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作品名:死に逝く人 作者:宮本野熊

最終回   6
 ふと、我に返ると宮本の身体には毛布がかけられていた。窓から見える空は白み始めていた。いつの間にか寝てしまったらしい。ソファーの端では、ヤオが身体を丸めていた。はっきりしない意識のまま、何かに誘われるように宮本は再び目を閉じた。

「夕べはよく眠れましたかな」

「はい。すみません、いつの間にか眠ってしまって」

「まぁ、よろしいじゃありませんか。心地よいということはとてもよいことです」

 宮本は老人が風呂から上がったヤオの体を吹きに浴室へと行っている間に寝むってしまったらしかった。

「いい、夢を見られましたかな」

「えぇ、家族のことを思い出していました」
「そうですか、それはよかった。夢を見ることはとても大切です。寝ている時も、起きている時も、人は夢を見なければなりませんから」

 二人は、テーブルを囲み朝食を取りながら話をした。

「ところで、あなたはこれからの事に“夢”をお持ちですか」

 老人は、味噌汁を啜りながら話した。

「夢……、ですか」

「そう、夢です。どんな、些細なことでもいい。なにか、ございますか」

 そう聞かれても、一人浮浪生活をしている今となっては、何も思い浮かぶことなどなかった。

「どんな生活をしていようと夢は持たないといけません。寝ながら、夢を見ることは動物にもできますが、起きて夢を見ることは人にしかできません。夢は人にとって、人を創る上でとても大切なことなんです」

 老人は、そう言うとニッコリと笑った。

「夢……、ですか」
と老人に向かって言うと宮本はふと窓の外を眺めた。

 もしかしたら、これも夢なのかもしれないという思いが心のどこかから湧き上がっては消えた。そして、『動物と人との違い―。人にしかできない、起きていながら夢を見る』という老人の言葉は彼に何を伝えようとするものなのかと考えていた。

「そんなに考えてはいけませんよ。ホホホ。もっと気楽に。それでは、不眠症の人が、寝ようと一生懸命になって却って寝られないのと同じになってしまいます。もし、宜しければ、私がいい夢を見させてあげましょうか。いえ、“いい夢”といってもあなたを満足させるとは限りませんが、きっと後になっていいと思うことができる日がくるかもしれません」

 老人は、そう言うと手を合わせ、

「ごちそうさま」
と言って目を閉じた。

 その膝に乗っているヤオが、テーブルの上に手をつき「ニャ〜」と鳴いた。

 八雲老人は、手際よく食事の後片付けをした。宮本も手伝おうと申し出たが、
「ヤオの相手をしていて下さい。男が二人キッチンに立つというのも何か可笑しいでしょう……」
と笑って一人洗い物を始めた。

 宮本は、老人に言われるまま、ソファーに座り、テーブルの下に置いてあった小物入れから猫じゃらしを取り出すとヤオのじゃれるに任せて猫じゃらしの棒を振り始めた。

 小刻みに揺れる棒の先についたふわふわのピンク色の房を見るとヤオは、子猫らしいはしゃぎ方でソファーと床の間を飛び、降りし遊んでいる。棒を揺するたびにヤオは棒の先に付いた房に触り次にソファーから飛び降り、また、飛び乗っては房を触るということを繰り返していた。彼には、その何が楽しいのかはわからなかった。同じことの繰り返し。そして、ヤオは時折、ヤァ〜と鳴いて宮本の周りを走りもした。

