかなるブレも、変化(へんげ)も、恐れるに足りぬ。それが自己を保全する唯一の道だと、K氏は信じていた。
 この身に「何か?」が起きていることはもはや疑いの余地がない。「それが」夕闇のように迫って来ているという不安が、K氏の全存在を脅かすまでになっていたのである。
 そういえば、作家の芥川龍之介氏を自殺に追いやったのも、「漠とした不安」ではなかったか。彼も病跡学から統合失調症〈分裂病〉だったのではないかといわれている。
 世界が端から崩壊して来ている。 
 そんなテレビ映画を、いつか、観たような気がする。


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