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作品名:おとことおんな 作者:宮本野熊

第5回   恥ずかしい?
恥ずかしい?

 ある日、昼近く外出をしようと家を出た。マンションのエレベーターには、上の階に住む奥さんが乗っていた。顔は知っているが、名前までは知らない。

 軽い会釈を挨拶代わりに、その後の会話などない。六階から一階まで降りる時間は十秒位のものだろう。短い時間でも、気持ちを伝えるには十分すぎるほどに箱の中の時も空間と同じように閉ざされているようであった。階下に降りてゆく数字を眺め、二人は言葉を使う替わりにどこか張り詰めた空気を見えない電波のようにしてお互いの意思を通じ合わせようとしていた。

「あの、いつもお綺麗ですね」
「そんな、……。でもありがとうございます。お世辞でも、嬉しいわ」
「お世辞だなんてとんでもない。ご主人が羨ましい」
「でも、ウチの人は、もう私になんか関心ないみたいで……」
「本当ですか、信じられない」
「もしよろしかったら、今度……」
「今度、何です?」
「今度、ウチでお茶でも如何…」

 昨夜のドラマの一節を二人は思い出していた。目を合わせることにも遠慮を感じた。

 すると、其処までよとでも知らせるかのように乾いたピンという音と共にエレベーターが止まり扉が開いた。まだ、三階であった。乗り込んできたのは、最近引っ越してきた初老の男性。彼もまた、会釈をしただけで会話はなかった。先の二人は、扉から少し後ずさりをし、初老の男性にスペースを空けた。別段、やましいことなど二人の男女には何もない。ただ、テレビドラマの見すぎでたまたま同じような想像をしていただけのことである。それでもどこか、密会の現場を見られたかのような後ろめたさを感じないではいられなかった。初老の男性も、エレベーターの中の溜まりのような空気を敏感に感じていたようであった。

 耳に心と書くと恥という字になる。心が形を表わし、耳が音を示す。耳には柔らかい感じがあり、恥は、心がひるむ、気が引けることを表わす。太古の人は耳に心の中身が表れることを知っていたのだろう。恥ずかしい思いをした時に、耳の赤くなる人は多いが目や口や鼻が赤くなる人はそうは居ない。耳はそれだけ気持ちを無意識に表現する器官なのだろう。

「んっん」

 老人が、喉に絡んだ何かを捻りだすように口を閉じながらに咳払いをした。二人の男女は、その時、目を合わせ同時に微笑んでいた。

 エレベーターの表示が一階を指した。扉が開くとひんやりとした外気が箱の中に流れ込んできた。三人の上に時が再び動き出した。

 エレベーターホールでは、先に下りた初老の男性を追い越さないよう気を使いながら二人はゆっくりと歩いていた。特に急ぐこともなかったからでもあったが、長く人生を歩んできた先達に対する敬意でもあった。

 そうしながら、二人はまた視線を交わしていた。意識をしたわけではなかった。

「さっきの話しですけど」
「はい……」
と男は躊躇しながらも「訪ねさせていただきます」と念じていた。

 誰も言葉を発することなく、事態は進行していった。すべては、昨夜のドラマの場面の通りになっていた。
 
 初老の男性が、オートロックの玄関に近づくと鍵が自動に回り、扉が開いた。

 昨夜のドラマでは、女が小声で「あっ、忘れ物」と呟いて誰にともなく会釈をして、元来たエレベーターに戻っていった。この時も、階上の奥さんはそう言うとエレベーターへと引き換えしていった。
 初老の男性は、そんなことに構うことなくゆっくりと外出に向う。男は、扉の外に出たところで立ち止まり戻ろうかどうか思案をする。ドラマでは男は携帯を取り出し、どこにもかけてはいない電話に向って「わかった」と言って引き返すのである。そして、自分の部屋には戻らずに女のところを訊ねるという筋書き。
 ところが、ここでは、外出していった筈の初老の男性が踵を返し、こちらを見ていた。男は握りかけた携帯をポケットにしまい込んだ。
 初老の男性は、ニヤリとして再びどこかへと歩き出していた。この初老の男性も、昨夜のドラマを見たに違いなかった。
 
 男は、自分でもはっきりとわかるくらいに耳の赤くなっていることを感じた。
 
 女は、いつまで経っても降りて来そうになかった。

 ―彼女は、待っているのだろうか

 初老の男性が見えなくなることを確認した後、エレベーターに向うと、開いた扉から彼女が降りてきた。目が合うと彼女の耳も見る見る赤みを帯び始めてきていた。
 
 そして、……。二人は会釈をした。女は、外へ向かって歩いて行った。男は、用事もないのにエレベーターへと向かった。男が、エレベーターへ乗り込み、ドアが閉まろうとした時、エントランスの自動ドアの向こうにニヤリと笑みを浮かべた老人の姿が見えた。
 男は誰もいないエレベータの中、虚しい恥ずかしさに苦笑いを零した。


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