そのアナウンスが、終わると男は、椅子に背中を預け肘を背もたれに置きながら猛に向かい笑窪を覗かせ得意そうな笑顔を見せた。
「どや、面白かったやろ!」
「えっ、えぇ」
「また、“えっ”かいな」
「えぇ、すいません。でも、まだ、結果が出てないですから」
「まぁ、そうやわな。でも、わしは、安心や三連複で買うてるからどっちでもええねん」
「三連複ですか?」
「そうや、二番は、九番人気や、一番は四番人気。三番は、一番人気。一、三はあるかもしれんが、まさか二がここまで伸びるとは思ってもいいひんかった。まっ、ビギナーズラックっちゅうもんもあるさかい。あんたに乗らしてもろた。三連複でも万シュウや。ワシも千円で買うたから十万にはなった。ホンマに恐ろしいもんやビギナーズラックっちゅうもんは。これだけは、未だに不思議や。馬、知っとるもんはよっぽどのことが無い限り買うことない並びやからな。おおきに。後は、にいちゃんの運が何ぼのもんかや。当たっても、外れても平常心やで、忘れんなや。そやないと、勝ちの神さんは微笑んでくれへんで……。でも、どや興奮したやろ。なんにも知らんと見とったら、ただ、馬が走りよるだけやけど、その結果大金が入るかも知れへん思うたらなんや、気ぃ入るやろ。まして、十万馬券や。ホンマはな、こうして入ったか、どうかわからへん時にいくら、いくらってこんな話しは、せん方がええんやけどこれもあんたのためや思うて聞いといてや。どっちにしても、気ぃようにな……」
猛は男にハイと返事をしながらも、結果を待つ間の数分間、平静を保てと言われても出来るものではなかった。ましてや初めて買った馬券が百万を越えるお金になるかもしれないと思うとその場に土下座をして地面に頭を擦り付け、額から血を流してでも一、二、三と入れてもらえるよう神様にお願いしたい位であった。男が、あれこれ話す言葉など、鼓膜がセメントで固められてでもいるかのようで実際のところ何も聞こえては来なかった。男の口の動くに従って、猛はただ頷きを繰り返しているだけであった。
ピンポン、ピンポーン。場内に、軽妙な合図が響いてきた。
「お待たせ、いたしました。写真判定の結果をお知らせいたします」
女性の声は、きっと録音されたものに違いないと思わせるくらいに感情の籠っていない声であった。
「写真判定の結果をお知らせいたします……」
「おっ、いよいよ来たで」
「はい」
猛の心臓は、肋骨に押さえつけられて苦しそうに、早く骨を取り除いて自由にしてくれと言わんばかりに高鳴っていた。
「只今のレースの結果は、……」 というアナウンスの少し後、電光掲示板に数字が灯ると場内に「おぉ〜」とどよめきが湧き上がった。
同時に電話番号の案内を聞いているような無機質な声が場内に響き渡った。
「一着、一番。二着三番、三着二番、……で確定いたします」
猛の心には、出来るなら、聞きたくはないという気持ちと早くいい結果を知らせて欲しいという欲求が入り混じり、息苦しくなっていた時であった。
「二着、サ…」 と聞こえた時には、体の中を流れていた血液に片栗粉を混ぜられたように思考も、身体も全ての機能が一時停止をしてしまったのではないかと思われる位に猛は一瞬身動きがとれなくなってしまった。
目の前が暗くなった。 血の気が、引いて、体温が一気に下降していることも感じられていた。
「あ〜ぁ、ほんまかいな……。にいちゃん残念やったな。ま、勝負っちゅうのはこんなもんや、気ぃ落としなや。地方にしては、今日はええ競馬二レース続けて見せてもろた。なんか久しぶりに鳥肌立ったわ。おおきにな、ほな行こか」
