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作品名:ルーザーズ ハイ 作者:宮本野熊

第8回   8
 ある日、彼が、いつものように名古屋競馬場のパドックで馬を吟味していると後ろから、声がした。
「にいちゃん……」

 彼が、振り向くとあの大阪のオッチャンと言っていた男が立っていた。

「やっぱりや。覚えてるか?」

「えっ。えぇ、お久しぶりです」

「おぉ、久しぶり、久しぶり。そやけど相変わらず、『えっ』から始まるんやな、あんたの会話は」

「えっ、そうですか―」

「まあ、ええわ。なんや真剣に馬、見とったけど、なんか、わかったことあるか?」
オッチャンは、そう言うと、にやりと笑いそのまま目線を馬に移した。

「いえ。中々馬を見ててもわからなくて、それでも、何かないかと見ているだけで……」

「せやろな。まぁ、そういうもんやパドックっちゅうやつは。それより、あんたまたサボりか?」

「いえ、会社はリストラされて、今は無職です」

「……無職か。無職では勝てんやろな」

 オッチャンは、自身ありげに言うと馬を見つめ、またにやりと笑った。

 二人は、しばらく黙ったままパドックを周回する馬を眺めていた。

「にいちゃん。ワシな、あんた初めて見たときから、なんやいつかこうなるんちゃうかなって思うててん」

「えっ?」

「あんた、あん時から今まで、相当負けとるやろ」

「……」

「まぁ、ええわ。言わんでもわかる、あんたのなり見とったらな。悪いことは言わん、もう止めとき。競馬だけやあらへん、ギャンブルで儲けようなんて思わんこっちゃ。その内、魂も食われてまうで。まだ、多少でも正気のある内にやめとかんとな。まぁ、ワシが言うても説得力ないかもしれへんけどな。その道のプロが言うんやと思うて聞いとき。それがあんたのためや。これに生活賭けようなんて、間違っても思いなや」

 オッチャンは、猛の考えていることを見透かしてでもいるような言葉を並べた。その表情からは、先程までのようなニヤケた笑顔は消え、横顔からでも威圧を感じさせる程に目が重く尖って見えた。

 猛には、返す言葉もなかった。

「相当、負けとるだけやない。借金もあるやろうな、その様子では。友達も周りから、おらんようになって。連絡も来ん携帯持って。種銭減らさんように、生活切り詰めて。夜になっても電気をつけとらん薄暗い部屋で、毎日夜が明けるの待って、小銭握りしめて競馬場へ……。今日こそは……。まぁ、こんところやろ。そんな、今日なんちゅう日は、いつまで経っても来るもんとちゃう。早う止めや、悪いことは言わん。今なら、まだ、いくらでもやり直せる。それ以上、こっちの世界へ関わらんようにするこっちゃ。あんたのことはよう知らん。会うのも、これで二回目の偶然や。そやけど、前にも言うたと思うけど、根は真面目そうやから言うたるんやで。止めとき、今のうちに」
オッチャンは、猛にとって知り合いと言っても、まだ殆ど何も知らない相手であった。

 そんなオッチャンは、見も知りもしない猛の生活を手に取るように話すとタバコを咥え煙を空に向かって大きく吐いた。

「なんも、言えんやろ。全部、図星やろうからな。落ちていく奴は、みんな同じ道を行きよるもんや。今の、あんたのことやったら生活だけやのうて考えてることまで皆解るわ。あんた、馬見ながら、ポケットに入ってる小銭をせめて札にできんかいうて考えてたんとちゃうか。まだ、三レースしか終わってへんのに、もう、金も無いんやろ。家に置いてきた僅かな金のこと考えて、もう少し持って来たらよかったなっちゅうところやろな。せやけど、それが正解や。見たとこ、あんたの性格からしてあったらあっただけ負けてまうやろ。せやから、決まった金しか持たんと来るのは正解や。まぁ、それが、唯一、今までに学んだことっちゅうところやろな。今までに、取った万券をもう一度言うて夢見るんもええけど、それは、遊びでやっとる内のこっちゃ。今は、あかんで、そういう時やない。うるさい、思うてるかもしれへんけどよう聞いときや。ほな、またな……」

 それだけ言うとオッチャンは、パドックの柵に凭れ俯いている猛を後に残しその場を立ち去って行った。

 猛は、振り向くこともできず。オッチャンから言われたことを思い出すとただ項垂れるだけでその内に目の前を歩く馬の姿が霞んできた。悔しさもあった。情けなさもあった。惨めさも、不甲斐なさも、そして、焦りも……。

 平日の名古屋競馬場に人気が少ないことは幸いであったかもしれない。四十を目の前にした大の男がパドックで馬を見ながら泣いていた。そんな猛の姿を見て、怪訝そうにひそひそ話しながら含み笑いをするカップルがいた。見て見ぬふりを決め込むように、タブロイドと馬とを見比べながら鉛筆を動かし、それでも横目で盗むオヤジがいた。手綱を引きながら、ちらちらと目線をよこす厩務員もいた。

 それらの視線に気づきながらも、その場を動くことのできない猛がいた。

 約一年半前、初めて競馬に触れ、心を揺すぶられたのはここであった。その時から、繁々と通い、今では、笠松へも、中京競馬場へも通うようになった。その間に得たものは少なく、失うものばかりが増えていった。金、仕事、友人。そして、オッチャンが言っていたようにもしかしたら、魂まで無くしてしまったのかもしれないと思われた。

『やめとき』というオッチャンの言葉が耳の奥で反芻しては、消えて行った。

―オッチャンの言う通り、もう止めた方がいいんだろう

 そう思った時、パドックを周回していた葦毛の馬と目があった。ラッキーベルと言う名の馬であったが、名前とは裏腹にレースではシンガリの常連であることは猛も知っていた。その馬が、猛の前を通る時、心なしか眼元が濡れているように見えた。次の周回の時、猛の前を通る時、ラッキーベルがブルルっと身震いをして見せた。そして、猛の前にラッキーベルが来たとき停止命令がかかった。馬が一瞬笑ったように見えた。

―まさか……


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