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作品名:死に逝く人 作者:宮本野熊

第5回   5
 彼が、コンビニに向って立ち上がろうとした時、後ろで声がした。

「ヤオ〜、ヤオ〜」

 すると、子ネコはすっと座りなおし辺りを見回した。そして、「ヤァ〜」と鳴きながらその声の方に向って走っていった。

「ヤオ。こんなところにいたのか」

 彼が、振り返るとそこには子ネコと同じような黒地に薄っすらと縦縞の浮かぶコートを羽織った七十は過ぎているであろうと思われる老紳士が立っていた。先程の子ネコは、今度はその老人の足元に身を擦るようにして左右を行き来した。

 老人が、屈んで手を伸ばそうとすると、子ネコはまた、宮本の元へと走り寄ってきた。

「あぁ、すいません。ヤオは、たまに家出する癖があって、こうして探しに来たんです。いえヤオというのはこの子の名前です。大そうかと思ったんですが、八百万の神のヤオです。ハハハ。余り人に近寄らないんですが、今日は珍しい、あなたに助けてもらったとヤオも言っています。ここは、冷える。ヤオを助けてもらったお礼もしなければなりませんし、よかったら少し家によってもらえませんか。直ぐそこのマンションです。いえ、手間は取らせません。とにかく今日は冷える。この歳になるとどうも寒さはいけません、どうぞご遠慮なさらずに」
という老人の言葉に、

「いえ、お礼だなんて、私の方こそ寒くてどうしようもなかったところでした。申し訳ないけど、湯たんぽ代わりで暖めてもらいました。本当に結構ですお礼なんて」
と宮本は断り、立ち去ろうとした。

「ニュア〜」
と子ネコが鳴いたと思うと、老人が、彼の背中から声をかけた。

「どこかへお急ぎのようでしたら、お引止めはいたしませんが、もし、そうでなければ、本当にどうぞ。ヤオもそう言っています」

「どこかへ」と言う宛など、もちろん彼にはなかった。どこかへという老人の声の響きが、彼を振り返らせていた。

「本当にどうぞ」

 そう言うと老人は、宮本の返事を待たずに背中を向けて歩き始めていた。ヤオと呼ばれている子ネコは足元に座って彼を見上げた。「ニャ〜」と鳴いた声が、老人のように「どうぞ……」と彼を誘っているようにも聞こえた。そして、彼は、戸惑いながらも誘われるままに老人の後を付いてゆくことにした。

 猫の鳴き声に振り返ると老人は、宮本が付いてくるのを確かめた。そして、彼を待つように歩調を緩め二人は並ぶようにして歩いた。老人の腕にはいつの間にか黒い子猫が抱かれていた。

 その老人の住むというマンションはセントラルパークから歩いて十分程のところにあった。テレビ塔の下を通り、久屋公園を抜け、左手の信号を渡るとそこへ着いた。道すがら、老人は最近の天気の話しばかりをした。名前も聞かず、素性も聞かれなかった。そんなことはどうでもいいこととでも思っているように彼には感じられた。

 マンションの外観は白く古い様子であったが、エントランスを抜けると新築とはいかないまでも、メンテナンスの行き届いたちょっとしたホテルのような感じであった。エントランスを抜けただけでも温もりの伝わってくる上品なライトピンクの内装の所為かもしれなかった。エレベーターの中には暖房が掛かっており、老人の部屋の三階へ上がる僅かな時間にも冷え切った身体は心地よく体温を取り戻していた。

 三○二号室とドアには数字が入っていた。ドアの横には、桧だろうか、分厚い表札が掛けられてあった。

 そこには聴聞屋と朱の墨字で記されていた。

 老人が鍵を空ける間、彼がその看板を見ていると

「なんと読むかわかりますか」
と老人が聞いた。

「ちょうもんや……。ですか」

「いえ、皆さん学のある方はそう読まれますが、“ききや“と読みます」

 そういうと老人はドアを開け、彼を部屋の中へと誘った。

「何もありませんが、まぁ、どうぞお座りください」
と通された部屋は、リビングであった。

 黒いレザーのソファーが“く”の字に窓に向かって設えられていた。その窓の向こうには、テレビ塔が明滅しながら誰かにメッセージを送っているかのように立っていた。

「この眺め、いいでしょ」

 老人は、さも嬉しそうに話しかけてきた。

「この眺めが気に入って、ここに住んでいるようなものです。どうぞお掛けになって。今お茶でも入れますから。それともコーヒーがよろしかったですかな」

「いえ、お茶で結構です」

「遠慮なさらずに、今日は、冷えますから、アイリッシュコーヒーでも淹れましょうか。温まりますよ」

 そう言うと老人は、返事も聞かずにリビングの隣にあるキッチンへと姿を消した。
宮本は、テレビ塔が丁度正面に見える位置に腰を下ろした。ソファーにかけてあるムートンの敷物が心地よく、それが、老人の過ごしてきたよき時代を語っているようでもあった。

 温かな部屋の中から見る夜空を背景にした人型の点滅は、心地よい刺激を目に与えてくれる。光の瞬きは催眠術師が目の前で五円玉を揺ら揺らと揺らすようにも感じられた。その光景は部屋に立ち込め始めたコーヒーの香りと相まって、いつまで見ていても飽きるという感じがしなかった。夜風に晒されることなく眺めるテレビ塔の明かりはそれだけで温かくも感じられた。

