ところが、ハル子は意外な行動に出た。 その体で客を取るといい出したのである。それも、相手構わずに、タダで。 それにはK氏は動揺した。目の前で、こ汚い連中に抱かれるハル子を見て、冷静でいられるわけがない。 有頂天になっていの一番に並んだのはゲンさんであった。それが条件で方々フレ回りもしたらしい。 やがて口コミで噂が広がり、飢民が大挙して押し寄せて来た。 見るからにもう何年も風呂に入ってないような赤粘土のように垢染みた連中や、欠けそうになった鼻を絆創膏で留めているやつや、杖を頼りのヨボヨボの爺様までが入れ歯をカチカチいわせながら公園遊び場に物乞いのように列をなした。点滴の器具をガラガラ押している者までそのあとに並んだ。 みんな、ヤリテババアのヨネのメガネに叶わなくて、ヨダレを垂らしながら指をくわえていた連中である。 いつもなら、ヨネが、――何だい、臭いねえ、風呂に入って出直して来なとか、病気持ちはお断りだよとかいって、糞バエでも追い払うかのように素っ気なく手を振るのだろうけど、今回ヨネは、腕組みして突っ立ったまま、猿眼を見開いて動かない。 と、思いきや、K氏の所へやって来て、――お隣さんのよしみで、二番手にしてあげてもいいけど、どうだい? という。 ――バカ者! おまえは、何をいってるんだ! おまえがついていて、なんてことをさせるんだ! おまえは犬畜生か! 猿か! とK氏は怒鳴りつけた。 ――猿で、悪うござんしたねえ。もう先がないことを知っているハルちゃんが、最期のご奉公をしようというんじゃないか。それのどこが悪いんだい。それともなにかい、あの子の体にはもう飽きちゃってるのかい。 ――ハルちゃん、知ってるのか? 自分の病気のことを。 ――バカにしちゃあいけないよ。あの子は人一倍感受性は強いんだ。何もかもわかってるのさ。死ぬ前に好きな人に会いたいと願っていたら、思いがけずに逢えたんじゃないか。神様のお導きだといって、どんなに喜んだか知れやしない。それを冷たくあしらわれて。 おまえさんこそ、人でなしだよ! だったら黙って眺めているがいい! あいつらにとっては、女神様のようなハルちゃんが、タダで、体を開くところをとくと見るがいい! 警察が来たって、こっちには検事様のお墨付きがあるんだ! ――わかった! ぼくがその学生だ。ハルちゃんに謝る。だから、バカな真似はやめさせてくれ! この通りだ! と、K氏は四つん這いになった。己を罵りつつ〈なんでこういうことになるのだと〉。 ヨネは、二十歳は若返ったように気色ばんで、雀躍(じゃくやく)と連中の前に戻った。 ――やれやれ。こんなに集まったんじゃ、ハルちゃんの体がもたないよ。――ハルちゃんの体調が悪いことはみんなもよう知っとるな! それを知っておって、よくもまあどいつもこいつも、いい歳こいて。 おまえらの連れ合いには、分別というものはないのか! お互いの顔をよく見てみい。いっぺん鏡でワレん姿を見てみい。おまえらの女神が、こ汚いおまえらに穢されるのを許せるのか。 ゲンよ。うしろの鼻欠けがハル子姫のチチに吸い付くのをおまえは許せるのか。どうじゃ! ――あかすきゃあ、おまいさん! 誰だあ、こんな梅太郎なんぞに声をかたのは! ――うるせえー! おまえこそ、お淋し山の、タヌキだろうが! ――おほほほ。よりによって、名うての、淋病(リン)・梅毒(バイ)持ちが、一番手二番手を占めることになるとはのう。あとの者はよほどの覚悟がいるぞぃ。 ――そんな病気持ちは、さっさとどけろや、バアさん。いつも、そうしてるじゃねえか。ハル子に移したらどうする。わしらにも移るわい。 ――ところがそうもいかんのんじゃ。このたびの姫のミッションはのう、――“求むる者には与えん ”というコンセプトなのじゃ。文無しじゃろうが。病気持ちじゃろうが。 わしもだいぶ諌めたんじゃが、聞く耳を持たんのよ。今まで差別して来たことを悔いてのう。プチブルや、インテリゲンチャとかいう階級ばかり相手して来たことをじゃ。 この中には、明日食う米を持って来た者がいるな。十日は食つなげる糧(かて)を持ってじゃ。むげに追い返したのはいうまでもなく、ハル子姫じゃのうて、このわし。元来ハル子姫は、おまえらのような、前世からの宿業(しゅくごう)に引きずり回されたあげくに、何のいいこともなく野垂れ死んでいく階級にこそと、かねがねそういう思いはあったのじゃ。 