ふと空を見上げた。
―祖母の魂は、存在しているのだろうか?
―どこかで、自分の生活を見ているのだろうか?
―こうして昼間に墓地のベンチに座っている自分の不甲斐なさを目の当たりにして怒っているのだろうか、呆れているのだろうか?
そう言えば人は死んだら誰でも神様になるんだと祖母から聞いたことがある。そんな祖母はどんな神様になったのだろう。
「辛抱しないや」と丹波訛りで口癖のように言っていた祖母。
辛抱神とでも言うところなのだろうか。
明治四十四年に生まれ、九十九歳でこの世を去るまで、ずっと辛抱し続けてきたのだろう。辛抱を続ければ些細なことにも幸せを感じることができるのだろうか。小さな、それでいて綺麗な目をして、いつも笑っている皺くちゃな顔が印象的な人だった。小学生の私に字の書けることを頭がくしゃくしゃになる位になでながら、涙を流しながら褒めてくれた。そのやさしかった顔が少し悲しく思い出される。 そんな祖母の人生を私は殆んど知らない。今となっては、聞いてみたくもある。これまでは、興味すらもつことも無かったのに。
大理石の上の煙草の火が消えた。
ほんのたまにしか煙草を吸うことのなかった祖母であった。おそらく年に三本も吸うこともなかっただろう。いつだったか、私が煙草を吸い始めたとき、「一本おくれ〜な」と言ってうまそうに煙草をすった祖母を見た。その時が、初めて祖母の煙草を吸ったのを見た時であった。
「うまい?」と聞くと。
「苦いけどうまい。お前に貰ったから余計にうまい」と言った時の顔はやはり笑顔であった。
「けどな、あんまり吸いすぎるなよ。なぁ〜あ」
一口二口吸って火を消した。その煙草をティッシュに包んで着物の懐に大事そうにしまっていた。
「もったいないでな、後からまた吸うんだわ」
入れ歯の入っていない、口元からはまだ抜けていない二本の歯が笑みの横からこぼれていた。年寄りなのに、まだ歯の生え換わったばかりの幼子のような無垢な笑顔がどこか可愛さを感じさせた。
池の端で誰にも遠慮せずに吸う煙草に、旨さを感じた。もう一本火を点けるついでに、祖母の分も火をつけ大理石の上に置いた。
晩秋の陽にしては、初夏の光線のような温かさが心地よかった。 そんな陽気に誘われてなのか、人気の少ないはずの墓山の端にある池の周りの大きな石のベンチは、意外にもぽつぽつと人の腰で埋められていった。
私の前を杖をついた白髪の老人が会釈をして通り過ぎ、「あぁ〜」っとまるで風呂にでも入るような声を出しベンチの端に座った。
別段声を掛ける理由もなく私は、煙草を吸いながら池面を見つめていただけだった。 どこからか、また、老夫婦が手を繋ぎながら歩いてきた。そして、私と白髪の老人の間に会釈をしながら「ふぅ〜」と声を上げながら腰を降ろした。
二人は、おそらく奥さんの手編みであろう地味なお揃いの毛糸の帽子を被っていた。 また、どこからか飛んできた合鴨が池に流線を立てながら降りてきた。
「鴨が飛んできた。御苦労ですね〜」 毛糸の帽子を被った夫が誰にでもなく呟いた。
「御苦労ですね」 杖の老人がその声に応えた。
歳をとると会話の切っ掛けなどどうでもよいのだろう、合鴨を切っ掛けに一人と一組は世間話を始めた。私は、その話を聞くでもなく相槌を打つでもなく煙草の煙の行方をただ追っていた。
「辛抱して飛んで、飛んで、ここまでやって来たんですね」 毛糸帽の夫人が呟いた。
「幸せですね〜」とまた囁いた。
「幸せですな〜」と杖の老人。
「ここまで生きて来られたんですから。きっと幸せでしょう。 本当にご苦労様なことです」と毛糸帽の老人が目を細める。
一つのベンチに腰掛ける四人。黙していることが、憚られる雰囲気に私も年若の形(ナリ)で、吸っていた煙草の火を灰皿に消しながら聞いてみたいことを聞いてみた。
「幸せなのですかね〜」
誰に訊ねたというわけではない。私が口を開くのを待っていたように杖の老人が微笑みを浮かべながら話すのを、隣で婦人が頷きながら聞いている。
「ここまで生きてこられたのですから、幸せなのでしょう。鳥は飛ぶことが仕事、飛んで子孫を残して、息をして、そして、食べる。水面を泳ぎながら旅の疲れを癒す。鳥の心は、わかりませんが幸せなのでしょうな〜」
