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作品名:K氏の手記 作者:異邦人

第2回   2
 そうなると、自分の記憶に自信が持てなくなった。ばかばかしく思えて来た。時が経つにつれ、そう思えて来た。
 実際、ばかばかしい。一笑に付してしまうような話である。分別ある大人が、最高学府に身をおいた者のいうことではない。
 百歩譲って、それに合理的な説明を加えようとすれば、ハイウエイ・ヒプノシス〈催眠現象〉によるーーといって、高速道路を走っていたわけではないが、真夏の暑さと気だるさ、単調な車の流れなどは、おまけに、名古屋の道路はバカに広く、直線が多いのだーー居眠り運転していて、陽炎の中に幻を見て急ブレーキを踏んでしまったのか。
 当たり前にそれは歩行者であり、歩行者の通過を待っているうちに、白昼夢でも見たのか〈現に、交差点で、女のドライバーが信号待ちの間に眠り込んでしまっているのを目撃したことがある〉。
 いや、そもそもが、あの出来事の全部が、まるごと夢だったのではないか。夢が記憶の中に紛れ込んで、現(うつつ)を装おっているのではなかろうか。
 そんなことを思い始めると、前後の記憶との整合性さえ怪しくなった。それこそ空中楼閣、蜃気楼のように思えて来た。
 K氏がその話を最初に持ち出したのは、ーーそういえばこの前……といって、何週間も経てからのことだった。その時、勃然と、その記憶が蘇って来たからである。
 ーーいいや、そんな筈はない。そんな筈があるものか。こんなにも鮮明な記憶と、感覚が、夢である筈はない。
 折節に、K氏は自分を納得させるように、そうつぶやくのだった。当時の記憶を手繰り寄せて、己を説き伏せるまで、執拗に傍証(ぼうしょう)を加えるのだった。
 確かに、あの日は、中央道の建設現場〈中津川・恵那・瑞浪〉工区のゼネコン詣(もう)でから、特約店の車で帰る途中だった。
 特約店の担当が、急に腹痛を起こしたものだから、彼を「瑞浪(みずなみ)病院」に入院させて、電車で帰るというメーカーさんを瑞浪駅に送り届け、自分ひとりがバンを運転して帰って来たのだ。
 それらは関係諸氏の証言からも明らかである。
 特約店の西村君は、朝食のサバに当たったのだといいーーそういえば当初から、彼は青白く緊張した顔をしていた。独身の彼のことだ、腐ったものでも食ったか。日頃ろくなものを食ってないことは、その顔色の悪さからも明らかだった。下痢気味だったのだろう、車内にその先走りの臭気が漂っていた。
 製鋼の山岸氏は、申し訳ないけど、便臭が充満したクーラーも利かない車で帰る気はしなかった、と白状した。
 秘書の川瀬女子によっても、その日の自分の予定行動は裏付けられている。
 ポッカリ宙に浮いた記憶などでは決してない〈自分の五官が信用できなくなったらおしまいだ〉。
 だが、腑に落ちない点もないではない。
 国道19号線を走って帰って来た筈なのに、どうして中村区を走っていたのか? 岐阜の瑞浪から名駅前の支店ビルまでの、道中の記憶がはっきりしない。あの犬に出くわしたこと以外、印象的な記憶がないのだ。
 ビル駐車場には、ちゃんとバンは納まっており、翌日、特約店の者が引き取りに来て、丁重に礼をいわれたのは確かなのだが〈その者にもちゃんと確認は取ってある〉。
 まあしかし、そういうことはままあることだと、K氏は自分に言い聞かせた。
 考え事をしている時などは、目で見たことをいちいち脳がチェックしているわけではない。今さっき通過した信号は、青だったろうか? ーーと思って、あとでゾッとすることが、よくあるではないか。
 一度などは、深夜、道路脇の自販機の明るみの前で、ボーと停車していたこともある。信号と間違えていたのか、あれには我ながら苦笑を禁じ得なかった。
 そうかと思うと、白昼、踏み切りの前に、一旦停止したまま、つくねんとしていることもあった〈これについては、同様の輩を見かけて、人知れず安堵した〉。
 心が他所(よそ)に行っていると、そういう信じられないようなことを、誰しもやってしまうものである。
 あの頃の記録を読み返してみると、確かに問題山積。考え事は山ほどあったろう。
 ぬるま湯体質の支店改革が思うように行かず、業績は一向に改善しないでーー東名阪道路では一敗地に塗れ、十万トンからの鉄鋼二次製品を住友などに持っていかれていたのを、ーー中央道では何が何んでもと、自分がやって来たからにはと、そういう気負いが、また本社の期待が、自分が先頭に立てば立つほど空回りしていたし、プライベートでも、家庭に雑多な問題を抱えている時期でもあった。
 ああ……しかし!
 記憶力には、誰よりも自信があるK氏であった。今でも世界の国々の首都が大抵いえると思う〈不思議と知識記憶は生き残っている〉。
 そこへ、そのような、おかしな記憶が紛れ込んでいたのでは、穏やかでいられない。気になってしょうがない。奥歯に挟まって取れない、肉の切れ端のようなものだ。 
 もう一度、あの犬に出会うかしない限り、あの記憶の中の出来事を、闡明(せんめい)に位置付けしない限り、一歩も前に進めない!
 そこまでそれはK氏を追い詰めた。一笑に付してしまうわけにはいかなかったのである。うっちゃっておけない理由が、ほかにあったのだ。
 なぜといって、彼は以前にも一度、アイデンティティー・クライシスに陥ったことがあるからである。


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