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作品名:K氏の手記 作者:異邦人

最終回   16
 そのほかにも、親父のパソコンにはどれだけの想念ーー妄想・夢想のたぐいが打ち込まれていることやら。
 いや、パソコンの中で、それが自己増殖さえしているかのようだ。
 その証拠に、死後に打ち込まれたとしか思えないような記述がある。

 ーーおお! 見よ! あの犬が、あの痩せ犬が子連れで横断歩道を! それぞれ手を上げて、渡ってゆく……。
 ……しもうたわい………………

 それは紛れもなく、臨終間際に父が残した最期の叫びだった〈一言一句そうだった〉。「しもうたわい」というのは親父の実家がある大分県の片田舎の方言で、「しまった!」という意味である。
 親父の書斎には、発酵して熱を持ったデスクトップが、立ち上げた覚えもないのに、まるで親父がそこに座って操作しているかの如くに、排気音を立てながら薄暗がりの中で画面をスクロールさせていることがある。
 ーー親父はコンピュータの中で生きている。
 ぼくは思うのだが、親父が目撃したという、例の、「犬が手を上げて横断歩道を渡って行った」というのは、あれは本当の話なのではなかろうか。
 その話は、まだ親父の頭がしっかりしていた頃の話だしーー親父の従兄弟や友人らが親父からその話を聞いたのは二十四,五歳の時だったというーー非現実的なようで、そういうことって、あるものだと思う。
 ちなみに、親父の友人の三人とも大学に行っているけど、貧乏人の子沢山に生まれた親父には、母子家庭でもあり、大学なんか思いもよらなかった。高校入試のすべり止めさえ受験しておらず、失敗したら即就職だった。勉強すれば東大なみの頭はあったそうだけど〈苦笑〉。
 ともかく、誰にも信じてもらえなくて無念だった親父の気持ちが、わかるような気がする。
 なぜなら、ぼく自身にも、そのような体験があるからである。

 あれは去年の夏のことだった。格別に暑い日だった。
 明野中学から、中央病院の方へ下る坂の途中の信号でのことだ。
 アクロスの方へ左折するか、そのまま下るかのT字型交差点で信号待ちしていて、ふと前を見ると、ライトグリーン色のゴミ収集車が停まっている。
 それがなんと、後部ドアを開けっ放しにしていて、ゴミを巻き込む回転板に下半身を巻き込まれた形で、白いランニングシャツ姿の男の後ろ姿があるではないか。
 短髪に、太い首、たくましい太い腕を両側に張った状態で、半ばゴミに埋もれている、なんとも異様な光景だった。
 巻き込まれ事故なら、後ろを振り向いて助けを求めるだろうし、ぐったりしているわけでもない。頭は動いている。それでなくても、暑いさなかにーーである。
 収集車は左のウインカーを出している。同じように左に曲がって、運転席を見てみようかと、一瞬思った。が、そうせずに真っ直ぐ下ってしまったのだった。
 それが今更悔やまれる。仕事中ではあったが、格別に急ぐ用事があったわけでもないのに、なぜそうしなかったのかと。
 そのことで何の報道もなかったから、事故ではなかったのだろうけど、あとでこんなに悩むくらいなら、ちゃんと確かめておくべきだった。
 ともあれ、親父が最期に目を爛々と輝かせて虚空を睨みーー恐らく幻覚を見ていたのだろうけどーー指差して発した言葉を、前もって記述していたとは到底思えない……。
 親父はコンピューターの中で生きている!
 コンピューター・ウイルスのような、新たな形態の生物として。
「体は遺伝子の乗り物」という人がいるけど、親父の遺伝子が、新たな乗り物を求めて、全世界をさまよっているのかも知れない。
 会おうと思えばいつでも会える。ワードでも、メモ帳でも、インターネット上のブログや、ウエブサイトでも。
 たとえばこんな具合にである。サイトの「K氏の手記」を開いて、手記の中の「医者の質問」をクリックすると。

 棚田(たなだ)を過ぎてもなお谷川沿いのもう人も滅多に通らない道なき道を蔓草やチガヤを掻き分け踏み分けしながらどんどん谷の奥へ奥へとマムシがいそうな湿地帯さえ恐れずに進んで行った、炭焼き小屋がある薄暗い国有林のスギ叢が始まるドン突くまで。
 そこからは人が踏みしめたことのない獣道をジグザグに登って湿気た薄気味の悪いスギ叢からカラッとした空気のシイやカシ叢を抜けて明るいクヌギやコナラなどの雑木林も抜けて低木がまばらに生えた尾根に出るともう周りの山々を見下ろすほどになっていた。
 ゴーと山鳴りがした。きれいに植林されたスギやヒノキの梢を揺らして風が谷を渡ってゆく。人家も棚田も山間に隠れて見えない。遥か彼方だ。
 だのにまだウラジロなどの下草に足を取られながらも尾根伝いに禿山から更なる山の頂上へと向かった。

 −−するとぼくはどうにもこうにも身の置き所がなかったわけだね。そうなんだろう?じっとしておれなかった。田んぼ一面のレンゲソウの中を転げ回ったり、野原をほっつき歩いたり、竹薮の中に潜んでもみたわけだ。木にも登ってみたんじゃないのかい。
 何かが、何かが皮膚を突き破って出て来ようとしている。サクラの新芽のような、何かが! 
 そのやるせなさといったらなかった。
 そうなんだろう?

 山の頂上には大きな岩と、石の祠(ほこら)があり、傍らに松の木が二本生えていた。
 台風に吹き飛ばされてむき出しになった五右衛門風呂から、シュルエットとして眺めていた遠くの山の松だった。
 その上の空には等間隔に三つ星が並んでいて、それが不思議でならなかった。夜空一面ビー玉の粉を撒き散らしたような天の川に、いつもそれはあった。
 そこにはかぐわしい松ヤニの匂いが立ち込めていた。
 それにもまして藪ツバキの紅い花弁がそこいらに散らばっていて、甘い香りを漂わせて、物憂げであった。
 いつの間にか、松の根方に転寝(うたたね)していて、目覚めた時には辺りはもう薄暗く、フクロウだかミミズクだかが、ーーボロ着た法師と啼いている。遠近(おちこち)の山々は暮(ぼ)靄(あい)に色を失いかけており、眼下は墨を流したように黒々としていた。
空だけが蒼白に輝いていた。一番星が瞬いていた。

 ーー急に恐くなったんだね。パニックになった。わかるよ。わかるとも。あやめもわからない闇というのは、魑魅魍魎の棲家だ。
 それでぼくはどうして人目の届かない、そんな高みに上ったんだろう? 神様しか見えない所に。 
どうしてかな?

 ここで「どうしてかな?」をクリッツクすると。
 ーーいや、止そう。何が飛び出すかわかったもんじゃない。
 この間、妙なところをクリックして、とんでもない妄想世界に迷い込んだ。
 妙なサイトが、ひしめくように細目を並べていて、そのひとつをクリックしたら、いきなり、「会員登録されました。登録料金五万円振り込め!」という表示が出て、度肝を抜かれたことだった。
                
                                了


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