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作品名:K氏の手記 作者:異邦人

第10回   10
 それから一週間と経たないうちに、また二人連れが白川公園から移住して来た。
 今度は女の二人連れだった。二人は何とタクシーでやって来たのだ。だから最初は親子連れが公園に憩いに来たのかと思った。
 つくも髪の年寄りと、長い髪の花やいだ衣装の若い女。二人とも身なりは小奇麗で、とても同類には見えなかった。黒っぽい服装の年寄りの方が背が高く、若い小柄な女を抱くようにして、ベンチまでゆっくりした足取りで向かっているところを見ると、娘は病気か、病み上がりなのではと思えた。
 そこへ、荷物を満載した白い軽トラがやって来て、入り口の車止めのところに積荷を下ろすと、モスグリーの作業服を着たのが、まだそこにいたタクシーの運ちゃんともども、ベンチに座った二人のところに荷物を抱えて向かった。
 するとバアさんがやおら立ち上がり、彼らにテキパキ指示を出し始めたのである。
 この模様を例によって、ツツジの植え込みの中から、ウンチングスタイルのK氏がーーといってもただのウンチングスタイルではない、猫のように風雅に背筋をピンと伸ばしているのだーー顔だけ出して、眺めていた。
 バアさんはK氏のテントを見て、ゲンさんのお粗末なのも見て、それから周囲にも瞳をめぐらして、舌打ちすると〈遠目にもそのように見えた〉、K氏のテントの右隣を指し示した。
 その辺は明るく色付いた落葉樹の区域。桜の葉はすでに散り散(さん)じていたし、楓(かえで)や銀杏(いちょう)の木々もおっつけ丸裸になり、名うての伊吹下ろしに吹きさらしになる所。ほかに適当な場所が見当たらないのか。ゲンさんとK氏のテントの間に割り込むにしては、ひと叢(むら)の常緑樹の密集が邪魔になる<つまり先住民が一番よい所を占めていたということだ>。
 バアさんの指示に従って、二人は桜の林の中に、瞬く間にテント小屋を組み立てると、風のように去って行った。
 そりゃそうだ。れっきとした公共の場所に、まがりなりにも小屋らしきものを建てたのだから。それもちゃんとした〇〇工務店の名前の入った軽トラでやって来て、である。
 建てた小屋もなかなかに本格的なもので、屋根壁こそテント布でテントの外観を装おってはいるものの、骨格は組み立て式鉄パイプだった。張り出し下屋もあり、水平出しされた基礎を持つ、四畳半はあろうかという代物だ。
 石くれなどが水平に敷き詰められた地面には、スノコが敷かれ、その上に防水マットと、なんと、畳までもが。パイプベットに、ちょっとした家具類、煮炊きできる携帯コンロまで運び込まれたのには、たまげた。
 テント地もK氏のものと同じく、しっかりしたズックで、色はカーキ色〈K氏のは、もっと濃い、アーミーグリーンである。目立たないように〉。
 その日は、ライトブルーの空にウロコ雲がたなびく、爽やかな秋日和の、大安吉日であった。
 公園にほかに人影はなく、一点、パステルカラーのアンサンブルを纏った花やかさがベンチにあるだけ。
 その一部始終を暇にあかして眺めていたK氏は、何度か、ベンチに座った娘と目が合った。遠目であるから定かではないが、娘といっても、意外と歳なのかも知れないという気がして来た。
 といっても、自分よりは若く、四十代ではなかろうか。バアさんの方は、どう見てもゲンさんと同年代か、七十代前半だろう。歳のわりには、棒のように背筋が伸びた、堂々とした立ち居振る舞い。顔は、色黒鷲鼻の、猿(さる)眼(まなこ)だった。
 その顔が夕間暮れに、いきなりテントをめくって差し込まれた時は、猿かと思った<遺伝子的にはチンパンジーとゴリラとの間より、チンパンジーと人間の方が近いというのを何かの本で読んだような気がする>。
 ーー庭先を狭もうしてすまんが、隣にお邪魔するよ。何せい、急に、住み慣れた所をば、追い払われたもんじゃで。
 いきなり人の家(うち)をのぞくやつがあるか、という不機嫌が、先に立った。
 そんな容子はお構いなしに、バアさんは無遠慮に内部(なか)を見回して、ーーよかったらおいさん、引越しソバを用意したんじゃが、見知りおきに、一緒にどうかね、という。
 ーーいや、結構。
 寝転がったまま、K氏はぶっきらぼうに答えた。
 ーーそういわんと。実は、うちのハルちゃんが、あんさんに聞きたいことがあるいうんよ。きっと、顔見知りのお兄さんに違いないから、是非とも、呼んで来てくれといって、きかんのよ。
(はて?) 
 K氏は怪訝な顔をした。いつもの戸惑い。遠目ながら、見覚えのない顔だったが……?
