「金で尻を拭いてみたいと思わないか?」 「は!?」 目の前には戸川清春の真顔があった。某ショッピングセンター内、映画館脇の椅子に向かい合わせで座った時のことである。戸川は丸いテーブルの上に肘を付いていた。 またその話か。私は思った。 戸川清春は貧乏である。ゆえに細い。食うものがあまり家にないからだ。だからダイエットを必死にやっている私なんかからすれば羨ましいというか、まあ微妙な話である。もちろん私が太っているというのは自慢話ではない。あくまで一般の女性の範囲内の話である。 「金の話ばっかりだな」 私はすぐそばにある某ドドールで買ったテイクアウト用のカフェオレを一口すすってから話を聞こうと思った。戸川は持ってきていたペットボトルの中の水道水を揺らしながら話を続けた。要は戸川に金がないから、こうやって映画館の横にある無料休憩スペースにて茶をしようということである。戸川本人は水道水だが、そこは気にしない。 「俺は無性に金で尻を拭いてみたいんだ。だってうちにはトイレットペーパーなんて贅沢なもんはない。新聞紙なんだよ。だから俺の尻はボロボロなの」 「金で尻を拭いたら、同じようにボロボロになるんじゃないかい?ないんだったら普通はトイレットペーパーで拭きたいと思うだろがよ」 「それを通り越しちまってるんだよ。俺の金への欲求は」 戸川は貧乏であるがゆえに金の話が多い。この間していたのは香水の話だった。色んな匂いのする香水があるが、どうせなら百円玉の匂いのする香水を作れと唸っていた。さらに前々回は、銭形平次の話に怒っていた。銭を投げて敵をやっつける銭形平次。あれは要は示談の話だ、と。 「ギャンブルなんかやらなきゃいいんじゃないの?馬は金を取ってくだけだよ。その分トイレットペーパーにつぎ込めば?」 「だからそれは置いといて」 「何がだからだって」 この友人はいつも矛盾している。金の話に異様に執着するかと思えば、簡単に競馬で万を失ってしまう。まあ、金が欲しいからの競馬かもしれないが、ギャンブルなんか取ってもその場限りだろうに。 「で、思いが高じて金で尻を拭きたいわけだ。ま、お前はあれだもんな。金を燃やして玄関の明かりの代わりにしたみたいな話好きだもんな」 「そうそう、そうなの。貧乏人の願いじゃん?金であれこれしてみたいって。ほら、学校の音楽会なんかでも小銭がたくさん入った缶々を振って音出してみたくなかった?」 「なかったね」 「あ、そう」 某ドドールのカフェオレはうまい。私は戸川に「飲むか?」というほど優しくないし、恋人でもないので分けてあげないことにしている。 「伊集院は冷たいな。中流階級のくせに」 ムカッときた。私の名前は伊集院怜奈だ。「伊集院」だ。なのに中流階級だということをこいつは馬鹿にしている。まあこれもいつものノリなのだが。 「じゃあ聞くが」 うんうんと嬉しそうに相槌を打つ戸川。私はカフェオレをコトコト傾けて遊んだ。 「実際にお前はそんなことできるタマか?」 「う、うう」 さらに追い討ちをかける。 「そんな大胆なことができる器か?金で尻を拭くのは相当の度胸がいるぞ?それができたらある意味どっかで成功してるだろ。できないから小物なんだろ、ギャンブルに逃げちゃうんだろ。だから無理だね」 「あ、あああ」 戸川はテーブルに崩れ落ちた。そして丸いテーブルを抱きしめるような格好で悲劇の主人公になった。 「あ、もうなくなった。カフェオレ買ってくるからちょっと待ってろよ」 最後の一口を飲み終えた私は、無言の戸川を後にして今度は紅茶を買いに行った。二杯飲むから太るんだな。しかし反省はしない。私は紅茶を買って帰ってきた。そう。戸川にある報告をするために。 「どうせ俺は貧乏なままなんだ。ずっと新聞紙で尻を拭くんだ。人生沈んだままなんだ」 しくしくしくしく、といったように泣いている戸川の顔の下には数滴の雫が落ちていた。もちろんそれは水道水だということに私はいちいちうっとおしいのでふれない。 「朗報だよ、戸川」 「え?」 私はあったか〜い紅茶をすすった。紅茶の値段は二百円。これだけで戸川いじめができるなんて、まあお手軽だ。 「できるんだよ、それ」 「え」 今度は私が戸川を見つめた。戸川も私を見つめ返す。ラブストーリーのようだがラブストーリーではない。ま、私のまなざしはある種どこかふざけているが。 「あるんだよ、金、兼トイレットパーパーが」 「はあ!?」 すっとんきょうな声をあげた戸川に私は怒った。ドンとテーブルを叩く。 「何がはあ!?だ。だからあるっての、一万円札をプリントしたトイレットペーパーが」 「え、マジで!?」 まんまるな目をした戸川は急に「待て」を食らわされた子犬のようだ。だからそれをゆっくりと動かしてやるように私もいつもよりゆっくりと話した。 「お前、ジュンちゃんにその話したろ。で、私パソコンで調べてみたんだよ。『金で尻を拭く』って検索してな。そしたら昔の商品だけどあったらしいよ、一万円札プリントしたトイレットペーパー、合計百万円分」 「ひゃ、百万円!!」 「おうよ」 戸川の目はさらにまんまるになった。こいつの目、こんなに丸かったっけと思ったが、それもまた気にしないことにした。 「写真も載ってたよ。それには『金は天下の周りもの』とか『トイレで使って金運UP!?』とか書いてたな」 「ひゃ〜」 「まぬけな声」 戸川は大げさに手を広げてみせた。感情表現が豊かな奴だ。 「ブログに載ってたんだけど、その記事のコメントに『うんがつきますよ』って書いてあったな。下品だけど、まあ笑えるね。あ、分かるよな。『うん』は『運勢』の、って言わすなよ馬鹿」 「俺はあやまんないけど」 「はいはい」 私は照れ隠しにやはり紅茶を飲む。今度はずずずと音を立てた。 時計を見る。映画の時間が始まろうとしていた。ただ始まるのは始まるのでも私たちには関係がない。ただ映画が始まるという事実があるだけだ。 「探しに行こうぜ」 「はあ!?」 意気揚々と拳を握り締める戸川。斜め上を向いて立ち上がっている。 「探しに行こうぜ、それ。某ドンキホータに」 「ええ〜」 もう帰ろうと思ったんだけど。めんどくせー奴だな。 「ちょっと待って。紅茶まだあんまり飲んでない」 「さっさと飲めよ」 「ああ!?」 お互い口が悪い。まあ話が話だけにお上品ではないのだ、二人揃って。しかし、私はあることに気が付いた。 「もしさ」 「何?」 紅茶をゆっくり飲む。急がない。 「それがあったとして、お前それ買えんの?高いんじゃないの?」 「あ!」 愕然として、そのあと倒れこむ戸川。だがさっきも見た、ので。 「紅茶をこんなふうに・・・」 「あつっ!あつっ!」 顔のそばにこぼしてやった。にひひと笑う私。映画が始まった。タイトルは『百万円と苦虫女』。主人公が百万円を貯めて家を出て行く話だ。 「帰るか」 「しくしくしく」 私は映画館の隅を指差した。 「せめてトイレ行こ。普通の紙で拭いて帰れ。で、そのぐらいの金ちゃんと貯めろ」 「あーあ」 私たちは立ち上がり、トイレに向かう。一万円札がプリントされたトイレットペーパー。戸川がそれを手に入れる日はまだ遠い。
|
|