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作品名:ルーザーズ ハイ 作者:宮本野熊

第6回   6
 男の後についてファミレスに入ると窓際の席に案内された。道路の向こうにさっきまでいた競馬場が見えていた。

「コーヒー二つ」

 男は、席に座るなりウェイトレスに注文をした。

「にいちゃん、さっきまでと違うてなんやちょっとええ顔になっとるな。悩みものうなったみたいに見えるで」
と言うとタバコを咥え、微笑んだ。

「あんた、気づいてへんかったんやろうけどな。ほんまにあん時、遠い目して『わからない、わからない!』って叫んでてんで。初めは、買い目がわからんのかと思うてたけど、その内『俺はなんのために生きてるんだ?わからない、わからない!』って言い出して、『う〜』っちゅうて唸りだしたんや。通り魔とか多い物騒な世の中やから。みんな怖がってあんたの周りから離れて行きよったんや」

 猛は男の話を聞きながら、思いつめたような目で、テーブルに置かれた水の入ったグラスを眺めていた。最近何かと悩んでもいた。見ず知らずの男の言う言葉ではあるが、この男が嘘を言う必要もないのだろう、しかし、猛は自覚していない自分の行動に信じがたいと言う気持ちを口に出していた。

「本当ですかや、あらへんがな。嘘言うかいな。まったく、覚えてへんのかいな。気ぃつけや、あんまりストレスためんようにせんと。その内ほんまに何かやらかしてまうで」

 男は、精神的な病に悩む患者に対する医者のような冷静な表情で、しかし、断定的に猛の言葉に答えた。

 猛は、自覚のない彼自身の行動に戸惑いを感じながら、その時に思っていたことを男に話した。

「全然気づいてなかったです。ただ、そう心の中で思っていたことは確かです。馬が、一生懸命走っているのを見ていたら、いったい何のために走っているんだろうって思って。きっと、この馬は人間に走らされているに過ぎないんだって思うと齷齪(あくせく)毎日会社に行っているというより行かされている自分とダブって、なんのためにって思ったんです」

 馬と口に出した時、初めてレースを見た時の興奮がほんの僅か猛の脳裏を掠めた。

 テーブルに置かれたグラスの表面から水滴が滴り落ち、グラスの底をじんわりと湿らせていた。猛は、無意識にグラスを手に取り紙おしぼりで、グラスととテーブルに滲んでいる水を記憶を拭い去るようにして拭き取った。

「そうかいな、まぁ、誰も同じように思うもんや。ただ、どうやって生きているかの違いだけや。ただな、一生懸命打ち込めるなんかはもった方がええで。あんた、歳いくつや。そうか三十八か。まだまだやな。ひよっこや。一昔前やったら、よかったけど。今の世の中、年寄が年寄やのうなってるやろ。歳とったかて、命は繋いでいかなあかん。せやから、金も仕事も若いもんに中々譲っていけんようになってしもてな。今の三十代は、昔の二十代、もしかしたら、十代位のもんなんかもしれん。まぁ、これはあんたらの責任ちゃうけどな。四十目の前にしてもひよっこや。一人前に扱われるまでに悩まんならん時間が、昔より長うなってしもとるからな。悩むはな―。せやけど、それはあんただけとちゃうねんで、世の中全部が、そうしなってしもてるんやと思わなしゃぁないで―。かわいそう言うたら可哀そうなことやけどな。
ま、そんなことは、どうでもええわ。
とにかく気ぃつけや」

「はい」

「見ず知らずのこんなしょうもない男に、言われて腹立つかもしれんけど。素直に『はい』って言えるのは、大したもんや」

 その時、ウエイトレスがやってきてコービーがテーブルに置かれた。

 コーヒーに砂糖とミルクを入れ、それをかき回しながら男が言葉を続けた。

「それとな、競馬や。競馬にしても、競輪にしてもパチンコでもええわ。なんにしても、賭け事はほどほどにしとかなあかんで。遊びの域をでんようにな」
と言うと男は目を細めながらコーヒーを啜った。

