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作品名:K氏の手記 作者:異邦人

第1回   1
 −−あの犬に出くわしてから何もかもがおかしくなったのだとK氏は思う。   
 
 あれは、名古屋に単身赴任して来て、一年目の夏のことだった。
 名古屋の夏は暑いと聞いていたけど、噂に違わず、連日三十度を越す真夏日が続き、とりわけあの日の蒸し暑さはまた格別だった。新聞記事によっても、多治見で三十七度一分を記録し、名古屋では三十六度三分、湿度六十五パーセントとある。
 何しろ、舗装したばかりの道路で、現にアスファルトが融け出していたほどの容赦ない日差しが、白く淡い雲間からじりじり照りつけ、全く風もなしに、その熱射と、構造物からのむっとする〈排気を含めた〉輻射とで、血液(ち)も沸騰(たぎ)らんばかり。
 実際、あまりの暑さに、熱中症による死者がその日だけで、三重で一人、愛知で二人出たとある。クーラーのない部屋での、独居老人の死が痛ましく伝えられてもいた。それくらいな高温・多湿になると、汗が気化しなくなるのだそうだ〈汗に毛穴を塞がれた老人の苦しみはいかばかりであったろうか〉。
 おりしも街は、二百万都市名古屋は、そのような体温にも等しい粘りつく熱気に包まれて、大いなる遺跡のように、キラキラ輝いていた。
 遠く大垣方面に黒雲の一団があり、三河湾上にも積乱雲が雄々しく立ち上っていたが、風が全くないので、双方(どっち)とも、こっちに向かって来る気配はなかった。
 公園の木立では、雨乞いのような蝉の大合唱。街路樹はしおたれて、小さな影をつくり。死に絶えたように、街路に人影はなく。焼けた鋼板(スラブ)のような道路には、至る所、火炎のような陽炎(かげろう)が立ち揺らいで、車列を歪めていた。
 K氏が、その陽炎を前方に認めたのは、地下鉄本陣駅乗降口を過ぎた辺りだったか、いや、それより前だったろうか?〈それぐらいの誤差は、この際、問題ではない〉。
 何しろ鳥居通りを栄生(さこう)に向って車を走らせていた時のことである。融けた鉛のように鈍(にぶ)く光る、液体のようなものが、路面上に揺(ゆ)らいでいた。
 しかしそれは、逃げ水のように消えて遠ざかることなく、迫って来たので、K氏はあわてて、急ブレーキを踏み込んだのだった。
 後続の車も、次々に急ブレーキを踏んだので、辺りは、ブタの悲鳴のようなタイヤの軋(きし)み音や、焦(こ)げたゴムの臭い、埃(ほこり)っぽい煙が立ち込め、怒号が飛び交った〈この臨場感こそが問題なのだ〉。
 しかし、今となっては、その時、横断歩道のゼブラゾーンを、犬が片手を上げて渡っていたのだと、それを危うくひき殺すとこだったと、当時ほどには強弁できない。記憶が劣化したわけではなく、それが、明白な事実だと証明する手立てが、今もって得られないからである。
 むしろ、K氏の記憶は、ますますその輝きを増して来ている。砂漠の中のオアシスのように、今なおはっきりと、その状景を思い浮かべることができる。
 急停止した車列の前を、灰白色の痩せた犬が、垂らした頭(こうべ)より高くに右手を掲げて、ベロをヘロヘロさせつつ、左右に顔をくれながらヒョコヒョコ渡って行ったのを〈この場合、片手なのだから、ヒョコタン、ヒョコタンと歩くべきだろうと、妙なリアリズムを主張する輩がいたが、日常我々は景色を何気に見ているわけで、たとえばムカデが這ってゆくのを見かけても、足の運びを見るわけではない>。
 タイヤが軋む音と、怒号が耳に、焦げたゴムの臭いが鼻に、酸っぽい感覚が口に、ボーとするほどの熱気が身に  なぜといって、クーラーなどないライトバンを運転していたからで、窓を開け放っていて、汗だくだった。  
 それらが、その記憶とともに、鮮明に、五官に蘇えって来るのだ〈感覚こそが、実存ではないか!〉。
