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作品名:ルーザーズ ハイ 作者:宮本野熊

第20回   20
 コーヒーカップを手に昭三は、画面に映し出されるオッズ表と出走歴を確認しながら馬券を買うヨウコの横顔を眺めていた。六レースが終わっても一度も的中していない彼女の表情は冴えなかった。

 「はぁ、全然、当たらへんわ……」

 そう溜息をつくと、ソファーの背凭れに背中を預け大きく伸びをした。その動きと共に止まっていた空気が微かに動き彼女の体から発する甘い香りに昭三は目を細めた。彼にとって幸せと言えばそう言えるひと時であった。甘えるように送られるヨウコの視線に昭三はいつものように口元を綻ばせた。

 「そんな甘えた目で見ても何にもないで」

 「……もう、ちょっとだけ教えてぇな」

 「教えて、言われてもどの馬がくるかなんてワシにもわからんていっつも言うてるやろ」

 「せやけど、あんたは勝てるやん」

 「当たり前や、そやなかったら生きて行かれへんやないか。こうして二人して一緒に住むこともできへんし」

 「せやから、ちょっとだけ教えてぇな。次のレース、どの馬が来るか」

 「お前もわからん奴やな。いつも言うてるやろ、ワシは勝つには勝ってるけどほんまにどの馬が来るかなんてワシにもわからんのやって」

 「それやのになんで勝てるん?」

 「わからん、ただ、今は運がええだけかもしれん……」

 「そんなん……。運だけでこんなに勝てるわけあらへんやん」
 
 ヨウコの言葉には何も答えず、昭三は黙って、画面に映し出される次レース出走馬のパドックを眺めていた。自分の運だけで競馬に勝てる筈はないというヨウコの言葉は正しいと思う。しかし、実際のところ昭三にも競馬で生活を成り立たせることができている理由は運という他には言いようがなかった。それに内心では、いつ落ち目になってもおかしくはないという焦燥感といつも戦っているのである。ただ、そのことを決して口に出すことはない。落ち目、クスブリの切っ掛けがほんの些細な気持ちの変化から起こることを知ってもいるし、そういう人間を何人も見てきたからである。
 
 「ヨウコ、お前ワシがやってみ言う時以外競馬はするないうた言葉ちゃんと守ってるか?」

 昭三は、確認するように静かに口を開いた。一緒に住むようになってからの二人の間の約束事である。

 「うん、ちゃんと守ってるよ」

 「そうか、それならええ」

 「一回だけ、前にあんたに嘘ついてしたことあったやんか。あん時に、叱られてから懲りてもう全然してないよ」

 「そうか、それがホンマやったら次は勝てるやろ。予想してみ」

 「そんな無茶言うたって、ホンマにやってへんのにもし外れたらやったってことになるやないの」

 「そうや、ホンマにやってへんっちゅうお前の言葉に嘘がなければ入るし、お前が万一嘘ついてたら外れるっちゅうこっちゃ」

 「無茶や、そんなん」

 「無茶や言うてもそういうもんや。『私は絶対に嘘ついてません。せやからそれを証明するために次のレース何がくるか教えてください』言うて心に祈ってみ。そしたら、何が来るかわかるやろ。なんぼ考えてもあかんで、お前の正直な気持ちをレースにぶつけんと」

 一度言い出したら引かない昭三の性格はヨウコにはわかっていたが、本当にやっていないという事実を競馬に託す自信が彼女にはなかった。ましてや、この日これまで一度も当たってはいないことを考えると絶望的であった。ヨウコは、真実を信じては貰えないという淋しさも手伝って情けなく感じ、次第に涙が滲むことを抑えられなくなっていた。

 ヨウコは、言葉が出なかった。

 ただ、真実を信じて貰えないというだけのことで、何故、こうも悲しくなるのかもわからなかった。

 彼女は自身の言葉に嘘はないことを示すかのように昭三を見つめる目を逸らさないようにすることだけで精一杯であった。その時、投票の締め切りを知らせるベルの鳴る音が夢間の遠い幻聴のように鼓膜を揺することを感じた。

 「しゃぁないな、時間が過ぎてしもた……」

 昭三は、赤らんだ目から涙をこぼし彼を見つめるヨウコの頭を抱き寄せながら呟いた。

 「勘違いするなや、お前のことを信じてないんと違うんやで。ただ、事実は一つやということや。事実は自分以外の誰にもわからんもんや、けど真実はなその時々に色んな表現をしよる。まだ、お前にはわかりにくいかもしれんがな……」

 そう言うと昭三は、彼女にどの馬が一着で入ると感じたかを訊ねた。彼女は六だと思ったと答えた。そして、そのレースではブービー人気の六が先頭でゴールを駆け抜けた。予想には感じても、人気も実績もない馬が果たして入るかどうかということにヨウコは自身がもてなかったことを話すと、

 「そういうもんや勝負事っちゅうもんは……」
 と昭三はレース結果の点滅する電光掲示板を見つめながら呟いた。
 
 ヨウコは、話しながら彼女の髪を掬う昭三の手に微かな震えが走ることを感じていた。

 そして、以前、昭三から聞いたことのある『競馬は、強い馬が勝つようにはなってないんや。どのレースかはわからん、せやけど、一日の内の何レースかは話をしよるんや。この馬が来るいうのだけと違うで、この馬は強ても来ん言う時もある。怖ろしい思う時もある。時もっちゅうより、怖い言うんが正直なところや。他になんもでけん、ワシがレースの声が聞こえんようになってしもたらホンマに何にもないんや。それが、ホンマに、ホンマに怖いんや』と言って彼女に縋り付くように体を震わせたことを思い出していた。
 
 「ヨウコ。ワシは怖いんや。勝てんようになるかもしれんことも、お前がおらんようになってしまうかもしれんことも。お前が言うたように、ワシはロクな死に方せんやろうと思う。それも怖いんや。どうしたらええんかわからん。こんなこと、お前にしか話せんから、我慢してな。すまんな……、お前には申し訳ない思う、けど、ホンマに怖いんや、何もかも……、ホンマに……」

 ヨウコの頭を抱えながら、昭三は、以前と同じように体を震わせ、その時と同じ言葉を繰り返していた。


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