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作品名:ルーザーズ ハイ 作者:宮本野熊

第3回   3
 その時である。男の声で、猛は“ハッ”と我に返った。

「にいちゃん、さっきからぶつぶつ煩いで。集中できへんがな……」

「えっ?」

 声の方を向くと、初老らしき男性が座っていた。その男は、薄茶色の革のハーフコートを羽織り、コートの袖口からは、オレンジ色のシャツが見えていた。髪はオールバックに整え、少し白髪が混じっていた。外の世界で見れば少し派手と言うくらいの姿であるが、このモノクロの世界には、男の色が浮かんで見えた。その男は、威嚇するというでも、迷惑そうにという感じでもなく、皺の入った頬に笑窪を薄っすらと浮かべながらどこか親しみを感じさせるような柔らかい関西訛りで話しかけてきた。

「えっ?やあらへんがな、ぶつぶつ大きな声で、何のために、何のために?わからない、わからないって。……あんた、もしかしたらごっつい独り言いうてんの気ぃついてへんかったんとちゃうか。見たとこ、まだ若いのにしっかりしぃや」

「独り言ですか?」

「そうや、見てみぃ。あんたの周りにおった人ら、み〜んなおらんようになってるやろ。今日は、結構混んでるのに。見たとこ普通やけど、あんた、ちょっとおかしい人に思われたんとちゃうか。まっ、お蔭でワシはありがたいけどな、のんびり広々と予想できるからな。おっ、始まるで今日の準メインや。ちょっとの間、静かにしとってやレース終わったらあんたがどうしてたか教えたるさかい」


 男が言うには、猛は、馬の走るのを見ながら突然大きな声で独り言を話していたらしかった。

 このところ営業成績も思わしくなく、上司からは小言を言われる毎日が続いていた。それに付き合いの長い彼女とも近頃疎遠になっている。毎日自分なりに一生懸命生きているつもりでも誰からも褒められることも頼られることもなくただ過ぎてゆく時間に溺れながら過ごす歳月も四十年が直ぐそこに近づいていた。ストレスの何かということをはっきりとはわからないが、何かに熱中することさえここ数年なく、楽しいと思われることもなかった。それが原因かどうかはわからないが、最近では些細なことでも苛立ちを覚えることが多くなったことを考えるとそれがストレスというものなのかとも思われた。そんなことも手伝って、平日にも関わらず会社に偽ってまで競馬場へ来ようと思ったのかもしれなかった。その挙句、自分でも気付かないうちに猛は大きな声でブツブツ独り言を話していたらしい。

 猛が座った時には人も疎らだったスタンドも、猛の周りを除いては大方席が埋まっていた。唯一近くにいる関西訛りの男がいつからそこに来たのかも覚えてはいなかった。
人懐こそうな顔のその男は猛に、「ちょっとまっとき」というと馬がスタートしたコースを静かに見守っていた。表情を変えることもなく、浜辺から海の彼方を走る船を眺めるような涼しい目をしてレースの成り行きを見守っていた。

 馬がゴールを通過し終えても男は動くことも、猛に話しかけることもなかった。
そして、場内アナウンスが、レース結果を受けた配当を放送し始めると場内に重い汽笛のようなどよめきが湧き上がった。

「うわっ、百六十万もつきよったで、年一の配当やな名古屋では。こんなん鉄板でこなあかんのに、わからんもんや競馬っちゅうのは、ほんまに奥が深いわ。十二頭だての十二番人気やで。しかし、こんな大穴でも取る奴がおんねんのやからな。ほんまわからんわ」

 新聞と掲示板を見比べながら男が漸く口を開いた。

 高配当のアナウンスに男は、ただ感心したといったように頷きを繰り返した。そして、テレビドラマのクライマックスシーンを見終わった時に息を抜くかのように『ふぅ〜』っと一息吐くと猛の方へ顔を向けた。

「そう言うたら、にいちゃん、あんたさっきから座ってるだけで、馬券買うてへんみたいやけど……」

「えっ、ええ」

「『えっ』て言うのあんたの口癖やな。まぁ、ええわ。後、二レースあるさかい。それ終わったらコーヒーでも飲みながら話そか、さっきぶつぶつ言うてたこと。あんた、自分では気ぃついてへんかもしれんけど、結構いってしもてるで。脅すようやけど、頭おかしなる一歩手前かもしれへんわ。危ないで。ワシこうみえても昔、心理カウンセラーみたいなことしてたからわかるねん。今日は、これといって用事無いから少し話し聞いてやってもええで。心配せんでもええ、コーヒーはあんたの奢りやけど、別に金くれ言わへんから。まあ、あんたがよかったらの話しやけどな」