 それが特段におかしいことなのか? 
 犬が殊勝にも、手を上げて横断歩道を渡っていた、というだけではないか。
 普段あまり冗談をいわないK氏が、奇をてらうでもなく、大真面目な顔で、そんなことをいい出したものだから、まず、総務の斉藤あたりが、鼻に皺を寄せて、シシシッと笑ったし、営業部長の岩瀬が、ーー支店長、だいぶお疲れのようですな、と、豊満な唇の片端に薄笑いを浮かべたものだ。
 −−えー、うそー、そうなんですかぁーと、純真な驚きを表した、秘書の川瀬女子には救われたけど、東京の妻もやはり電話口で、ーー何よ、それ、と、クツクツ笑った。
 ポン友の、山之内氏に至っては、身も蓋もない。
 −−おいおい、大丈夫かい? このところの君を見ていると、キツネの嫁入り行列を目撃したといい出してもおかしくないけど。……まあ、その犬が、歩行者用の黄色い旗を掲げてなかっただけましか。
 などと茶化して、ーーいっぺん専門医に診てもらったほうがいいんじゃないのかい、なんだったら、医局の専門を紹介しようか? とまで、真面目腐っていう。
 医科大の助教授でもある彼に、こういわれて、K氏は勃然(ぼつぜん)と立腹した。
 −−バカいうな! おまえまで、ぼくをバカにするのか。確かに、この目で、見たんだ。やつも、横目で、ぼくを見た。目と目が合って、あいつは、三角目で、嗤(わら)いさえしたんだぞ!
 山之内氏はいつもながらのふざけた調子で、オーバーにいったのだろうが、K氏の思わぬ反応に、受話器を見て眉をひそめたーーかのような間を、一拍おいた。
 そして、二の句が継げなかったようだ。
 彼から、悪趣味な冗談を奪い取ったらーー何しろ青息吐息の患者の傍(かたわ)らで、切り出した臓器を手の平に乗せてその精緻な蠢(うごめ)きをウットリ眺(なが)めているようなやつだーーメスを操(あやつ)る変質者だと思っているK氏でも、さすがに、腹に据えかねたのだ。
 その剣幕に、……それじゃあ、肘(ひじ)を骨折していたかした犬が、そいつが、たまたま横断歩道を渡っていたということか……? 
 トーンを落とした声で、山之内氏はつぶやく。
 思い直して、ーーいや、普段の散歩コースなら横断歩道を渡ってもおかしくない、犬にはそれくらいの習い性(しょう)はある。ネコのように闇雲に突っ切って交通事故に遭うようなヘマはしない。 
 という現実的ないいつくろいにも、欺瞞(ぎまん)が仄(ほの)見えて、K氏は妥協しなかった。 
 今に見てろ! ハッキリした証拠を示してやるからな。

 氏は、中日新聞の読者欄に投稿して、飼い主や、目撃情報を募ったり、鳥居通り周辺をくまなく探索したりしたようだが、遂にくだんの痩せ犬を発見するに至らなかった。
 しかし、それが思わぬ反響を呼んで、CBCラジオにも取り上げられて  というのも、恵まれない天才「上岡某」なる関西芸人の番組に、新聞を見たという「真昼のチョウネンテン」なるリスナーから呼びかけがありーーひところ中部地方は「手を上げて横断歩道を渡る犬」の話題でもちきりになったものだ。
 いろんな情報が飛び交ったけどーー横断歩道を愛嬌を振りまいて渡るヘビまで登場した結局のところ、びっこを引く程度の犬がほとんど。横断歩道を渡る犬がいたにはいたーーけど、飼い主が一緒だし、それも明らかに様子が違っていた。
 といってその犬が何犬だったのか、首輪をしていたかどうか聞かれても、実は答えられない。それは、とりたてて特徴のある犬種ではなく、単なる薄汚れた灰白色の痩せ犬。
 毛が短く〈ほとんど皮だけのように見えた〉コンセントのような鼻をして、マユの辺りに眉毛のような黒い毛が生えていたのが印象に残っている。


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