ほな行こかと言われても、ハイそうですねと言ってその場を素直に立ち去ることは猛にはできそうもなかった。ついさっきまで手にしかかっていた百万という大金が手からすり抜けた時の衝撃的な余波がまだ脳裏にさざめいていた。悔しいと一言で済ますことのできるほど賭け慣れているわけではなかった。なんとかこの気持ちを収めたいと思っても、当たったかもしれないという期待の後、外れてしまったという絶望は猛の脳にこれまで感じたことのなかった興奮を助長するアドレナリンを放出し続けていた。その結果、残された最後のレースに今度こそという過度の期待が湧き上がってくることを抑えられなくなっていた。ルーザーズハイ、負けの連鎖を生むこの兆候は猛の脳に確実に刻まれ始めていた。暫く、レース結果の表示が点滅している掲示板を眺めながら、申し訳なさそうに猛は男に話しかけた。
「すみません、最後のレース、もう一回やらせてもらえませんか」
男は、猛の言葉を予想していたようにふっと溜息交じりに
「やめとき。にいちゃんのビギナーズラックは、もう、期限切れや。何ぼやったかて、当たらへんわ。ワシがこんなこと言うのもなんや変かもしれへんけど。金を粗末にしたらあかんで」 と言った。
猛にも男のそう言う意味は何となく理解できはしたが、目の奥で脳が波打つように活動を始め、心臓から近い左手には普段より多くの血液が循環し痺れのような感覚が出始めると男の言葉を素直に受け止める理性は体の奥深くに閉じ込められてしまっていた。 「わかってます。でも、最近、こんなにドキドキしたことなかったんで、今日このまま止めてしまうと嵌ってしまいそうな気がして。だから、これっきりにするために、もう一レースだけお願いします」
「嵌ってしまう……か。そうかもしれんな」 と言って男は憐れみを浮かべた笑顔を猛に向けた。
「わかった、待っとったるわ。行ってき」
「あなたは、買わないんですか」
「言うたやろ。これは、ワシにとっての仕事や、酒飲んだらやらん。気ぃ使わんと行ってき」
次のレース―。
猛は、男からタブロイドを借りた。今度は、男の記のついていた並びを選択し、マークシートに線を入れた。一人でスタンドを降り、馬券を買いに行き。再び男のいるスタンドへと戻って来た。何を買ったと男に聞かれ、猛が馬券を見せると男は無言で微笑んだ。男はタバコを取り出し、一服吸った。
「わしも、予想してる時はそれかいなと思うたけど競馬っちゅうんは難しいもんやで、そう単純やないんや―」 と言いながら煙の行方を目で追うように空を見上げた。
最終レース。結果は、男の言った通り、猛が買った馬はかすりもしなかった。
「言うた通りやろ。競馬ちゅうのは、まぁ、こんなもんや。きばって張るとこけてまう、かといって何気のう買うても当たるもんとちゃう。馬の力量と風、それに神さんの気まぐれを読まなあかん。後は静かに待つだけや。そういうこっちゃ、ほな、行こか。道渡ったとこにファミレスがあったな確か。そこでええやろ」
猛は、力なく薄笑いで頷きながら、男に言われるまま後について歩いた。
歩きながらポケットに手を入れると違和感を覚えた。生まれて初めて買った勝馬投票券と呼ばれるハズレ馬券が入っていた。ふと後ろを振り返ると通路の向こうに見えるダートにいくらかの名残りを感じた。
―また、来てみよう
なぜ、そう思ったのかはわからない。猛は、別段、賭け事が好きというわけでもなかった。パチンコこそ月に一、二度、時間つぶしにすることはある、それと、宝くじ。これらが賭け事というものに入るのかどうかは、わからないが、思いつく限り猛のする賭け事と言えばこれくらいのものである。勝って、また来ようと思うのならいざしらず。負けてしまったにも関わらず、猛は、数日後にこの同じ道を歩いている自分を想像していた。その時には、戦利金をポケットにしまい込んでいるものとどこかに決めていた。僅かしかない彼の自由になるお金を数倍にも数百倍にも、もしかしたらそれ以上にもなるかもしれないという期待が脳裏に渦巻いていた。
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