五 不条理
愛が夫の空信を見た。 「この雨はしばらく止みそうもないね。」 空信は空を見た。 「そうだね。」 愛は微笑んだ。 「お経を私や望みに教えて。」 空信は驚いて愛を見つめた。 「ほう、そうか。お経を自分から学びたいとは。」 「だって、今」と愛は言いかけてやめる。 ヒマじゃない、とは言えなかった。 そして、強く言った。 「望みのこと、考えたことあるの。 ほとんど何も教えられずに尼さんになったのよ。 知っているのは南無阿弥陀仏と唱えること。 そう、ナムアミダブツだけじゃない。」 空信は果てしのない解釈や注釈、注釈の注釈の世界を思い出していた。 知恵や知識が増しても幸せになれない、と思っていた。自力では幸せになれない。 幸せになるには、阿弥陀仏を信じて、その身を任せる言葉「ナムアミダブツ」を唱えるだけで良いと信じていた。 信仰の導き手であり、友であった智真のことを思い出していた。智真は、このころ、一遍と名乗っていた。 時宗の宗祖一遍上人を思い出していた。彼の後を追いかけるように空信たちは遊行に出たのである。 空信は愛に言った。 「それだけじゃだめか。」 「だめよ。」 「わかった。阿弥陀経から始めるか。まずは、発声からだな。」 「もっと、簡単にできない?」 「簡単!?」 「そう、簡単なお経。 あなたは小さな頃、お寺に入れられて何年も修行したからできるのよ。 でも、私たちは修行の経験がないのよ。 この前、いきなり、あなたが家を出て遊行すると頭をそったから、仕方なく、私たちも尼さんになったのじゃない。 赤ちゃんに言葉を教えるのと同じよ。 短くて簡単で覚えやすいのがいいの。」 空信はため息をついた。 「簡単なお経などないよ。まぁ、発声から始めるかな。」 「何を言っているの。あたしは忙しいのよ。あなたや望みの世話で。」 愛がその愛らしい唇をとがらせた。 そのとき、望みが声を出す。小さいが低くはっきりと通る声で。 「私、お母さんの手伝いをしているよ。」 愛は望みに上から押さえつけるような甲高い声を発した。 「望み、大人の話に子供が口を挟んじゃだめよ。」 空信は降り止みそうもない雨を見ながら苦笑いをした。 「ふむ、わかった。 それでは、人生における最高の不条理について述べているお経を教えよう。」 愛は小さな声を出した。 「長くて難しいのはだめよ。」 「いや、簡単で短いよ。」 「あのぅ、不条理って何なの?」 「筋の通らぬことを不条理と言うのさ。 たとえば、いくら働いても貧乏なこと。 病気になりたくないのに病気になること。 盗まないのに盗まれること 。 死にたくないのに殺されること。 本人のせいではないのに差別されること。 そのようなことなどを不条理と言う。」 「ねたまれて、いじめられることも不条理?」 「そうだな。」 愛は言った。 「世の中は不条理の海ね。」 そのとき、望みが口を挟んだ。 「それで、人生における最高の不条理って、お父さん、何なの。」 空信は答える。 「無実の罪で死刑になること」 「ぬれぎぬで死刑になるの」 「そう、最高の不条理だろう」 愛が口を挟む。 「最悪の不条理ね。きっと、妬まれて死刑になったのよ」 「鋭いな、どうしてそう思った」 「直感よ」 「直感?」 「直ぐわかるのよ。私のように美しく生まれついていると苦労が多いからね」 「そうかぁ」 「そうよ。あなたのような苦労知らずにはわからないかも」
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