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作品名:ハエたたきで死す 作者:

最終回   1
 ここにひとりの主婦がいる。その主婦の命は尽きてしまった。主婦はハエを追っていた。たった一匹のハエを。そして体力が尽き、死んでしまった。主婦は伝説となった。
「ハエたたきで過労死した女」と。
 ここにその哀れな、まぬけな主婦の一日を記録に残すとしよう。

 始まりは朝、主婦が洗濯物を取り込んでいる時であった。天気も良く、昨日今さらながらにハマったヨン様のDVDを見てご機嫌であった。
「じゃ、いってきまーす」
 旦那の声が玄関から聞こえた。続いて中学生の息子と娘のドタバタした足音も続いた。
主婦は洗濯物を取り込んでいたのだから当然、窓は開けている。最後のシャツを部屋に入れた時、主婦の視線の横を一匹のハエが横切っていった。
「あ、ハエ……」
 これが不幸の始まりだった。

「開けていたら出て行くかしら?」
 取り込み、そして干し終わった主婦は室内に入り窓を開けていた。蜂は室内の電気を消して、窓を開けていれば自然と明るいほうに逃げていく。
 主婦はその知恵にのっとり、同じようにガラス戸を開け、五分も待てばいいだろうと気楽に考えていた。
 しかし。
 ぶ〜んぶ〜ん。
 部屋の壁から壁へ細かな移動を続ける一匹のハエ。主婦はイライラし始めた。
「なんで出て行かないのよ」
 主婦は二階の部屋から一旦、台所へ降りていった。

 主婦が持ってきたのは、普段台所の隅に置いてあるハエたたきであった。水色のハエたたきで、その穏やかな色はおよそ生命体を殺生するような激しいイメージは持ち合わせていない。むしろ、「台所にそっと置いといてくださいよ」とでも言っているような雰囲気のする代物である。
 それを右手に持つ。そして急な階段を一歩一歩ゆっくりと踏みしめていった。

 主婦は期待した。
ハエはもういないのではないか。
「なあんだ、出て行ったの。つまんない」
 などというセリフを用意していたのだ。しかし。
 二階の部屋は自室である。この家唯一の和室だ。その襖をそっと横にずらす。
 ぶ〜〜〜ん。
「いた……」
 相変わらずの移動。時々、電気のところへ留まる。そしてまた壁に張り付く。と、思えばタンスへ。
 主婦はにじり寄った。今、敵が駐屯している薄緑色の壁へと。スナイパーがライフルを構えるかのごとく、主婦はハエたたきを振り上げた。そして。
「えいやー」
 ぶ〜んぶ〜ん……。
 残念ながら敵に逃げられてしまったのである。それも仕方がない。気合が全くなかった。
「しくじったか」
 主婦は残念がったが、それほどでもなかった。三発も振り下ろせばなんとかなると思ったのだ。しかしそれは甘かった。
 ぶ〜ん。
 今度はタンスに移動した。
「よし、次こそ」
 振り上げた瞬間であった。
 ぶーん!!
「ぎゃあ!!」
 敵は主婦の体めがけて飛んできた。奇襲である。まさかであった。
「気持ち悪い!気持ち悪い!ゲー!!」
 敵はそこからは何にも留まらずに空中を移動し続けた。まるで主婦をあざ笑っているかのようである。
 主婦の瞳の奥が一瞬ギラリと光った。ここに「主婦VS蝿」の完全なる図式が出来上がったのである。

 余談ではあるが、この主婦は気が強い。気が強いというよりも「カッ」となる性格である。
 ついこの間、旦那がこづかいを上げてくれと言った。わりと控えめに申し出た。しかし主婦は断った。
「一万円で足りるでしょ?なにか文句でも?」
 旦那は当然のごとく食らいついた。
「一万円じゃ足りないよ!!」
 その時、いつものように主婦は怒鳴った。
「じゃあ五千円で我慢しろー!!」
 旦那のこづかいは五千円に格下げされた。こういう性格なのである。

 ハエである。今、目の前にはハエが、もうこの主婦の目にはハエしか映っていなかった。素振りをする。ハエたたきの素振りである。
 上から下に振り下ろす。もしくはテニスのように後ろから前へと。
「殺してやる……!!」
 主婦の心は殺人鬼と化しつつあった。いや、「殺人鬼」ではないか。なんというか「殺蝿」というか、まあそんなところである。
 ブンブン。
 今度は主婦のハエたたきが唸った。これが当たれば死は確実。敵はたかがハエ一匹。
「うおおおおお〜〜〜〜」
 主婦は唸り声を上げた。そして敵がピタリと留まった壁に突進して行った。
「死ねえーーーーー!!」
 バチーーン!!
 やったか!?しかし!!
「ぎゃああーーーー!!」 
 ハエにあるまじき行為であった。敵は主婦の顔に留まった。なんと夕刊な敵であろうか。いや間違えた。勇敢である。いや、夕刊に載せてやってもいい。
 主婦は手で顔を払いまくった。その拍子に開け放った襖から、ぶ〜んと逃亡させてしまったのである。
「しまった!!」
 気づいた時には遅かった。閉めておくべきだった。敵は階段を下りていった。