とはいえ、過去の記憶には全く自信が持てないK氏であった。
(そういえば、そんな目で、長らくこっちを見ていたな……)
 ーー実は、ここだけの話、ハルちゃんは体の容態がよほど悪いんよ。この冬を越せるかどうか。……後生だからさあ。
 と、バアさんは手を合わせる。
 よくわからないが、そうまでいわれてはむげに断るわけにもいかない。人里にいると、どうしてもこういうたぐいの、煩(わずら)わしさからは無縁でいられない。
 しかたなく、K氏は大儀な体を起こした。が、立ち上がる気力がない。クスリを飲まなくなってから、とにかく頭と体が重たいのだ。
 ーー後生だから。
 と、バアさんはまた手を合わせた。
 娘の名前を聞くと、須々木(すずき)ハル子といった。そんな名前に覚えはないし、ここで人名録を繰って見るのも面倒なので、K氏は引かれる牛のように立ち上がって、バアさんのあとに続いた。
 須々木ハル子という女は、色っぽいネルの寝巻きの襟を掻き合わせて、ベットの端に腰掛けていた。昔の女郎を思わせるような艶姿(あですがた)であった。顔もそのような媚(こび)を持っていた。
 若い頃はきっと色白で、ぽっちゃり丸顔のーー笑窪さえあったかも知れないーー可愛い顔だったのではないかと思わせるが、衰えた容色に、頬紅と口紅が哀しい色をなして、それを裏切っていたけれど、艶のある大きな瞳と、受け口気味のぽってりとした唇は、只者でないものを感じさせた。
 しかしやはり見覚えはなかった。点景としては懐かしいものを感じたので、あるいはという思いはあったのだが。
 それが見知り越しのような眼差しで、ニッコリ笑って、頬に笑窪紛いの縦の窪みさえこしらえて、ーーうふっ、やっぱり、でしょう、といった。
 何が? やっぱり、なのだ。
 ーーひどいじゃありませんか。ハル子のことは、もうすっかり、お忘れですか?
 歳はーーやはり、判然としない。実年齢より若く見えるのか、老けて見えるのか、その実年齢がわからないからだ。
 ーー人違いじゃないのかい。ぼくは君を知らんが。
 K氏の苛立ちは高じていた。こっちが覚えのないことを、さも本当のことのようにいわれると、立つ瀬がない。おまえはバカだといわれているも同然だ。相手の顔を穴の開くほど見つめてしまう。
 それでなくても、もの覚えが悪く、今日の天気さえ、夜には思い出せないことがあるし、たった今のことも、いちいち脳にチェックしておくか、メモしていないと、すぐに確信が持てなくなるのだ。
 ーーそうおっしゃってほら、お鼻の下をこするとこなんか。お兄さんに間違いないわ。東京の学生さん。
 ーーそういわれても……ねえ。
 ーーまあ! そんな……ひどい! ひどいわ!
 ハル子の目から大粒の涙がこぼれ落ちた。
 デモで、女の人が死んだと聞いて、お兄さんは大丈夫かと、どんなに心配したか知れやしない。講堂に立てこもった中に、お兄さんもいるんじゃないかと。それなのに……何の音沙汰もないんですもの……ずっと、ハル子はーー。
 −−さあさ、ハルちゃん。そんな話はあとにして、ソバができたよ。食べようよ。そのうち、兄(あに)さんも、思い出してくれるよ。薄情者でなけりゃ。
 だが、ハル子はなおも利かない。
 それならといって、ベット脇の家具から、分厚い本を取り出して、かざした。茶色く変色した、ドストエフスキーの全集のようだった。
 ーーこの本も、お忘れというんじゃないでしょうね。これ、あなたの本ですわ。
 といわれても、全く見覚えはない。K氏は本を手に取って眺め、パラパラとめくって見た。「罪と罰」ーーそれにも覚えがない。
 ーー始めから終わりまで読んでくださったのよ、夏休みの間に。
 ……ふ〜ん。
 −−それじゃあ、ゴットファーザーを観に行ったことも? 三河湾スカイラインをレンタカーでドライブしたことも? そこのレストランで焼肉を食べてジンマシンが出たことも? みんな覚えがないとおっしゃるの? 夢のように楽しかったあの日々のことを、全部! 
 ………。
 ーーどうやらハルちゃん、タダで遊ばれたようじゃね。男なんか、そんなもんよ。三十七回もタダでされた上、ざっと計算しても、74万じゃないか、帰りの新幹線代まで。バカな子だよ。だからいったじゃないか、男なんか信用しちゃあダメだって。
 さあさ、そんな薄情な男はほっといて、ソバがのびちまうよ!
 ーーこれ見て! カブケンだってまだちゃんと持ってるんだから。お兄さんが、トヨタ関連のカブはきっと上がるからって、百万円で買ったの。
 取り出して見せたのは、正真正銘の株券だった。冗談じゃない。「xx精機」の株は、今やその数十倍はする。そんな大金をそんなとこに無造作に置いておくやつがあるか。
 −−実は、ぼくは、記憶障害者でね。過去のことはあまり覚えてないんだよ。記録があるから、あとで調べてみる。それからにしてもらえないか。
 −−まあ、そうなの。変なの。ハル子は子供の頃からのこと、みんな覚えてる。母さんには百二十五回ぶたれたけど、父さんには一度もぶたれたことないよ。本当よ。弟のタカは一回ひどくぶたれた。でも、本当の母さんには一度もぶたれたことないよ。本当よ。おねえちゃんを産んで死んじゃったけど。


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