勝負ごとにつきものの“まさか”という言葉に猛の心は捉えられた。
―まさか。でも、これで最後にしよう。これで、来なかったらそれまで。金輪際競馬を止めよう。
猛は、ポケットの五百円硬貨と幾らかある百円硬貨を握りしめていた。
また、馬と目が合った時、馬は首をブルっと震わせながら歯を見せた。
―まさかとは思うけど
そう思いながらも、猛はパドックを後にした。ブルルっという馬の嘶きが背中から聞こえてきた。
発券機の横にあるオッズ表を確認すると単勝ではいつもの通り、シンガリ人気であった。単勝七十八倍。複勝でも、十倍以上と表示されていた。そのレースの一番人気は、
単勝一倍、断然の人気馬である。
しかし、あり得ないことが起こるのも競馬であることはこれまでに何度も見てきた。どうしたら、そんな馬の馬券を買うことができるのだろうと言う馬であっても必ず誰かが買っているのも事実である。それは、関係者だけなのかもしれないが、それでも買っているのには違いなかった。そういう馬を買うには、何か、特別な啓示か閃きがあるのだろうと常々思ってはいたが、これまでそういうことに巡り合った例はなかった。
―もしかしたら、これが……
猛の頭の中では、あの馬の仕草が確証に近い啓示に思えてならなかった。
ポケットから小銭を取り出してみると五百円が一枚、百円が七枚あった。
―勝負しかない。今がその時に違いない。でも相手は……。ここは、一点勝負のところだ。単勝一点、十万近くにはなる。いやいや、一点なら複勝だろう。それでも一万ちょいにはなる。騙されるな、シンガリの常連だぞ、一番人気はダントツ、二番三番も固そうな馬だ。ここは、定石通り人気通り。ワイドがあれば、ワイドで一番と噛ませるのに……。
マークシートを睨みながら様々な思考が脳裏を駆け巡っていた。
『勝負は、弱気に出たら負けだ』
何かの本で読んだ言葉も思い出された。
―そうだな、これは勝負なんだ。あの馬の仕草には、きっと何かある。ある筈だ、あって欲しい。外れたら、これでもう金輪際競馬とはお別れなんだ。取るにしても外れるにしても思い切っていかなくちゃ。
そして、多少の躊躇を感じながらも猛は、マークシートに線を引いた。
単勝三番。
マークシートには千二百円という記入がないので千円に線を入れて発券機の列に並んだ。投票締め切り時間まで後、一分とモニターに映し出されていた。お金を入れマークシートを差し込むとエラーの表示が出てシートが戻ってきた。シートをよく見ると、記入するときに焦っていたのか、緊張で手が少し震えていたせいか、線がはみ出て別の枠に少しかかっていた。投票終了のベルが鳴り響いていた。慌てて、横に置いてあった新しいシートに記入し、コインを投入口に入れ発券機に差し込んだ。
しかし、マークシートが入らない。何度試してもシートが機械に入ることはなかった。焦りながら、時間を気にしながら何度も試みた。それでもシートが機械に入ることはなかった。よく見るとシートを入れると思っていた場所が、お札の挿入口であったのだ。普段ならこんな間違いは起こる筈もない。慣れた筈の発券機である。係員を呼び出そうと、はっと我に返った時そこがお札の挿入口であることに漸く気づいた。慌ててマークシートの挿入口に投票券を差し込んだ。ほっとしたのもつかの間、シートが機械に飲み込まれると『このレースの投票受付は終了いたしました』の文字が画面に浮かんでいた。
『只今―レースの投票受付は終了いたしました。ありがとうございました』と画面の中で、頭を下げる制服姿の漫画の女性の姿が映っていた。
猛は画面で頭を下げる女性の頭を叩きたくなる衝動を抑えながら、精算ボタンを押した。硬貨が払い戻される時の、受け皿に響く音が乾いた音は『おまえの運もこれまで』と告げているかのようであった。吐き出された硬貨を、掴みポケットに入れ、振り返るとあのオッチャンが立っていた。その顔には苦い笑いが浮かんでいた。
「なんや、にいちゃん間に合わへんかったんかいな。そら止めとき言うこっちゃ。神さんがな、そう言うてんのんや。まぁ、これも縁やろ。一緒に見るか次のレース」 猛は、そう言うオッチャンの誘いを断る余裕もなく言われるままにオッチャンの歩く後ろをついて行った。
観覧席に座るとオッチャンはどの馬を買うつもりだったのか訊ねてきた。
猛は、パドックでの出来事、それから発券機の前でのことを合わせて話した。
「そんなことが、あったんかいな。そら、まさかとは思うけど来るかもしれへんな。何が起こるかわからんのが競馬や。どっちにしても、もう、済んだことや神さんがどう思ってるか見させてもらおか。ほら、始まるでぇ」
場内にレースのスタートを告げるファンファーレが鳴り響いた。
スターターが、遠くの方で赤い旗を振り降ろすのが見えた。
ゲートが開く金属音とともに馬が地を蹴る響きが鼓動を搔き立てる。ハナを取ったの は、以外にもラッキーチャームであった。正面のスタンドを過ぎたあたりでハナを奪い、後続を引き離す勢いでグングン飛ばしている。向こう上面に入ってもスピードは落ちることなく五馬身位の差で三コーナーを通過、最終コーナーも先頭で突っ込んできた。二番手は、一番人気の二番、そして、一番、七番と続いている。ラッキーベルのゼッケンは三番であった。一年前の一、二、三とは、逆の三、二、一。それも、シンガリ人気の三番ラッキーベルが先頭に立っていた。
―あの馬の微笑みは、やっぱり本物だったんだ。
そう思った時、ゴール手前百メートルで、ラッキーベルの足が、急に失速したようになった。足が、というより、ラッキーベルの周りだけ時間が止まってしまったのではないかというほどの失速ぶりであった。ゼッケン二番が難なく、差した。その後、一番、七番と続いていった。結局、ラッキーセブンは八着でゴールを通過した。
―買わなくてよかった。 という思いと ―あれは、なんだったんだ。 という思いが猛の頭の中で交錯していた。
「これは、テッパンや。にいちゃんよかったな、買わんで。勝負賭けるっちゅう程の金額やないが、今のあんたにはそういう気持ちやったやろ。これが外れたら競馬は止めや思うた馬券が買えへんかったんは、まだ、止める時でもないっちゅうことかもしれへんな。ほんまのところは、わからんけど―。まっ、どっちにしても買わんでよかったっちゅうこっちゃ」 というオッチャンの言葉を聞きながら、猛はレースが終わったばかりのまだ粉塵立ち込める場上を眺めていた。
―勝負ってなんなのだろう……
―勝つって言うことはどういうことなんだろう……
―僅かな金、僅かな金、僅かな金……
僅かな金を工面して、いつか、いつかと夢見て通い続けてきた競馬場であった。この一年半得るものは何もなかった。反対に数えきれない位多くのものを失った。 ―俺は、いったい今まで何をしてきたんだろう……
猛は、虚ろな目で電光掲示板に映し出される数字を眺めていた。
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