十一 古代からの土木の先生
古代からの土木の先生は朝鮮半島から日本に来ていた。 金は空信たちには言わなかったが、金は高麗の誇る優秀な土木技師であった。 蒙古が高麗や南宋を侵略した結果、蒙古に仕えることを拒んだ高麗や南宋の技術者や僧などの学者にとっては、黄金の国日本も彼らの有力な受け入れ先の一つであった。 彼らは、遙か千里の荒波を越えて日本まで来れば、蒙古は馬で追いかけて来れない、と日本へ逃れてきた。 また、第一次元寇の蒙古襲来により、世界トップクラスの戦いが、どのようなものかを鎌倉幕府は骨身にしみて知った。 日本国内での戦いのルールが通用しなかったのである。 それで、高麗や宋から得た優秀な人材や豊富な資金を第二次元寇に備えて投入することになった。豊富な資金は南宋との貿易によることが大きい。 第一次元寇で略奪放火にあった博多は、博多を守らなかった鎌倉幕府軍に不信感を持った。 富の窓口である博多への信用回復は急務であった。 鎌倉幕府の命運がかかっていた。 その具体的な防衛策の一つが元寇防塁であった。 高麗の土木技術の活用を図った。 つまり、その技術を防衛のための石垣、すなわち、元寇防塁の築造に役立てた。 万里の長城の発想にも似ている。 その元寇防塁は、蒙古の容易な上陸を阻み、蒙古軍を船に帰らせ、神風が吹くまでの時間を稼ぐお膳立てをする防衛施設となった。 金の属する高麗出身者で構成される土木技術者の集団は、鎌倉幕府の依頼を受けて、元寇防塁築造の予備調査に入っていた。 本格的な調査設計にはいるための段取りをするために、高麗土木技術団は、若手のエースである金に予備調査にあたらせたのだ。 その助手また護衛として、二人の武士が金の案内役となった。 残念なことに二人の武士は、そろばん勘定が得意過ぎて、土木工事にかかる人と金を抑制することばかり考えていた。 それで、金は若さ故の短気で苛立ち、現地調査報告を急いだ。 さらに、彼は若くて体力があることが災いし、豪雨の恐さを忘れて報告と帰路を急いだ結果、長垂山で崖崩れに遭うことになる。 崖崩れの起きやすい場所に起きやすい気象条件のタイミングで来ていることを金は甘く見た。理論では知っていても、若さが目の前の仕事を優先させた。 最悪のタイミングになるかも知れないと一日だけ仕事の予定を遅らす決断が、若さ故に出来なかった。急ぎさえしなければ、空信たちのように無事だったのだ。 あの二人の死は金の自信を粉々に打ち砕いていた。 望みは彼の目を見て心配していた。その鋭く知的な雰囲気が消えていたからだ。 空也は遺体を掘った穴に埋めた。金自身も、その穴に入りたい気持ちになっていた。 そのとき、彼らの様子を茂みに隠れて密かに見る目があった。 それに気づいていたのは彼らの中で空也だけであった。 そして、気づかない顔をして、空信は亡くなった二人の遺体を埋めて、お経を詠んだ。空信に合わせて愛と望みも詠み、彼らの流れるような調子を伴う美しい弔いの声に金は慰められた。
|
|