「ほんまにな。ワシもこれまでいろんな人間見とるけど、あんたみたいな真面目そうな男程博打に嵌ってまうねん。もし、今日、あの三連単が入っててみ。今日はええわ。でもな、そうそう当たるもんとちゃう。その内、勘違いしてあんたなんもかもなくしてまうことになってたかもしれんねんで、そうならんよう神さんがちょっと馬の尻尾引っ張ったんかもしれん」

「そうかもしれません―」

 猛は、そう答えながらも男の素性を思い出していた。この男は競馬を仕事にしているという。毎日が、競馬三昧であると言っていたことを思い出していた。

「ワシがいうのもなんや思うかもしれんけどな―」
猛の疑問を察したかのように男はまた語りだした。

「ワシはな、見ての通りの博徒や。馬券師て呼ぶ人もおる。ほんまにこれしかでけん。こんなワシでもな、これまで、よそ様に迷惑をかけるようなことはしてはこなんだ。これは、ほんまや。せやけどな、身内にはごっつう迷惑をかけてきた。親も、嫁はんも、兄弟も、親戚も。ワシのおかげで一時はみんな財産なくしかけたこともある。嫁はんは、ワシが真剣に博徒になるっちゅうたら、愛想つかして出て行った。今日のあんたみたいに、ちょっとの遊びでっちゅうんやったらまだ、笑って見とられるけど、二レース目の真剣な目ぇみてたら、ちょっと心配にもなるわ。気ぃつけや、言うたんはそのこともあるんやで。体のこと、心のこともやけど。余計なこと考えんと仕事せなあかん。馬は、何も考えんと一生懸命走るだけや。勝ったら褒めてもらえることを馬は知っとる、せやから、真剣に走るんや。あんたが、『なんのために』って言うてたやろ。競馬馬は、勝つために走っとるんや。人間も一緒や。ただ、馬は走ることしかでけん。それが、馬の一番の幸せや。人間には、走ることだけやない。色んなことがでける。そやから、迷う。迷うようにできとるんやから、迷ってもええんよ。馬、みたいにほんまの道が見つかるまでは迷ってもええんよ。けどな、もし、これやいうもん見つけたら、迷ったらあかん。血ぃ吐いても、命削ってでも我武者羅に走らなあかん。それが、生きるっちゅうことやと思う……」

 男は時々、何かを思い出したかのように遠くを見つめながら一言一言に力を込めて話した。猛には、馬券師といった男の意味はこの時には、まだ、わからなかったが、それまで抱いていた。競馬場でたむろするオヤジというイメージとは違った印象をその男に感じていた。

「あんたは、素直な人や。こんな見ず知らずのオヤジに説教じみたこと言われても素直に聞きよる。どんなことでもええ、しっかり打ち込めるもんを早よぅ見つけるこっちゃ。ほんまに命掛けてやるっちゅうことがどういうもんかわかる位にでけるようになったら、どんなもんでもきっと、ものにできるようになる―」

 それから、一時間ほど、世間話しをして、男と別れた。名前を聞いたが、その男は名のらず、ただ、『大阪のオッチャン』でええやろ。もし、縁があったらまた、どっかで会うやろと言っていた。


 大阪のオッチャンの心配した通り、この日を境に猛の生活はこれまでとは違う変化を帯びてきた。あの時の興奮が忘れられず、良くも悪くも競馬にのめり込むことになったのである。普通、競馬のみならず賭け事にのめり込むという言葉の裏にはじめじめした梅雨空のような陰惨な空気を感じてしまうが、猛の場合、そうとばかりは言えなかった。勝つこともあれば負けることもある。収支を計算すると結果負けが大きく込むという当たり前のものであった。負ければ、負ける程に、次こそはと、これまで感じたことのない情熱のようなものが心の奥底から湧き上がってきたことは不思議な感覚であった。それが幸いしてか、災いしてか、これまで思いつめることの多かった性格は、周囲からも指摘される程に明るくなっていった。

 賭け事にのめり込むという罪悪感。負けが込んでくるという焦燥感。ほんの時折に味わうことのできる勝ち馬を取った時の充実感。それらが織り交ざり、これまで仕事に追われ、生活に追われ、これといった遊びをすることもなく実直に生きていた時の抑圧された継ぎ接ぎだらけの偽善人がようやく本来の姿を表に出すことができたという解放感からの変化だったのかもしれない。


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