猛は男に連れられて観戦スタンドから降り、発券機の並ぶ場所に立っていた。そこはスタンドの裏側にある陽の光も差し込まない場所であった。さっき猛がスタンドに上がる前に見たモノクロ映画の古びた世界、その中に猛は飲み込まれていた。壁と天井に切り取られた空間の滞った空気の流れの中は、希望という欲の溜り場を表すように人息に混じって湿ったお札の臭いがしていた。男に言われるまま発券機の前に並ぶと、猛は順番を待った。番が来ると、お金を機械に投入し、マークシートを入れた。すると勝ち馬投票券と書かれた馬券が機械から吐き出されてきた。
猛は、生まれて初めて手にする馬券を眺めながら、意外と簡単なものだと感じた。
「どや、買えたか?」
「えぇ、これです」
「ほう〜、豪勢な買い方やな。三連単に千円か。ワシものっといたらよかったかな」
名刺位の大きさの馬券の表面に大きく印刷されている『勝ち馬投票券』という文字と見ず知らずの男の煽てるような話しぶりが、猛の燻った気持ちを和らげるようであった。
「なに買ったんですか」 と猛が訪ねると男は、笑いながら答えた。
「なに買うたって、そんなこと教えられへんわ。ツキが逃げてまうやん。あんたの、ビギナーズラックとワシの読みの勝負や、レースが終わったら教えたる。ほな戻ろか」
席に戻る途中、男は売店に寄ってビールを買った。
「あんたも、飲むか。奢ったるで」
「えぇ、すいません」
「すいませんって、謝ることないがな。ありがとうございますやろ、この場合」
「あっ、はい。ありがとうございます」
「そや、それでええんや。おばちゃん、アサヒ二つ……」
席に戻ると二人は缶ビールを開け何にという訳でもなく乾杯をした。コースに目をやるとトラックには、すでに馬が入りレース前の慣らし走行をしていた。気持ちがどこか落ち着いてきたせいもあったのだろう。鬣(たてがみ)を靡かせ、尾を戦ぎ砂塵を立てながら走るサラブレッドの姿を美しいと感じられるようになっていた。やり過ごしていた何レースかの間にも目に映っていた筈の光景であるにも関わらず、それ以前のレースや馬の様子を思い出すことができなかった。
「あぁ、うまい。ホンマはな、勝負の途中で酒飲むんは、あんまりよろしゅうないんやけど。今日は、もうこれでお終いや。これ見たら、コーヒー行こか」
「あと、もう一レースあるんじゃ……」
「アホやな、酒、飲んだら。止めや。それにな、もしビギナーズラックで当たったら、次は絶対にくることはない。もし、外れたら、その次も絶対にない。ここは、勝ち逃げ、負け逃げの期や。勝ったら、次はもっと。負けたら、今度こそ。そんで泥沼や。勝負には、勝っても、負けてもメリハリが大事やからな」
賭け事をあまり知らない猛にも男の言うことは、尤もらしく聞こえた。
レースが、始まるまでの二十分ほどの間に、男の話を聞いた。生活の基盤は言葉通り大阪で、平日は地方競馬、週末はJRAと競馬三昧の毎日であるという。その時猛にはまだ、地方競馬と中央競馬の違いは判らなかったが、感心を示すように相槌を打ちながら男の話を聞いていた。今日は、兵庫の園田という地方競馬場が開催していないので、一番近くの名古屋へ出掛けて来たということであった。
暫くそうして話をしていると、場内にファンファーレが流れてきた。
「いよいよ、やで。よう見ときや……」
「……はい」
「なんや、緊張してるみたいやな。リラックス、リラックス。そや、競馬の楽しみ教えたろか」 と男は言った後、缶ビールを飲み干した。
空になった缶を足元に置くと、それを踏みつぶし、平らになった缶を拾って椅子の上に置いた。不思議そうな顔でその様子を見ていた猛に
「嵩張らんように小そうして、後でゴミ箱に捨てるんやがな。ゴミの始末は自分でちゃんとせなな。にいちゃんもそうしいや」 と猛の肩を叩いた。
「それよりや、競馬の楽しみ方や、知りとうないか」
男の誘うような言葉と会話の流れから、猛は何気なく教えて欲しいと口に出していた。
男は遠くに見えるスタートゲートの方に目をやりながら言葉を続けた。
「あんたの買うた馬券な、もし、そのまま入ったら千二百倍や。さっきオッズ確認したから間違いないわ。千円で買うとるやろ、つまり百二十万にはなるっちゅうこっちゃ。もし、入ったらコーヒー言わんと名古屋のうまいもん食べさせてや」
「えぇっ!百二十万ですか?」
「そや、百二十万や。どや、ちょっとは楽しなってきたやろ。あんじょう、応援しいや。ほれ、始まるで〜」
男の一言で、スタート前の馬の緊張感が、猛にも一層伝染してくるようであった。それからの数分間、彼は別次元の空間にでもいるかのような感覚に囚われた。馬がゴールをする時など、体中の血液が、頭蓋骨に全て集中し耳や、目や、口や、毛穴や、皮膚から噴出してくるのではないかと思われる位にも興奮を感じた。
スターターが、壇上に上ってクレーンが高々と上がると、赤い旗が振られた。競走馬が一頭、一頭ゲートに吸い込まれていった。最後の馬がゲートに入るとゲート枠のランプが赤く点灯した。
「さぁ、いよいよや……。しっかり、応援して気合い付けたりや」
「はっ、はい!」
猛は、自分でも意外なほど大きな声で返事をしていた。ビールの缶を握る手が湿っぽいのは水滴なのか汗なのかもわからなかった。そして、場内にアナウンサーの声が響き渡った。
「各馬ゲートに収まって、……スタートしました。横一線綺麗なスタートです」
その時、猛の持つアルミの缶がペコッと音を立てた。隣の男が、猛の手元を見ながら微笑んだ。
