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作品名:ルーザーズ ハイ 作者:宮本野熊

第2回   2
 初めて訪れる競馬場の中がどんな風になっているのかとの興味もあり周りを見渡してみるが、目の前に開けた空間は想像していたよりも狭かった。締められた錆の浮かぶいくつかのシャッターの合間を縫って小さな売店が所々開いていた。その他には、新聞を売るらしきスタンドボックスがあるだけでこれといって珍しいものは見あたらなかった。当たり前のことかもしれない。ここは競馬場である。例え場内に競馬以外の余興や娯楽があったとしてもそんなものに誰も興味を示すことはないのだろう。

 場内を進むと電車の乗車券売場のような機械の立ち並ぶ一角が目についた。その周辺には、さも既定のドレスコードでもあるかのように黒っぽいジャンパーを着た男たちが屯し、頭を擡げ天井から吊り下げられているテレビに視線を向けていた。立ち食い蕎麦屋の食台テーブルのような台に身体を預け鉛筆を手にする者、新聞とテレビを交互に見る者、長椅子に腰を掛け壁に背中を預け何もない天井を見つめる者。モノクロに染められた世界の中で人が蠢く様子は、深夜放送で見た古びた活動写真のようであった。

 その風景を見ながら場違いかと感じもしたが、猛が帰ろうと思わなかったのは、馴染めないまでも、彼がその場の空気にすでに感化され始めていたからなのかもしれない。

 猛はこの中のどこかに自分の居場所を探そうと暫く様子を見ていたが、モノクロの男たちが無言で放つ重苦しい雰囲気に弾かれるように、壁と壁の間に見つけた開けた場所へと足を向けていた。壁の間を抜けると目の前にレースコースが広がっていた。それはテレビで見たような『緑の芝が眩しく陽の光に反射して』と想像していたコースとは違っていた。そこにあったのは、ダートコースと呼ばれる砂の敷き詰められたトラックであった。小学校時代遊んでいた学校の手入れの行き届いた運動場を何倍かに大きくしたとでもいう印象をもった。時折砂塵が巻き上がるコースに『結構、広いんだ』と思いながら、猛は暫く初めて目にするトラックを眺めていた。コースの中央には何の目的があって造られたものか、石垣で囲われた枯れかけた池があり、その横に大きなターフビジョンが立っていた。画面には、馬が歩いている姿が映し出され次レースの競走馬の紹介がされていた。振り返ると、陽に褪せかけた椅子の並ぶ観戦スタンドがあった。座ろうかと迷いながら、近づいていった。競馬場の椅子に腰を下ろすということに会社に対する罪悪感を拭いきれず、スタンド脇の手すりに凭れるだけにした。そこから、もう一度コースの先を見るとターフビジョンの右奥にある黒い大きな電光掲示板が目についた。そこには前のレースの結果だろうか一着から五着までの数字が点滅していた。誘うように点滅を繰り返す電光掲示板を見ていると馬券を買わなければという思いが湧き上がってくることに不思議な可笑しさを覚えた。誰かに見られれば言い訳の立たない状況を自覚してか、『ここまで来たのだから』と開き直る気持ちの方が徐々に勝ってくるようであった。しかし、これまでに競馬場へ来たことがあるわけでもなく、猛には馬券の買い方がわからなかった。新聞も馬の出走表も持っておらず、コース内の大きなターフビジョンに映し出される馬の様子以外、レースのことは何もわからなかった。その時『あれだ』と猛は、モノクロの男たちが見上げていた天井から吊り下げられたテレビを思い出した。あそこには家のテレビで見ていたような出馬表が映っているに違いないと思った。それでいて、あの場所にはどうも戻る気がしなかった。もとからここにいたあのモノクロの男たちと猛自身とを区別していたのかもしれなかった。『俺はまだ、ここの住人ではない。ここの住人になるつもりもない』という声が言い訳のようにして彼の心の内から聞こえていた。

 上司に嘘をつき意を決してやって来たものの、猛にはどうしてよいかものかわからなかった。と言って誰かに馬券の買い方を聞くこともどこか恥ずかしく感じた。取り敢えず様子を見ようと観戦席の上段に向かい空いている席に座った。
そうして観戦席に座っているだけで会社に対して引け目は感じていた。バレれてしまえば言い訳の立つことのない状況に、焦りを感じないではいられなかった。自分で起こした行動に半ば諦めの感を抱きながら、ここまで来てしまったのだからせめて眺めるだけでもと、そのまま幾つかのレースをぼうっとやり過ごした。