 初めて行った競馬場で、出会った見ず知らずの男であった。それでもどこか憐みを込めて猛を見つめる男の目と、自分では気付かず話していたという独り言のことが気になり、コーヒー位ならと思い猛は返事をした。

「どうする?」

「じゃ、コーヒーでお願いします」

「よっしゃ、ちょっと待っとき。あと二レース、とれたら。そのコーヒーワシが奢ったるわ。ところで、にいちゃん、なんで馬券買わへんの?こんなところまで来て。ま、そういう人もたまに居てるけどな」

「実は、競馬場へ来るのも、競馬をするもの今日が、初めてなんで買い方も知らないんです。この間、テレビで競馬見て、結構当たってたから。もしかしてと思ったんですが、いざ来て見るとどうやって買うのかもわからないんで」

「……。そうか、せっかく来たんやから、買い方はワシが教えたるわ。次のメインレースどれがくるか予想してみ。これが次のレースの出走表や」

 そう言うと男は、タブロイド新聞を猛に渡した。男が指さした出走表の周りには男の予想であろう数字が何通りか書かれていた。

「わしの予想は気にすんなや。出走表だけ見て、これや思う馬を直感で三頭、一着から順番に選ぶんや。ここは、テレビでやってる中央競馬と違うて地方やから、三連単やないとええ配当つかへんからな。なんも考えんとこれや思う順番に言うてみ、考えたかて中々当たらへん。直感やで、直感」

 確かに、出走表に書かれてある数字データの意味など見たところで猛にはわかる筈もなかった。それぞれの枠の中にある大きな数字がこれまでの着順位だということがわかるだけである。そのレースでの出走馬は十頭。猛は、目に強く感じた数字を選んだ。

「一、二、三かな」

「一、二、三か……。へんなこと聞くけど、これ選んだの、なんか意味あるんか」

「テレビで、当てたのがこの番号だったのと、これまでの着順がいい順番と思って。それに僕の誕生日が一月二十三日ですから」

「そうか、誕生日か。ビギナーズラックっの常套やな。ほなら、このマークシートのレース番号九に記しつけて、あと三連単、ほんで一着二着三着のところに線引くんや。金額のとこも忘れんようにな。ワシも書くから、出来たら投票券買いに行こか」

 猛は、男に言われた通りマークシートに記しをつけた。所々黒く塗りつぶされたシートを見ると久しぶりに入試でも受けているような新鮮な気持ちを感じていた。解答用紙の提出前に『こことここは当てずっぽう。神様何とかお願いします』と祈りを捧げたことを思い出した。黒く塗られた鉛筆の跡を見るだけでもう既に当たっているかのような錯覚も感じていた。生まれて初めて買った馬券には満足という感覚以外何の思いの入ることもなかった。彼は、これが馬券を買うということかとしみじみとマークシートを眺めていた。

 一方、マークシートに記しをつけたことで、サボりが確定したという罪悪感も沸きあがって来始めた。ただ、馬券も買わず競馬場にいるだけなら休憩しているだけという言い訳が彼自身の中で立っていた。それは数年前、彼女がいながら、別の女性と食事だけだからと自分に言い訳をし、食事に行った時の気持ちと同じであった。多少の後ろめたさはあっても彼にとって食事は、浮気ではなかった。ところが、いざ食事を済ますと飲みにも行きカラオケで盛り上がり、お互い好意を持っていたこともあり予期せず一晩を一緒に過ごすことになった。浮気を確証しながら『一回位なら』と言ういい訳を誰にともなく心の中で呟いた時と同じように、サボりが確定した今、猛は自らの欺瞞に背中の筋肉が固くなることを感じていた。

 そんな猛のどこか後ろめたい気持ちを振り払うように関西弁の男は、

「よし、でけた。にいちゃんは、ええか」
と猛の背中を叩いて言った。

 男は、猛の様子を予想に対する迷いを見せるような表情と取り、
「さすが始めてだけのことはある。目が澄んでるな。どうしても当てたろっちゅう濁りがない」
と言って皺の間から笑窪を覗かせて微笑んだ。

「そうですか」

「そや、憶えときいうても無理やろうけど、ワシの今の言葉の意味がわかる時がその内来るやろな……。まぁ、ええわ、ほな行こか」


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