 リビングか、台所か、はたまた旦那の部屋か?
 主婦は一通り順番に探した。すると「こちらこちら」をするかのように敵は台所へ侵入して踊るように舞っていた。
 台所にはテーブルの上に果物が置いてある。ほかに昨日の残り物もある。主婦の心はざわめいた。そしてその予感が的中するかのごとく、敵は息子たちの弁当の残り、卵焼きへと着陸した。
「おおおおおーーーー!!」
 主婦、突進。我を忘れて突進。
「死ねやーーーー!!」
 武器を振り下ろした。卵焼きなんかかまわず振り下ろした。ハエ、逃げる。卵焼き、潰れる。
 今度は水道に留まった。
「きええええーーーーー!!」
 バチーン!!
 またも、ハエ逃げる。蛇口が押さえられて、水出る。
 ジャーーー!!
 鍋に留まる。鍋、叩く。鍋、落ちる!!
 ガラガラガラガラーーー!!ドシャーーン、ガラーーン、ガラガラーーン!!
 もう、何がなんだかの有様であった。これはもはや、スポーツである。「ハエたたき」というれっきとしたスポーツだ。
 汗にまみれた主婦。逃げ続けるハエ。もしくは恋愛とも言える。
 主婦はハエが愛しくて愛しくてたまらない。だから追いかける。しかしハエにその気はない。だから逃げる。
 そう、これは「映画」なのだ。1800円取れる壮大なラブストーリーなのだ。このC級恋愛は夕方まで続いた。主婦は追いかけた。かの人を追いかけた。でも捕まらなかった。主婦の心は駄目になりそうだった。それでも追いかけた。

 ヘトヘトになった夕暮れ時、主婦は最後の気力を振り絞った。これでやめよう。この一振りで捉えられなければ終わりにしよう。そしてとりあえず寝たい。ぐっすり寝たい。この主婦の願いはそれだけであった。
 場所はまた二階。和室である。主婦はぶら下がり健康器に留まった敵を見つめていた。
「そう、これで終わり……、これで……」
 しかし敵はこの主婦に過酷な運命をもたらす。
 敵は健康器をゆっくりと離れた。そして、ある写真立てにぴたりと張り付いた。
「あ……!!」
 その写真には主婦が今、熱を入れていたヨン様が写っていた。なんともいえない素敵な笑顔だった。
「ヨヨヨヨヨヨン様……」
 主婦は混乱した。まさかヨン様は叩けまい。そう敵が言っているようであった。ベランダへ続く窓は開きっぱなしである。軽く払えばそこへ移動させられない距離ではない。
 主婦の心は揺らいだ。
 そっと逃がしてやったらどうか。
 ヨン様をじっと見つめる。敵はその写真の上に留まっている。

 愛とは。
 愛とは何か。
 それについて考えたことはないだろうか。
 愛。それは海よりも深く、解き放てばどんな遠いところまでも飛んでいきそうな感情。主婦はベランダから空を見上げた。そこには真っ青な青空があった。
 愛。それは人々の思考など届かない壮大なものであるのかもしれない。
 
 パタン。
 主婦は窓を閉めた。そして襖も閉めた。主婦は愛の行く先を決めた。
 写真の前に立つ。ゆっくりと振り上げられたハエたたき。主婦は裂けんばかりの大声で叫んだ。
「死ねえーーー、ペ・ヨンジュンーーーーー!!!」
 バチーーーン!!!
 そこから先の記憶がこの主婦にはなかった。

「で?なんだって?私が『ハエたたきで過労死した女』って、噂で広がってるんだって?」
 主婦はぐつぐつと味噌汁を炊いている。
「お母さん、味噌汁って沸騰させたら駄目なんだよ」
 飴をなめていた中学生の娘が椅子に反対向きに座りながら言った。
「こら!ごはんの前でしょ!」
「はーい」
 娘は反省の色はなかったが、口から飴を出してティッシュにくるんで捨てた。
「だいたいあんたが悪いのよ、『死んだ』なんて言いふらすから」
 娘は矛先を同じく中学生の息子に向ける。息子は冷や汗を流しながら苦笑いをした。
「いやあ、ごめんごめん。だって友達が信じるって思ってなかったからさ。それに実際に救急車呼んだじゃん。うつ伏せにぶっ倒れてたんだから」
「まあね……」
 主婦はカチリと味噌汁の火を消した。
「ま、あんたたちのおかげだったわよ。あれ以上時間が経ってたら私の命も尽きていたかもしれないわ」
「じゃ、あながち過労死も間違ってないじゃん」
「間違ってるの!!」
 主婦は息子を一喝した。
「でも結局、どうなったか分からないんだよね、あのハエ……」
 娘は名残惜しそうにゴミ箱を見つめる。
「死体はなかったんだろ?」
「死体っていう言い方はどうかな」
 息子の言葉に娘はすばやく突っ込む。
「まあでも大変な一日だったわね。でももういいわ。お父さんもすぐ帰ってくるから晩ごはんにしましょ。さ、運んで」
「はーい」
 カチャカチャと食器を並べる音。ごはんをよそう湯気。ちょうどそこに旦那が帰ってきた。
「ぴったりね」
 旦那はすぐに笑顔になった。
「お、うまそうだな〜」
 主婦は得意げに言った。
「今日はステーキよ。百グラムいくらだと思う?高かったんだから」
 着替えた旦那を待って、全員が席に着いた。
「いただきまーす」
「いただき……あ、母さん……」
「何?」
 息子は空中を指差した。全員が口を揃えた。
「ハエ……」


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