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作品名:K氏の手記 作者:異邦人

第3回   3
 あれは中学一年生の時だったろうか。
 K氏は、希(まれ)に見る「思春期の嵐」というやつを経験している。「見当(けんとう)識(しき)」を失い、血だらけになって、一昼夜、野山をさまよっていたことがある。
 人々はそれを「悩乱」といって恐れた。
 もっとも、K氏自身としては、前後不覚に陥っていたわけではなく、今回のように、あの時の状況を鮮明に説明できる。が、証明することはできないから、夢のような出来事といってしまえば、それまでである。
 K氏がそれを子供心にも恥ずべきことだと思い、医者の質問にもしんねりむっつりしていたが、医者の質問内容は大方当たっていた。さすがに急所を突いていた。
 医者は経験医学に照らしてうなずき、あとで母にこっそり告げたのだろう、予言者のように。病院を出たあとの母の様子が明らかにおかしかった。
 ひんやりした黒板張りの駅舎の待合室で汽車を待つ間、乾物(ひもの)を背負った行商人の婆さんきりいない寂寥(せきりょう)としたホームにおいても、煤煙が鼻を突くトンネル内の鏡のようになったガラス窓の中でも、青葉若葉を揺らして柔らかな風が吹き渡る長閑(のどか)にウグイスなどの啼く山間(やまあい)の道にバスが巻き上げた土煙をよけながら佇(たたず)む折も、放し飼いのニワトリが騒ぎ寄り腹を空かせた三毛猫が足元にまとわりついて煩(うるさ)く啼きながら何度も何度も頭をこすり付けて来る茅屋(ぼうおく)の薄暗い土間の三つ並んだ釜戸の傍の水瓶から柄杓(ひしゃく)で水を飲み、駅前の駄菓子屋で買ってもらった五円だか十円だかのアイスキャンディーの美味かったことを思い起こしながら、そしてそれを兄弟らに自慢しようと口を手で拭い三毛を抱き上げて高い高いをしている背後の上がりがまちに腰掛けて、深い淵(ふち)のように、淀んでいた、母。
季節は廻って、二十二歳の春。
 大学卒業と、就職も決まって、一時帰郷した折に、柔らかな日差しが差し込む白んだ座敷の仏壇の前で、母は居住まいを正し、大きくため息をついて、いった。
 −−やれやれだ。……うふふふ。もう安心。もう大丈夫。うまく、逃げ果(おお)せたな。
 母によると、医者は、二十歳頃までに発病しなければ、まず大丈夫といったらしい。統合失調症の発症を恐れて、母は薄氷を踏む思いだったといった。息を殺して、その時期をやり過ごしたーーと。
 ーー父さんがあんなだったし……。
 仏壇から目を転じ、母は息子を誇らしく眺め、何度も、何度も、安堵のため息をついていた。
 思いがけず、父のことが出て、K氏の方はとても厭な気分がしていた。
 あの忌まわしい記憶だけは思い出したくもなかった。実にそれが気鬱の源であり、一度たりとも、晴れ晴れとした気分になれないのは、心の奥座敷に盤距(ばんきょ)した、その「化け物」が為であった。
 髪一重だなんぞと、世間様には陰口を叩かれもしたけど、村に、町にだって、ひとりたりとも、東大を出た者がいるかや。ーーふんだ!
 母とはそれが最後の別れとなった。
 三年後に母は急死した。死に目にも逢えなかった。駆けつけた時にはもう、田畑を這い回っただけの人生を閉じていた。黒染みの皺んだ顔が、白く上品な顔になっていた。唇には娘時代以来一度も引いたことのない薄紅が引かれてあった。不幸ばかりを見て来た目は陥没し、頑なに閉じられていた。
 戦争から病んで帰って来た父をも含めて、女手ひとつで大家族を支え、爺さん婆さんを看取り、育てた子供は六人。その子らも栄養失調で夭折したり、不慮の死を遂げたり、病気で死んだりして、その時葬儀に会したのは、四男のK氏のほかには、保養院に入っていた次男と、高松で後家になっていた長女だけだった。

 ああ! やはり、そこまで戻ってしまうのか。矢はそこで番(つが)えられていたのか。発芽から三十数年を経て……。それは、逃れられない、宿命であったのか。
 K氏はため息をつき、そしてまた、思い直して、ーーいいや、あの時だって自分の中ではちゃんと説明できたじゃないか。今回だって! 人が何といおうが、自分さえしっかりしておれば。
 よしんば、今になって、その時限装置にスイッチが入ったとしても、それはそれで致し方あるまい。病気に擦り寄って来られては、誰に文句がいえよう。以って瞑すべしだ。いずれ的は、大地であるしかないのだから。


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