煙の向こうに 何の因果か、この世に生を受け、いつの間にか四十年の歳月が流れていた。何をしたでもなく、何もすることがなくただただ命という殻に閉じ籠り年月を食んできた。 その延長線上にある今日も、また、何もすることがなく、と言うより、何もやる気が起こらず人の気配を避けるようにしてさ迷った末にここに辿り着いた。墓地。そこに縁者が埋葬されているわけではない。墓参りなどと言う殊勝な思いをもっている訳でもない。仕事に出掛ける振りをして、家を出、打ち合わせに行く振りをして会社を出る、何にしても疲れることばかりである。その疲れの元となる、自分を繕って見せなければならない人というものから遠ざかりたかった。そう思い、この墓地に今、自分はいる。 なぜ墓なのか、自分でもわからない。意識してこの場所を選んだわけではない。いつも何気なく通る道に当然のように石の群れが並んでいる風景が見えていた。自由が丘と言う名の霊園。全国に同じ名前の霊園は数多くあるに違いない。死と言うものは、体から何かが解き放たれて自由になることを意味するのだろうか。もしくは、自由になりたいという願望の表れがこの名前をあちこちに散らす理由なのだろうか。そこは、いくつの山がこの終の棲家のために削られたのか知れない程の広い敷地。この中にただ、生きたという証を遺すために墓石が並んでいる。
何故、今、墓なのかなどという問いなど、どうでもよいことである。それは、あなたは、何故生きているのか?という問いに答えるよりも難しく感じる。人の行動などというものには、完結した結果からしか確たる理由をこじつけることができない。今はただ、ここに来たというだけのこと。どこでもよかった、人がいないところであればどこでもよかったのである。
立ち並ぶ墓石を見ていると「どれ程多くの人がここに葬られたのだろうか?」とつまらない考えが頭に浮かんで消えた。
人がいないだろうと思って来てみたのだが、不思議と足の気配が止まらない程度に花を手向けに、供え物を手向けにぽつぽつと人々が訪れている。
何も言わずに目を合わせないようにすれ違う人、すれ違い際までは知らぬ顔でやって来て目の前に来た時に軽く会釈をする人、「ご苦労様です」と声をかけてすれ違う人。人の在り様も生と死の間にあるこの場所でさえ様々な気がする。
死んでからも尚、様々な人生というか魂性というものがあるのだろうかと、また、つまらないことを考えてしまった。
人のそして、墓の表情を見ながらやはりあてもなく墓参を装いながら尚、ブラブラとして見る。小高い山の上の方には、やや大きめの墓地があるようだ。なにやら大そうな造りをしているのが、麓からでも感じ取れる位である。
と言って、墓山の上まで登る気にもならず、なんとなく、山裾を這うように細い墓参道のあるままに歩いていった。するとまだ、削られてはいない山肌の竹林の少し残っている脇に小さな池が見えてきた。その池の周りには、おそらくそこで休息を取ることも憚れる程に場違いで立派で丈夫な石造りのベンチが三台置かれてあった。まるで高級ホテルのロビーに置かれてある大理石の長椅子である。池の先、三つ目のベンチの向こうで道が無くなっておりもうそれ以上進むことはできない。今来た道をこのまま引き返すのも疲れたので、私以前にいつ誰が座ったであろうかさえ分からないベンチに腰を降ろすことにした。余り人が座らないであろう筈の野ざらしの立派なベンチには、少しの汚れさえ見当たらないことが不思議であった。墓山の管理をしている人が、いつも磨いているのであろうか。
ベンチの脇には、また、石造りの灰皿が調度良い高さで置かれていた。なんとなく灰皿に誘われるようにタバコをポケットから取り出し火を点けた。近頃では、どこでも吸って良いわけではなくなっていることもあり、この灰皿はありがたく感じた。
火を灯した、タバコから燻られる煙が場所柄、弔いの線香から出ているようで、「この煙は誰のため?」などと自問している自分がいた。
ベンチに座って今来た道を振り返ってみると思ったより墓山が小さく見えた。その小さな山には相変わらず石が密集している。小さな山にある、小さな墓石が、余計に自分の小さなところと重なって見えてきた。「ふっ」とため息にも微笑にもならない意味のない息が口から漏れてきた。目の前に広がる墓山のところどころには日の光を受け光っている石が目に映る。生前の威容を死んでまで誇示しているのだろうかと俗世的な発想さえ浮かんでしまう。つい最近亡くなった祖母がどこかで聞いていたら「バチがあたるよ」と言われそうに感じて恐縮した。
祖母のことを思い出した。
通夜には行ったが、仕事の都合がつかず葬儀には出ることはなかった。遠方にあるため、祖母の死後半年経つがまだ墓にも参ってはいない。いつまで経っても、幾つになっても孝行のできない孫である。
病気になって、もう後どれ位ももたないと聞いて、親類の皆が見舞いに行ったらしいが、最後まで行くことはなかった。祖母にとって誰が一番大切な存在なのか、そんなことはわからないし、どうでもいいことのはずだったが、私は祖母からは自分が一番可愛がられているハズであると信じていた。「その自分が行けば祖母の逝くのが早くなる」そう思いついに見舞いにも行くことはなかった。
「もうだめかもしれない」そう聞かされてから、1年以上。ふと一度見舞いに行ってみるかと思い立ったとき、田舎から知らせが来た。「祖母が息を引き取った」と。
いったいどれだけの記憶と思考と言い訳とが自分の頭の中に詰まっているのだろうかと思う程に脳に血が巡り血管を圧迫しているように感じるのは、自分が歳を取ったせいなのだろうか。一瞬間に頭を巡る様々なイメージに対してさえ生気(エネルギー)が使われているのだと言う感覚を感じることができた。
「祖母が亡くなった」のである。自分の意識の中では、そうではなくても、やはり「祖母は亡くなってしまった」のであった。いくら信じたくはなくても、自分の目の前で起こった出来事ではなくても、その事実を確認した伯父から連絡があったからには、祖母のこの世の中での存在は無くなってしまったのである。
通夜の最中、祖母から聞いた色々な話を思い出した。
その祖母との思い出が、頭に浮かんでくる。誰もが、そのような経験をするのであろうか?
