冬の夕暮れは闇と共に冷気を容赦なく運んでくるものだ。まだ、夕方六時になっていないにも拘らずネオンの向こうには夜空が広がっていた。電飾されたクリスマスツリーにロングコートを被せ、内側から見上げると丁度こんな感じになるのかもしれないと宮本は自分の想像に微笑んでいた。
宮本の視線の先には、テレビ塔の先端が空を突き刺すように立っている。セントラルパークと呼ばれる地下に広がる広場へと通じる煉瓦風なタイルの張られた階段に拾った新聞を敷き、その上に冷えてきた腰を庇いながら彼はぼんやりと座っていた。
「自由になりたい……」
妻と別れ家を離れる決意を伝えた時の事を再び思い出した。
「何を勝手なことを言ってるの、そんなの私だってそうなりたいわよ!」
怒りを露に吼えた妻の表情には、付き合い始めた時から数えると二十五年、これまでに見たことも無いほどに鬼気迫るものがあった。捕獲檻に閉じ込められた近所の野良猫が、歯を剥き出しに格子網を歯噛みし、口から血を流し、暴れながら唸り声を上げ威嚇する様子を見たことがあった。生まれたばかりの子犬を抱きかかえようとして、それまで従順だった母犬が牙を剥きだして、いきなり腕に噛みつかれたことがあった。その時の傷は、まだ消えてはいない。妻のこの時の表情は、実際に噛みつかれることはないものの彼には同じものを間近に見てようにも感じられた。
「我慢してきたのは、あなただけだと思っているの?」
妻は、積年の鬱憤をスズメバチを巣から追い立てるように言葉に代えて野熊に浴びせかけた。
「あなたが、付き合いだからって夜遅くなったり。タクシー代が勿体ないからって言って、サウナに泊まるって言って女と遊んでいたことわかっているのよ……」
思いがけず妻の口から出た言葉に、彼も、言った本人も暫くは毒針に刺されて失神したかのように押し黙ってしまった。これまで意識したことはなかったが、二十年前、結婚の記念にと妻の友人から贈られた掛け時計が秒針の音をコツコツと立てながら時を刻んでいることにこの時久しぶりに気が付いた。言葉もなく静まり返った部屋の中、コッコッコという秒針の刻む音だけが異様に大きく聞こえていた。暫くして、その刻む音がカチッという音に変わった。時計は六時丁度の時刻を指していた。
溜め息を洩らした後、妻が、口を開いた。
「憶えはあるでしょう」
野生の狐は、獲物を狙う時にはこういう目をして相手から反らすことはないのだろうと思われた。
「あなたは、いいわね。いろんな口実を作って、これまで楽しいこと一杯してきたんだから。私がどれだけ我慢してきたかわかって話しているの?『自由になりたい』って……。子供が熱を出した時も、学校の行事の時もあなた一度だって時間をとってくれたことあるの?もしかしたら、この人は、自分の子供が可愛くないのかって真剣に悩んだこともあったわよ。それでも、私が、我慢すればと思って、ここまでやってきたのに。よくそんな無責任な言葉が言えたモノね!『自由になりたい』だなんて。そんな風だから、会社からも都合よく追い出されるのよ!」
デスローリング。
彼は、ひと時の安らぎを求めて水辺で水を飲んでいる時、突然頭を喰いつかれ回転しながら水中へと引き込まれて行く鹿のように、妻の言葉に息もできないでいた。朦朧とした意識の中では生命の危機的状況から逃れようとしているのか、それとも力尽き為されるが儘にその身を委ねているのかさえも判然とはしなかった。
何も知らないと思っていた彼の妻はどのようにしてか全てを知っている様子であった。
そして、もう何年もそのことに触れずに食事や身の回りの世話をしてくれていたことに、申し訳なく、逆に妻の気持ちを何も知らず呆けていた彼自身が情けなく思われた。身体を巡る血がその流を止めてしまうような虚脱感とともに、妻と同じ部屋で息を吸っていることに対してさえ罪悪感を覚えた。
「ごめん……」
何故素直にそう言えなかったのだろうと、今では悔やまれる。替わりに出た言葉は―、彼には自分でも何故そんな言葉を口に出したのかさえわからなかった。
「知らん……。ただの、飲み屋の付き合いだって……」
「まだ、とぼけるつもりなの。名前もわかってるのよ……」
嗚咽の向こうで妻が呟いた名前は、はっきりとそれと聞き取ることが出来ないほどに震えていた。それでも、彼には妻が言おうとしていた名前の伝わるに十分であった。
どこまでかは、わからない。それでも妻は間違いなくことの成り行きを知っているに違いなかった。
「自由になりたい」と彼が口に出した時、わずかばかりの財産ではあるが、全てを妻に渡そうと決めていた。それでも、当面、自分自身の生活のために少しだけ融通してもらうつもりでいた。妻の告白を聞く前までは……。
「馬鹿らしっ」
そう言って立ち上がると妻は、キッチンの引き出しからいつの間にか用意していた離婚届を出してきた。条件は、全ての財産。
「あなたも親なら、責任と誠意を見せて。今、財布にある分も出せって言わないから」 と既に妻の印のついてある届けをテーブルの上に置いた。
「わかった」
その時、彼は他に言葉を持たなかった。そして、書類にサインをした。その手は、何故か震えていた。どういう形であったにしろ、すべては彼の望み通りになっていった。
「これまで、いろいろありがとう」
と妻に最後の言葉を残し、立ち上がると居間を出てドアを閉めた。
子供ももしかすると色々と聞かされていたのだろう、自室にいた子供部屋を覗くと、ため息が聞こえた。その様子から、この家には随分前から彼の居場所はなかったのかもしれないと改めて気付かされたように感じられた。家の玄関を出ても、振り向く気力も郷愁も感じることはなかった。
こうして彼は自由を手に入れた。
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