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作品名:ルーザーズ ハイ 作者:宮本野熊

第1回   1
ルーザーズハイ 

 午前中何軒かの営業を済ませた後、杉本猛は会社に定時報告の連絡を入れた。特にこれといった成果はなかったため、携帯の向こうから聞こえる上司の叱責に耐えるしかなかった。午後は社に戻らず、少しでも成果を上げるためそのまま飛び込み営業を行うことを約束し電話を切った。上司からこれまで何度となく言われてきた社員としての自覚と責任と言う言葉に猛は彼の心の置き場はなかった。売り上げに追われ、金に追われる毎日。就職してからというもの、目標は常にお金に置き換えられていた。いつの間にか授かったこの命はお金のためにあるのだろうかという疑問に猛はまだ答えを見いだせずにいた。それでも今の時代、職に就くことができているというだけでも幸せなのかもしれないと溜息と不満を飲み込んでいるうちに三十八歳になっていた。生きる上での進歩や成長は、いつの間にか、お金の稼ぎと時の経過に置き換えられてしまっていた。好むと好まざるとにかかわらず、金に追われる。自覚しようとしまいと、時は刻まれ、年は重ねられる。自分の人生このままでよいのだろうかという焦燥感は猛の心の内に年々募るばかりであった。

 報告を終え、車を走らせると気の早い桜の花びらが一片まだヒンヤリと冷たく吹く風に煽られ、春の訪れを告げるべきかどうか迷ってでもいるかのようにクルクルと舞いながらフロントガラスを掠めていった。

 午後二時、目的の場所に着くと広い敷地を一回りして漸く駐車場の入り口を見つけた。彼は嘘の連絡を会社に入れてしまったことに後ろめたさを感じながらも、狭い入口を通り抜け車を駐車場に滑り込ませた。車は意外に多かった。係りに誘導された方向へゆっくり車を進めると桜の木の下に空いているスペースを見つけ車を止めた。車を降りて見上げると枝に、ところどころ蕾が芽吹いているだけで、まだ、咲いている花はどこにも見当たらなかった。さっき見た桜の花びらは、この木から零れたものではないのだと思った。三月の下旬、例年になく寒い日が続いていた。駐車場から、建物の方を見ると壁に『名古屋競馬場』と大きな青い文字が浮かんで見えていた。

 競馬場に仕事があった訳ではない。かと言って、杉本猛が、仕事を途中で投げ出して通うほど、競馬を好んでいるという訳でもなかった。彼にとっての競馬は週末の暇な時、テレビ中継を見るくらいのものであった。事実これまで競馬場を訪れたことも馬券を買ったこともなかった。競馬は彼にとって、サッカーや野球、エフワンレースをテレビで見るのと同じ些細な観賞娯楽の一つであった。画面に出てくる出馬表を見、走る馬の姿を眺め、どの馬が一着になるかを当てることを楽しんでいたに過ぎなかった。画面の向こうで繰り広げられるレースの予想は、当たったり、外れたりの繰り返しで、ただそれだけを愉しんでいた。

 ある日、テレビを見ながらしていた彼の予想が一着から五着まで当たったことがあった。競馬は一着から三着までしか配当にはならないが、その予想には自分でも大したものだと感心した。そのレースの払戻金は、画面に大きく九十八万三千三百円と映し出された。百円で馬券を買ってその金額と言うことは、千円で買っていれば九百万にもなる。その金額は、彼の三年分の年収に匹敵する金額となる計算であった。金額に溜め息も出、実際に馬券を買っていなかったことに対する悔しい気持ちを暫く抑えることができなかった。馬券を買っていなかったという後悔の気持ちは、競馬を実際にはしたことのなかった自分を暗に責める気持ちへと変わっていった。『もしかしたら競馬で一発当てられるかもしれない』というその時の感情は、枯れ枝に見つけた蕾のように彼の心にこれまで忘れていた希望という感覚を芽吹かせていた。

 以来、いつか競馬場には行こうと思っていた。その矢先、今朝、営業先へ向う途中に偶然名古屋競馬場の前を通ると『本日開催』という看板が彼を誘ってでもいるかのように目についた。『平日でも競馬はやっているんだ』とその時は思っただけであったが、『もしかするとこれも何かの縁か』と感じ始めるとテレビでの予想が当たっていたこともあり、どうしても行ってみないでは済まない気持ちになってしまった。

 そして、午前の営業を終え、会社に報告を入れるとそのまま競馬場へと向かったのである。

 平日の昼間から会社をサボってという後ろめたさも手伝ってか、駐車場から競馬場の入口へ向かって歩く間、猛は交通量の多い東海通りを走る車から顔を背けるように建物の方を見ながら歩いた。

 競馬場の入口は歴史を感じさせるというよりも使い古されたといった表現が似合う程に風雨に浸食されていた。壁にシミの流れているその様子は、猛の会社をサボって来ているという罪悪感に共鳴するようで、彼の気持ちに重い足枷を咬ませるもののようにも感じた。出張で地方へ行った際、馴染みの顔以外を無言で拒む地元のごく僅かな常連だけで成り立っている寂れた飲み屋街を訪れた時のような戸惑いと丁度同じ気持ちを思い出させた。鉄柵のペンキの剥げたところが錆で赤茶色に滲んだゲートを過ぎ、丈の低い黄色く塗られたコンクリートのアーチを潜り中へ入ると空気がなにか湿っているように感じた。高さ三メートル程の壁で囲われ隔てられているだけの空間からは、漂う臭いさえも外とは違って感じた。見上げると空には所々白い雲が浮かび、何者かに急いで掃かれてでもいるかのように形を変えながら流れていた。青空に白く映える雲が、風に流されながらもその存在を必死になって留めようとする様子は、猛に『俺も同じかもしれない』という気持ちを湧き上がらせた。


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