もう少し元気になってからにしなよというわしの諌めも聞かず、まるでもう先がないかのように、急(せ)いてのう。 さて困った。どうするといって、どうしょうもない。 よし! みなの衆。いずれ煩悩と二人旅のヌシらのこと、それでも構わんーーという覚悟の者だけ残るがいい。ハル子姫も、決死の覚悟じゃ。 姫の、心意気だけを有り難くいただいて帰るという者には、慰労金として、ひとり頭千円用意してある。今日のところはそれで美味いものでも食って、不遇を託(かこ)っているお坊さんをなだめておけ。これはわしが独断で姫の財布から用意しておいたもの。こういう事態になることは、ある程度予測できたのでな。 ほっ! ほっ! ほ! リンや、バイくらいならまだいいが、この中には、もっと怖い、エイズとかいう生死に関わる病気持ちもおるやも知れぬて。 とはいえ、ひとたび焼け木(ぼっ)杭(くい)に火がついたが最期、梵鐘(ぼんしょう)打ち鳴らさずばおさまりがつかぬーーというのもヌシらの悲しい性(サガ)、そういう向きには、このババが相手となろう。
そんな具合に、騒ぎはおさまったものの、これからハル子の恋人役を努めなければならないかと思うと、K氏は気が重かった。 それはとりもなおさず、終末ケアでもあったのだ。死に逝く者にどう接したらよいものか。 しかし、案ずるよりは産むが易いで、毎日顔を出して、日がな一日、夜っぴてということもあったが、他愛のない話に耳を傾けておればよかった。 例の「罪と罰」を読んでくれというので、毎日少しずつ読んでやった。 死刑囚の身から特赦で一命を取り留めた特異な経歴を持ち、二度もバクチで破産するという生活破綻者でもあり、懊悩(おうのう)という言葉がピッタリの顔付きをした作家〈テンカン持ちでもあるという話だ>が書いた物語の、どこにそんな魅力があるのかと思っていたら、やがて成程という場面が出て来た。 その辺だけ何度も読み返した形跡と〈誰かが振り仮名をつけてやっていた〉、涙の滴(しずく)の跡がいくつもあった。 継母にせがまれて、三日もパンの皮すら見てない、飢えた幼い弟妹や、飲んだくれの親父の為に、少女ソーニャが街角に立つことになったくだりである。 自分の身に引き比べてみて、その相似に泣けて来たのだろう。ソーネチカは、まさに自分と同じような境遇の、罪深い娼婦。そのソーニャが、神に赦(ゆる)されたのなら、自分も赦される。そう自分を慰撫(いぶ)したに相違いない。 そして、特異な論理によって、金貸しの老姉妹を手斧で打ち殺して財物を奪った、心気症で、ノイローゼの、青年ラスコーリニコフの罪もまた赦される、と。 ――大地にひざまずいてキスをしなさい。 娼婦ソーニャが、罪深い青年ラスコーリニコフにそういうくだりまで来て、――(はて?)とK氏は思った。 この場面には、何か引っ掛かるものがある。記憶のどこかにありそうな気がした。 が、どうしても、思い出せない。 なので、あとで記録を調べてみようとその時は思ったかも知れない〈その思いはすぐに忘れてしまったようだ〉。 読み進むにつれ、ハル子は明らかに弱って行った。眠っている時が多く、だから読む時間もだんだん短くなった。 時にはずっと寝顔を見守るだけの日もあった。
晩秋から初冬に入り、そこら中が黄色や赤やサビ色の絨毯に敷き詰められ、そして腐葉土の香ばしい薫りが立ち上る頃には、もうハル子は寝たきりになった。 だから、トメがいない時はK氏が痛み止めの薬を与えたり、下(しも)の世話をした。 聞いているのかいないのか、それでも手ごたえのない朗読は続けられた。 あらかた枯葉を振るい落として丸裸になった落葉樹の林に、小鳥が喧しく囀る小春日和のある日に、とうとう最後のところまで来てしまった。そこらはもう涙の跡で字が読めないほどだった。 シベリアの刑務場までついて来て支えるソーニャに、青年ラスコーリニコフがようやく心を開く、最後の場面である。 ハル子の細い手がおずおず伸びて来て、K氏の手をつかんだ。 (ああ、そうだとも! きっとその薄情な学生は自分に違いない。自分の罪を、ハル子に告白したに相違いない) K氏もやんわり握り返した。 ハル子は一筋涙を流して、K氏の心をようやく受け止めた喜びに浸っていた。 糸杉の十字架はないけれど、ここにおまえの恋人がいる。 ――ハル子頑張れ!
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