杖の老人が、毛糸の夫婦を跨いで私を覗き込みながら話しかけてきた。それまで誰にともなく其々が思うままに話していた時とは違い、見知らぬはずの四人に繋がりが生まれたようであった。
「生きる幸せは、鴨達にもわかるでしょうが、死んでからも幸せを感じることができるのは人として生まれることができたからなのでしょう。あの鴨も幸せなのでしょうが、私たちは、もっと幸せなのでしょうな」
連れ合いの手の代わりに、私の手をポンと叩き毛糸帽の老人は微笑んだ。
「若い頃は、こうしてお墓を訪れることにどんな意味があるのかもわかりませんでしたね。でも、生きていたことを少しでも思い出してもらうことがどんなにか幸せなことなのかをやっとわかるようになってきましたの」
そう話しながらも、やはり、毛糸の夫人は微笑んでいた。
「苦労もしましたが、やはり、それも辛抱。昔の人はよく辛抱しなさい!と言われたものです。なんの為の辛抱なのかと恨みもしましたが、辛抱の後には笑うこともできた。それだけでいいんです、生きるということは」
その表情は、まるで、祖母の優しい目、そのままに見えた。
「あの方は、幸せでしょうな。辛抱した甲斐があったのでしょう」
私の手をまた、ポンと叩く老人の手はどこか温かく感じた。
「私は先に逝って何もしてやれなかったが、そう思います。子供にも孫にも恵まれて、いつまでも心に生きている。それが、人の一番の幸せかもしれません。私も、良い人に巡り合うことができたと思っています」
杖の老人は、毛糸帽の夫婦に語りかけた。
それまでを恐らく知るはずのない一人と一組の間には、お互いの何者かを知っているかのような会話があった。
「こっちへおいで」
杖の老人が合鴨に向かって叫ぶと一羽の地味な羽をした鴨が私たちの方に向って飛んできた。
すると毛糸の夫婦が、ゆっくりと立ち上がり杖の老人に会釈をし、私にも笑みを投げかけた。
「辛抱なさいね。あなたは、まだ少し先があるようだから。もし、ご縁があったらまたお会いしましょうね。それでは」
そう言うと二人は池に沿った墓参道へと歩いて行った。私は、軽く会釈をした。その目を鴨に落とした瞬間に二人が歩いて行った方には、もうその姿を見つけることが出来なかった。そこから遠くに見える墓が風に揺れたように見えた。
「ありがとう」
二人に、そして、飛んできた鴨に向かって杖の老人が呟いたように聞こえた。 鴨がちょこんとベンチに飛び乗ると老人は、その頭を愛情溢れるように撫でていた。寄り添うように鴨はその体を老人に預けるような仕草を見た。
「僕も触っていいですか?」
私がそう尋ねると杖の老人は、笑みで答えてくれた。
私が、その羽を撫でると田舎から遊びに来た時の祖母にあった線香混じりの香りがした。鴨が逃げるでもなくその顔を私に向けたとき懐かしい小さな目の顔を皺でくしゃくしゃにして笑っている祖母の顔を見ているような気がした。
「ありがとう」
もう一度杖の老人がささやくと鴨は力強く飛び立っていった。その地味な姿に反して、夕陽に映し出される羽ばたきは、金色に美しく輝いているように見えた。まるで、天国へ吸い込まれるようにすぅっと空に消えていった。
「おばあちゃん……」
私が思わず口に出すと杖の老人が私の名前を呼んだ気がした。
えっ。と思った瞬間。
「辛抱しないや」
と力強い杖の老人の声がした。
羽ばたき、遠くへ飛んでいく鴨の様子を追った目をベンチの杖の老人の座っていたところへ向けると、杖の老人の姿がベンチから、靄が少しずつ晴れるように消えようとしていた。その表情には、柔らかな微笑がいつまでも湛えられていた。
私の傍らにある大理石の灰皿にはまだ、煙草が煙を燻らしていた。その香りは、心なしか甘い香りがしていた。祖母の懐の香りがした。
「ありがとう」
杖の老人の声の気配を感じた。
「ありがとう・・・おじいちゃん、おばあちゃん」
私は、煙の行方を追いながら呟いた。
今頃、どこかの空の下二人は仲良く暮らしているのだろう……。
ここにはいない二人だけど、会いたいと思っても会うことはできないかもしれないけど、
「元気にしてるかな」
これからは時々そう思うことにしようと思った。
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