また、祖母を取り巻いていた人たちの顔が浮かんでくる。直接、祖母との思い出にあるわけではない人たちの顔や、情景が浮かんでくる。そんなことを考えているわけではないのにもかかわらず。祖母と過ごした日々を思い出そうとすればするほどに、そうした人々の顔が浮かんできた。そして、最後に「かわいそうに、さびしい思いをしてるんじゃな」という声が響いてきた。
訳もわからないうちに、神仏に手を合わせる自分がいた。寺社へのお参りがいつの間にか苦にならない自分がいた。部活の最中に骨折をし、その自分の看病のため祖母が田舎から出てきてくれた時、母がふと祖母に言った「この子は、まだ高校生なのにお寺ばかり行っているの……」
そう聞いた時、祖母は自分の期待していた「若いのにえらいね〜」という言葉とは違って、「かわいそうに……」と優しい目をして頭を撫でてくれた。自分でもわからなかったお参りという意味が、祖母の一言で、ただ寂しかったからだったのだと教えられた。理解されない自分を人の代わりに神仏に託したかっただけだったのだと気付かされた。
いつも一緒にいたわけでもなかった祖母、見透かされた心。
誰にも、自分の本心が言えず。誰とも、本当のことを話すことができず。誰も、心の底から信用できず。そのことさえも、自分自身で分からず、分かろうともせず、言い訳の中に生きている自分を認めようとせず。ただ、善行と誰からもみなされるお参りと言う行為の中に逃げ込んでいた自分がいた。
そして、そのことを認めることができたのが、「かわいそうに寂しいんじゃな」という祖母の言葉を聞いてから何十年か過ぎて、その言葉を私に言った祖母がいなくなってしまってからのことであった。もっと色々聞かせてくれればよかったのに、もっと色々聞いておけばよかったと今更でのことである。
夏が過ぎ、秋も終わりに近づいてくる季節。雑草を静かに揺らす風にも肌寒さを感じるようなってきた。懺悔の月日にせめてもの供養にと新しい煙草に火を点け、大理石の灰皿に線香のように立ててみた。胸元で小さく手を合わせる。
「おばあちゃんは、俺にどんな風に生きてもらいたい?」 手を合わせながら般若心経の代わりに呟いた。
子どもが、生まれると言う経験は私にもある。看護婦さんから生まれたばかりの我が子を産着に包まれた子を見せられた時、何故だか涙が出てきたことを憶えている。とても嬉しかった。ただ、その子を我が手に抱くことが躊躇われてしまったことも事実である。その時私の中には、「この子はいったいどんな人生をこれから歩むのだろうか?」という疑問が湧き上がった。一人の小さな、目の前にある、ただ、泣く事しかできない命の先にある誰にも分からない運命の大きさに恐縮してしまったのである。小さな身体に、とても大きな、そして、重たい責任を感じたのであった。私には、その子の頬っぺを指先で撫でてあげることが精一杯の感謝と愛情の印しであった。
その時、私には、この子にどんな風に生きてもらいたいなどと言う感情は、起こらなかった。ただ、丈夫で健やかに生きていってくれさえすればそれでいいと月並みに思ったのである。
素直にそう感じていたことは、間違いのないことであるが、実際、生きると言うことには、それだけでは済まされない業が伴うのも、また、事実。生きると言うことを悲観しての事ではないが、世の中には人も羨む程に運の良い悪人もいる。人から、忌みそしられながら生きている善人もいる。どんな風に生きたらよいのか分からないのが、人の世の常。四十年間も生きているのに今だにどんな風に生きたら良いのかすら分からないのである。
究極の選択。
人から、誹られようが、社会的な悪であろうが、不自由のない生活を送れるような人になるのが、親として、先達としての願いなのか、生活は窮乏しようともあくまで善とされる行いに身を費やし、生きていくことを望むのか。それすら分からない。
生きるということを強いられている、当の本人ですら分からない。
それを今、この世の人ではなくなった祖母に聞いてみたかったのである。
今の世の中、というより、今の自分にとって、運の善し悪しは、小さな話ではあるが、金のあるなしという物理的な事実によって拘束されている。なんだかつまらない生き方をしている。
祖母は、いったいこんな自分にどんな風に生きてもらいたいと思っていたのだろう。
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