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作品名:死に逝く人 作者:宮本野熊

第4回   4
 彷徨い始めて一か月。彼は何から自由になったのか、何が彼の求めていた自由なのか未だにわからないでいる。

 三万四千円の現金と小銭。それにサウナの十枚つづりの回数券に招待券が五枚。鞄には一週間分の下着と何枚かの服。それが、家を出たばかりの、未だなんだか判然とはしない“自由”というものを手に入れた時の彼の持つ全てであった。身分を証明するものは全て捨ててしまった。免許証位は残しておけばよかったと後悔したが、もうそれも遅かった。今頃は焼却場で灰になっていることだろう。

 一人になったことを後悔していないと言えば嘘になる。ただ、これまで、妻に指摘されたこと以外に後ろめたいことなどは覚えはなかった。

―あのこと以外……。

 それは妻には許しがたいことであったとあの時直ぐに気付くべきであった。それでも、長い間我慢をし、笑いもしてきた彼女の寛容に何故、あの時素直に謝れなかったのかということが、一番の後悔に当たるのかもしれない。

―どこまでいっても自分勝手にしか考えられないんだな俺は……。

 サウナ券を一枚使い。束縛から解放されたその日、湯船に浸かり考えたことであった。

 あれから一ヶ月。彼の前には、ネオンで縁取られ点滅を繰り返すテレビ塔が立っていた。テレビ塔が、彼に語る言葉を持っているわけではない。誰に、見られても、見られていなくとも明滅を繰り返し、彼の座る場所から見上げると二本足で立っているその様子が人のようだとただ彼は思いたかっただけだったかもしれない。

―独り言を話しているんじゃない。あのテレビ塔に話しかけているんだ。
という言い訳のために―。

 地下道を歩く人波は、帰宅時間と共に喧騒を増してきた。吹き曝しのレンガの階段。冷たい風に晒される彼のいるこの場所を選んで通る人は、少なくなる季節であった。冷えた所為なのか、時々、右片腹に差すような痛みが走った。人目に付くことを避ける様に彼は腹を押さえながら階段の端に寄り、生垣のある段になったところへと頭を凭せ掛けた。そして、風に吹かれるまま、遠くに見える灯りを見つめながら時折何かを思い出すように微笑んでいた。

 その時、彼の左脇に何か動く気配を感じた。それが、何であっても関わり合いを持ちたくないという風に、彼の視線は相変わらず塔の灯りに向いていた。それでも小さな黒い塊が、視界の端で上下に動いていた。横目でちらっとその方を見ると、黒い猫であった。よく見るとまだ幼い黒い猫であった。猫は飼い猫であっても、あまり人に近寄って来ることの無い警戒心の強い動物である。それにも関わらず、その猫は自らゆっくりと間合いを計るように近づいてきた。彼は、動くことなくその仕草を見つめていた。足元まで来るとその猫は身体を、摺り寄せながら彼の左右の足の真ん中を行き来し始めた。首輪をしているところからすると飼い猫のようである。

「人懐こい猫だ……」
と彼は手を小さな頭に滑らせた。

「にゃ〜」
とその黒い子ネコは鳴きながらも嫌がる様子は見せなかった。その内、一瞬立ち止まったかと思うとトンッと彼の膝に飛び上がり再び、「にゃ〜」と鳴いた。

「寒いのか?お前……」
と言って頭を撫でると今度は、甘えるような泣き声で「ぃや〜」と鳴いた。

 座りながら、子ネコを膝に抱えると直ぐに体中が温かく感じられた。それまで感じていた腹痛も幾分和らいだようであった。子猫の体をよく見るとかすかに縦の縞が浮かんで見えた。

「お前、家から逃げ出してきたのか?俺と同じだ……」

 彼が両手で小さな頭を包み込むようにして風を遮ると、喉をゴロゴロと鳴らしながら、子ネコが彼の指を吸い始めた。

「お腹が空いているんだな。でも、ごめんな、食べるものは何も持ってないから、この指で我慢してくれよ」
と語る彼には構いなく、ネコはチューチューと音を立てながら指を無心に吸っていた。

 浮浪生活を始めて一か月、彼のポケットには、僅かであるが、お金が残っていた。三日前、日雇いの仕事で得た金であった。路上生活に、まだ、日は浅いがお金が必要な時、名古屋駅の裏の一角に早朝に行けば安いながら日銭を稼ぐことのできる場所があることを知っていた。連なる何台かのバンに乗り込むことができれば、少ないながらも金を稼ぐことができた。

 彼は、一心に指を吸い続ける見ず知らずの子ネコにその分け前を与えようかどうか迷っていた。そんな彼の気持ちが伝わる筈も無いが、子ネコは時折、「にゃ〜」とか「ぃや〜」とか繰り返しながら指を吸い続けていた。

「わかったよ」

 思案した挙句、彼は、こう言った。

「これも何かの縁かもな、大したモノは買えないけど。今日はご馳走してやるよ」

 そして、子ネコはまた、「にゃ〜」と鳴いた。


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