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作品名:赤鬼と坊さん 作者:ヨハン・ジロー

第16回   16 信仰と希望と愛
十六 信仰と希望と愛

 空信の目の前に現れた赤鬼は、大刀を腰にぶら下げている巨人だが、怪物ではない。人食い鬼には見えない。何とも言われぬ優雅な気品があり、男から見ても魅力的であった。愛と望みは見とれた。
 しかし、彼女らは赤鬼に隣りにいる美しい女兵士は見なかった。
赤鬼の背後には、あの小柄な若者がいた。
さらに、彼らの背後から二人の男が現れて弓矢を構えた。
日本の弓よりも小さな弓ではあったが、当時、世界の中では超一流の蒙古の弓である。
彼らの構えには余裕があった。この余裕は実戦経験豊富な一流の武芸者が持つ独特のものである。
一流の射手なり、と空也は直ぐ見て取り、瞬時に彼の背筋は凍り付いた。
間合いから見て、どうしようもないからだ。逃げようがない。空信は死を覚悟した。
 赤鬼は、聞き慣れない発音の混じった言葉で空信に命じた。低く太く通る声だった。
通訳の女兵が高く通る声で訳した。
「彼を放しなさい。」
死を覚悟していた空信の中で、血が全身を激しく流れた。
空信は赤鬼だけを見つめた。敵の中で赤鬼だけを信じた。
「矢を納められよ。されば放そう。」
矢を射れば射れ、と空信は開き直った。
一瞬の沈黙が生じた。
 それから、赤鬼は微笑み、射手に手で命じた。彼らは矢を筒に直ちに納めた。
その動作は、彼らが実に訓練された優秀な兵士であることを証していた。
空信はイーを直ぐに放した。空信にしてみれば、彼の長刀を松の木に食い込ましてその柄を壊した時点で彼を放す準備は終わっていたからだ。実の所は、イーの始末に困っていた空信には何の抵抗もない言葉だった。
 赤鬼は空信に微笑んだ。空信から死の恐怖が過ぎ去った。
さて、赤鬼は通訳を通して空信に尋ねた。
「イーほどの使い手を血を流さずに捕まえるとは・・・さぞかし、あなたは名のある方に違いない。
私の名はトーマス。あなたの名は何と言われる?」
「空信。」
「くうしん?」
「くうとは存在するが、人の目には見えない存在。
見えない方を信じるが故の名前であります。」
赤鬼は親しげに呟いた。
「空信、見えない方を信じる!アーメン!
神様を見た者はいない。」
 赤鬼が思わず呟いた言葉「アーメン」は聖書の原語の一つであるヘブライ語である。その意味は、「まことに、しかり」と訳せるが、その言葉の持つ神聖な響きは訳せない。「ア」は初めを「ン」は終わりを暗示して、永遠の存在である神の臨在を感じさせる言葉である。
阿吽(あうん)の具体的な言葉の一つであろうか。
 赤鬼は愛や望みたちを見た。美しく愛らしい。それに初対面の赤鬼に好意を持っている。
赤鬼トーマスは声を再び発した。女兵の通訳は感情のない声で訳した。
「空信殿の隣におられる方々の名は何と言われる。」
空信は金を除いて答えた。
「愛と望みです。」
赤鬼は聖書の原語の一つであるギリシア語で呟いた。
「愛・・・アガペー。望み・・・エルピス。見えない方を信じる空信・・・信仰・・・ピスチス。」
そして、イエスの使徒パウロの愛の言葉(第一コリント13章)を思い出していた。
 それは、原書(底本はネストレーアーラント第27版)から訳すれば次のようになる。

「人間の舌で語ろうとも、天使の舌で語ろうとも、愛がなければ、ドラを鳴り響かせているかシンバルを叩いているにしか過ぎない私だ。
 預言ができようとも、あらゆる奥義や知識を知ろうとも、山を移すほどの完全な信仰があろうとも、愛がなければ、虚しい私だ。
 持ち物をみな寄付しようとも、体を犠牲として捧げようとも、愛がなければ、役立たずの私だ。
 愛は辛抱する、親切にする。
愛は妬まない、自慢しない、威張らない、恥ずかしいことをしない、私欲に走らない、怒らせない、恨まない、不正を喜ばない。
 愛は真理や真実を喜び祝う。
愛は全てを忍び、全てを信じ、全てを望み、全てに耐えて行く。
 愛は決して滅びない。
 しかし、預言は消え去り、舌は止み、知識は滅びる。それは、一部を知り、部分的に預言しているから。
完全なものが来れば、部分的なものは滅びる。
幼かったときに幼く話し、幼く思い、幼く考え、大人になると幼さが消え去ったように。
 それは、今はぼんやりと映る鏡を見ているようなものだから。
ときが来れば、顔と顔を合わせるのだ。
今は一部しか知らなくても知るようになるから。完全に知られるように。
 それで、今もそばにいてくれるのは、信仰と希望と愛の三つ。
だけども一番大きいのは愛。」

 赤鬼はイエス・キリストを信じる人トーマスの顔に戻った。


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