「まず、ハナを奪うのはどの馬でしょうか。内からは、一番……、そして、大外から十番が突っ込んで来るようです。」
アナウンサーが、しきりと馬の名前を言っているが、猛には名前などわからなかった。猛は目の前を走る馬の姿よりもモニターに映し出される馬の姿を見つめていた。レースが進むに従って、モニターに映し出される“馬”と言うより順位の入れ替わる“ゼッケン番号”だけを目で追うようになっていた。
「馬群が一塊にスタンド前を通過。一番が先頭のまま第一コーナーを駆けてゆきます。二番手は、ピッタリとマークするように十番……。人気の三番……が、三番手。その後、四番、六番、五番、七番と続いています。少し離れて、八番、そして、最後方から二番、九番……。第二コーナーを回って、ゆったりとした流れになっています」
モニターから、目の前を過ぎる馬群に目を移した時。最後方から、走っている二番と言う文字が馬体の横に靡いていた。猛には、そのゼッケンの番号が、大きく目に飛び込んで来るようであった。
「にいちゃん、心配センでもええ。あいつは走りよるで。差し馬や、人気は余りないけどたまにええ走りしよる」
馬群から目を離さないようにしながら、男は、猛に聞こえるよう大きな声で話しかけた。
「第二コーナーを廻って馬群は、向こう場面へ―。お〜っと、ここで一番が後続を引き離すようにどんどんリードを広げて行きます。十番も離されまいと追走、三番はその後ろ、四番、五番が外から前を伺う、六番はやや後ろに下がっていく模様、替わって九番がペースを上げた。後を追うように最後方から二番も前へ出てきた。向こう場面、三コーナーを回って、残り四百メートルの標識を通過。一番は、ペースを落とさず後続を引き離している。この辺りから各馬ペースを上げて来た。九番と二番が、物凄い勢いで追い上げる。十番のペースが落ちて先頭集団から後ろに下がってきました。三番が、二番手追走、九番二番が、その後を追ってくる。四コーナーを回って、直線コース。大逃げを打って一番が、懸命にゴールを伺う。その後、三番が差を詰めてくる。二番、九番の勢いが止まらない。後、百メートル、一番のペースは落ちているが、このまま突き進むか、三番が追う、九番、二番が追いすがる。九番の息が苦しそうだ。二番が前に出る……」
砂塵を上げながら、必死にゴールへと向って駆ける馬の息遣いと、地面を踏みしだく音が地響きのようにスタンドの壁に木霊していた。ゴール寸前一番、三番その向こうへ二番というゼッケンが隠れていった。
馬群が一塊になって、目の前にあるゴールに向かってかけてきた。猛は、ただ、心の中で一番、二番、三番と繰り返し繰り返し願っていた。
「一番のペースが、若干落ちてきた。三番、二番が物凄い勢いで差し込んでくる。一番、逃げ切るか、三番、二番が突っ込んでくる。残り五十メートル、一番堪えられるか、スピードを上げ、並びかけようとする二番、三番を捉えるか。最後の追い上げ。―ゴール!一番、残したかどうか。三頭並ぶようにしてゴールイン。きわどい、展開となりました。人気薄の一番、そして、これも人気薄の二番。そこに、一番人気の三番が差し切れたかどうかという展開です……」
男は静かにしていたさっきのレースとは違って、その時は猛の隣で 「行け!、まくれ!そこや、気合いや!」 と大声で叫んでいた。ゴールの瞬間、場内に「おぉ〜!」というどよめきが湧き上がった。
ゴールの時に見えた、馬番号は間違いなく一番、二番、三番であった。猛は、思わず『入った!』と心の中で叫んでいた。食いしばっていた歯が、武者震いのようにガチガチと鳴り、缶を持つ手が小刻みに震えていた。
喧騒の納まらない中、アナウンサーの声が、冷静な口調で再びレースを解説し始めた。
「それでは、ターフビジョンを確認してみましょう。これは、かなりきわどい展開ですが……。首の上げ下げで決まったか……」
アナウンサーの解説を聞きながら、男が話し始めた。
「一は、入ったな間違いない。問題は、その後や、かなりきわどいけど、ここからやと二番が差したように見えたがな……。まだ、喜んだらあかんで、勝負は、最後までキッチリしてからや。ここからどう見えようと写真がすべてや」
「写真、ですか」
「そうや、写真や。きっちり映っとる。これで、地獄に突き落とされたこと何ぼでもあるからな」
アナウンサーが、モニターを確認しながら解説をしている。
「ゴール前の映像を確認してみましょう。一番マツリダワッショイは、どうやらなんとか凌いだように見えますが、その後、内二番、外三番が非常にきわどいタイミングとなっております。これは、写真判定に持ち込まれるでしょう。四着は、十番、五着六番、はすんなりと掲示板が灯りました。その後、九番、八番、四番、七番、五番の順にゴールした模様です。それでは、お知らせです」
場内に、お知らせの合図の乾いたトーンが響き渡たると、無表情に話しているのであろう男性の声がした。
「お知らせ、いたします。只今のレース、一着は、一号馬マツリダワッショイ、四着……、五着……、二着三着は写真判定といたします。結果が出るまで暫くお待ちください」
その後、女性の声で、写真判定のアナウンスが、繰り返された。
「只今のレースは、写真判定となります。着順が、決まりますまで、暫くお待ちください。尚、勝ち馬投票権は結果が確定するまでお捨てにならないようご注意ください……」
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