「余程、この眺めが気に入られた様子ですね……」
と言いながら老人が、コーヒーカップを手渡した。

「私も、よくそうして眺めています」

「ええ、こんなに灯りが心に染みるものだとは思いませんでした」

「ほほほ、これは詩的な……。でも、灯りとは本来そうしたものかもしれません。灯りが照らすのは、物だけではなく、昔は心まで照らしていたのですから」

「心……、ですか」

「そう、心です。まだ、まだ、電気が貴重だった頃、灯りには、光とともに温かさがありました。人は、その温もりに集まって色々と話をしたものです。いいぇ、そう大した話ではないのですよ。今日、何があったとか、明日はどうするとか、他愛のない話です。お酒を飲みながら、食事をしながら、お茶を飲みながら、一緒に心も栄養を摂っていたものです。ところが、便利になってくると、いつの間にか灯りから温もりが無くなってしまって、それにつられる様にして人の心からも同じように温かみが無くなってしまったようでなんだか切ない限りです」

 老人は窓の外の景色に目を細めながら、両手でカップの温もりに暖を取るようにしてコーヒーを啜った。カップから立ち上る湯煙りを眺めながら穏やかに時の流れるさまを楽しんでいるかのようでもあった。部屋の中は、コーヒーの香りの向こうに金木犀の仄かな味わいが漂っていた。その部屋に立ち込める香りは、男の一人暮らしには、似つかないようにも感じられた。リビングには、ソファーとダイニングテーブル、それに三十八インチほどのテレビがあった。壁には、大きな曼荼羅の掛け軸が一対並んでかけてある。その他には何もない、老人の簡素な暮らしぶりが伺えた。

「ところで、まだ、お名前もお伺いしてなかった。私は、八雲といいます」

 老人の微笑みには、どこか懐かしさを覚えた。

「すみません、宮本です。宮本野熊といいます」

「ほう、野熊さんですか。八雲と野熊。なんだか似ていますな。これもヤオのとりもってくれたご縁でしょうかな。ホホホ」

 そう言えば、部屋に入ってから猫の姿が見えなくなっていた。

「ヤオは、今、入浴中です。変わった猫でね、外から帰ると温かい風呂に入るんですよ。普通、猫は水を嫌がるものなんですが、まるで、猿が温泉に入りでもするかのように特にこういう寒い日には長湯をするんですよ、今日はお気に入りの金木犀の香りのする入浴剤を入れましたから、当分出てこないでしょ。本当に変わった子です」

 コーヒーの中から香るスコッチが効いているのか、久しぶりの部屋の中、宮本は身体の芯から温まることを感じていた。

「失礼ですが、もし、帰るところがないのでしたら、お泊まりになりませんか。お気にさわられたら申し訳ありません、でも、帰るところがないというのも近頃では珍しいことでもなくなりましたから……。もし、そうだったらということです。今夜は冷える。何もご遠慮なさらずに、どうぞ……」

 八雲老人は、テレビ塔を見ながら独り言を呟くように言った。

「この歳になるとどうもいけません。なにやら、決め付けて話してしまいますからね。お気を悪くされないように……」

 宮本には返す言葉は見つからなかった。

「もし、何かお悩みのことがあるようでしたら、少し、話してみませんか?聴聞屋、看板にあったでしょ。それが、私の仕事です。いいぇ、なに、お金のことは心配いりません。ヤオを構っていただいたお礼と思ってください。それにね、私とあなたの間にはこれまでになんの繋がりも関係もありませんから、お好きに話すことができる分気持ちも楽になるというものです。といっても中々、見ず知らずの人間にそうそう話などできるわけもないですな、ハハハ。まぁ、お気楽に、お気楽に……。ただ、一つ。ヤオもあなたを気にしているようですから」

すると浴室から、
「ヤァ〜」
という鳴き声が聞こえてきた。

「噂をすれば……、ですかな。少し、寛いでいてください。ヤオが風呂から出るようです。乾かしてやらんと風邪引きますから」

 そう言うと老人は浴室へと向っていった。

 一人部屋に残された宮本であったが、不思議と始めて訪れた部屋という気はしなかった。その部屋から生活の香りが感じられなかったかもしれないし、老人の飾りのない言葉の所為かもしれなかった。

 ただ、こうして一人、部屋の窓からイルミネーションを見ていると家族との少ない思い出が浮かんできた。

―今頃、どうしているだろう

 目を閉じると、妻や子供に対する様々な感覚が思い出されてきた、宮本にとって大切な二人であった。それは、こうして別れてからも変わってはいない。一緒にいた時の様々な出来事が思い出されたが、情景が絵のように浮かんでくるわけではなかった。小説によく書かれているように二人の表情が瞼に浮かぶわけではなく、ただ、その時の宮本の感情が思い出されるだけであった。

 ―人の想像は頭の中で絵を描くようなものではないのかもしれない―

 思い出というものは、自分の中にあった感情をどこかから引き出して今の感情に結びつけるということなのだろうと、昔を懐かしむ彼とは別の彼がどこかにいるようであった。思い出は、夢を見るのと同じように儚いものなのかもしれない。

 二人が笑っていると思いたい自分がいて、二人が笑っていると感じる自分がいる。頭の中でこうした繰り返しが行われる。起きている時は、思い出、寝ている時はそれが夢になるのだろう。


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