 周りで観戦する人々の姿は、彼の目には、同じ空間に居ながら別世界、モノクロ映画のスリーディー画面を見ているようで全てが、架空、空想の世界のようにも感じられた。身体は、そこにありながら、心はどこか遠くへ置き忘れて来たというような感覚であったのかもしれない。

 そうして目に映る人々にとは違い、目の前で、ただゴールに向って懸命に走る馬の姿には不思議と親近感を覚えた。目を剥き歯を食いしばりながら走る馬の姿が、猛自身の姿と重なって見えたからかもしれない。

 猛は、目の前で繰り広げられるレースを見ながら、その結果に一喜一憂する男たちの姿を遠くに眺め、走る馬に親近感を覚えながら仕事や生活、これまでの生き方など様々なことを考えていた。

その時、
「運がいいわ……」
とどこかで誰かの叫ぶ声が聞こえてきた。
『運が良い』

 本当は都合が良いと言った方が正しいのかもしれないと猛は思って聞いていた。

 人は自分にとって都合の良いことがあれば運が良いと言い、そうでなければ運が悪いと置き換える。『人というものはいかんせん自分勝手にしか生きられない』と猛は自身のこれまでを振り返ってみてそう思っていた。競馬の結果のように例え僅か一分後、二分後のことであっても先のことなど到底見通すことのできない人という存在には、結果を見て後付けでしか運の善し悪しを判断できないのだ。空に浮かび風に掃かれるように流される一筋の雲のように虚ろで儚い自分と言う人の存在。どう足掻いてみたところで、オカルトチックな予知能力など持ち合わせている筈のない彼のような凡人には、ただただ単調に過ぎてゆく毎日を消化してゆくことが精一杯であった。そうしている内にも些細なことで運がいいとか悪いとかを口にしながら、また、一向に善転する気配のないことを愚痴りながら、いつもと変わらない日々が永遠に変わることなくやって来るだけである。

 与えられた時間に永遠のないことはわかっていても、実感のできない時の流れに何故か永遠を見ながら、生きることの何かもわからず歳月を重ねて来た愚鈍な人間、それが彼自身の見た杉本猛という人であった。

『いい時ばかりは続かない、その反対に悪いときばかりではない』という上から目線で、それでいてどこか申し訳なさそうに言う勝者の敗者に対する慰めも陳腐に思われる程、心の行く先の定まらない猛には一段落ち込んだと思われる運の良くなることはこれまでなかった。もしかしたら、生まれたときから運が悪くて、ただそれに気づいていなかっただけなのかもしれないと彼は自分の人生に諦めの上塗りをこれまでも何度となく繰り返してきた。

『いつかきっと……』

 何を望んでそう思うのか、定かではない。当てのない、『いつか』という日など、やってくることはそれこそ永遠にないだろうことは明らかであった。

 朝起きて、顔を洗って、ご飯を食べて、会社に行く。仕事をして、お昼を食べて、また仕事をして、家に帰りご飯を食べ、テレビを見て風呂に入る。ビールを飲んで、本を読み眠気を誘う。そして―、寝る。

 これまでの人生、基本的には、この繰り返しであった。たまに、友人と酒を飲んだり、旅行に出かけたり、仕事の付き合いでもあればゴルフをしたりということもあったが、どちらにしても、与えられた時間を日々消化しているだけなのには違いなかった。

 人は自覚のないまま、いつの間にか生まれ、そして、いつか死んでゆくのである。

 生きるのにギリギリの僅かばかりの金を稼ぐ為に身と心を削りまた砕きながら仕事をし、何が本当の幸せなのかと悩みながら死んでゆくのである。

―俺は一体、なんのために生きているんだ。

―なんのために、なにを一生懸命しなければならないのか。

―生きる事のなんなのかもわからないのに、どうして懸命に生きることができるのか。

―わからない、わからない、わからない。

 この時、猛には、周りの歓声も聞こえなくなっていた。目の前を走る馬の姿ももう見えてはいなかったのかもしれない。


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