 暫くそうして遊んでやっていると老人がタオルで手を拭きながら、笑みを浮かべ宮本の前の椅子に腰を下ろした。

「こんなことを言うと何かおかしな人間かと思われるかもしれませんがね。聴聞屋の仕事というのはねただ単純に人の話を聞くのではないのですよ」

 老人がそう言いながら笑みを浮かべると「ヤァ〜」とヤオが鳴いた。

「どういうことですか」
と言いながら宮本は、ヤオから視線を老人へ向けた。

「聴聞屋というのはね、生きた人の話を聞くということが仕事なのではないのです」
そういうと老人は、宮本に向かって手を合わせた。

「死に逝く人と言うものは、少なからず、誰かに何か言葉を残したいと思っているものです。愛した人、お世話になった人、憎んだ人。誰にというのは、様々でしょう。例えどんなことを言いたいにしても、そうすることのできる状態で死に逝く人は、幸せなのかもしれません。でもね、近頃ではお一人で逝かれる方も多くなってしまった。聴聞屋はね、そんな方のためにお話を聞かせていただくのが仕事なんです。どこかからか、ヤオがそうした方々の彷徨う心を見つけてきては、私がお話を聞かせていただく。そうして、楽な気持ちで逝けるようにして差し上げるのが私の仕事なんですよ。どんなにつらく、ひどい目に逢われた方でもね、何かしら、楽しい思い出はお持ちなのです。ですから、色々お話を聞かせていただいて、辛かったこと悲しかったことを吐き出して、楽しいことを思い出していただくのです。そうして、最後の夢を見ていただきます。この次生まれてくる時には、こんな風な生き方ができればいいなという風にですね―。私にも来世というものが本当にあるのかどうかは、わかりません。ただ、この仕事をさせていただいてつくづく感じることがあるのです。例えその時が今際の際であったとしても人は、生きている限り夢を持たねばならないとね。例え、命の灯火が今にも消えようとしている時にでも夢を持たねばならないと思うのですよ。何も、怖がることはございませんよ」

 そう言うと老人は、宮本を安心させるように再び笑顔を作り、彼を見つめた。

そして、
「勘違いなさってはいけません。何も、あなたがもう亡くなるということが決まった訳ではないのです」
と言うと彼に向かって胸の前で両手を合わせ再び合掌を組んだ。

 老人の言葉が何を意味するものなのかを宮本が理解するのに時間はかからなかった。

 不安というより、戸惑いと言った方が正しいに違いない。彼は、今、彼の身に何が起ころうとしているのかを理解し始めていた。

 冷たいレンガの階段に座りながら、テレビ塔の明かりを見つめていた時、突然の腹痛に襲われた。そして、這うようにして階段脇にある植え込みに向かい体を凭せ掛けた記憶が蘇ってきた。耐えがたい腹痛に足元に嘔吐を繰り返した。植え込みの縁に頭を凭れ掛けた目の先の闇の中には柔らかな明かりに縁どられたテレビ塔がまた見えていた。時折、人が遠くに横切り、スライドを送る時のような影がちらついた。そして、彼は目を閉じた。寒さはもう感じなかった。

 宮本の回想を遮るように、老人は再び話し始めた。

「幸か不幸か、中にはお話の最中にまた戻られる方もお見えになることもございます。寿命とは、中々わからないものなんです―。こう言うとお分かりいただきやすいかもしれません。『狭間』。そう生と死の狭間、死に逝く人。もともと人は、死に逝くサダメなのですから、何も今更大げさに言うことでもないのですが―。ただ、野熊さんにどれ程時間が残されているのか私にも、もちろんあなたにもわわかりません―。さぁ、野熊さん、どうぞ―、あなたに与えられた時が許す限りなんなりとお話し下さい……。私がこうして聞かせていただきますから、あなたが何も思い残すことのないように―。そして、いい夢を見ていらしてください……」

 老人のその言葉通り、彼には、すべてがまるで夢を見ているようであった。

 八雲と名乗る老人の姿を、遠い昔に見たことがあったのかもしれないと彼は心のどこかで感じていた。その時「ヤァ〜」というあの黒い子猫の声が、遠くに聞こえた。すると目の前の老人の姿が少しずつ、少しずつぼんやりと陽炎のように儚さを帯びてくるようであった。

「どうぞ―」
とすっかり姿の見えなくなってしまった老人の柔らかな声だけが鐘楼の余韻のようにして頭の中に広がっていた。

 何故、彼がそう思ったのかは、わからなかった。遠のいてゆく意識の中、彼は老人の姿の見えていた方に向かい囁いた。

「ありがとう」


 彼の無意識の意識の中、あの老人の声がどこかから響いてきた。

「人は生きている限り死に逝くサダメにあるのです。そこからは誰も自由になることなどできはしません―。夢をご覧なさい。起きている時も、寝ている時も、それが生きている、生きるということなのですから……」

宮本野熊、四十六歳。―死に逝く人―

―このまま眠りにつき、もし再び目を覚ますことがあるとすれば、そこにはどんな世界が広がっているのだろうか。


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