その日、池の掃除を済ますと正吉は部屋に戻って考え込んでいた。自分の付き合う相手をランチュウのように選別に掛けられるとは思っても見なかったからだ。“金魚相手ならいざ知らず、人間をである“と考えながらも、”そう思うのは、人のエゴというものだろうか“と十四代も続く金魚屋の跡取りとしては考えてもしまう。
ランチュウの良魚と呼ばれる選別は、肉瘤の出来、尾の開き、背中、色、模様、泳ぎの癖等々様々なポイントがある。いい魚体は掛け合わせだけでも、そうそう作れるものではない。何十年かかっても、満足のいく姿に仕上ることは難しいと言われている。鱗堂家は四百年続く家柄だけに、他のどの金魚屋よりもいい種を育ててきた。あの舟のヌシのように門外不出の種もいる。それこそ、生まれたばかりの針子と呼ばれる稚魚一匹にさえ何万という値がつくことすら珍しくはない。それもいい種魚を選別し、血が濃くならないよう血統に注意し、先祖代々計画的に魚体作りをしてきた賜物である。それだけに、選別、交配に関するルールには厳しいものがあった。極意は一子相伝であるが、一般的な種魚を使い他の地方の品評会の横綱を取るまでその真髄が教えられることはない。それ程ランチュウ道は奥深いものだということを正吉も小さい頃から仕込まれて知っていた。
しかし、まさか、その選別と言う思想が自分の恋愛の相手にまで及ぶとは正吉はこれまで夢にも思ってはいなかった。それでも、そこは鱗堂家の嫡男だからなのか、そんなルールに反抗し、抵抗を覚えるより先に、人の生き方もランチュウも同じなんだとどこか納得していた。それよりも、どんな選考基準があるのかと言うことの方が正吉には気になり始めていた。
彼は、常々、父が言っていた言葉を一々思い出していた。
―ランチュウをたかが金魚だと蔑むな…… から始まり、 ―ランチュウには格がある、形、色、泳ぎだけではない。 ―環境、育て方によって、温厚なものもいれば、粗野なものも、優しいものも、卑しいものもいる。生後環境によって、創られる性格もあれば…… ―それにな、遺伝によるものだけなのかどうか定かではないが、例え金魚といえども人とおなじように気品というか、性質に品格というものもあるものなんだ。
そして、さっき舟のところで聞いた
『……、人のランチュウと一つ違うことは人間は出来の良し悪しで金魚のようには選別して流されはしないということだけだ。人が生きているだけで幸せと感じなければならないのは、そういうことがあるからだ』 という言葉も思い出していた。
その時、父は、彼を諭すように静かな声でこうも言っていた。
『命の大きい小さいで、その価値など量ることは出来ない。それこそ一匹の虫にだって命もあれば、品格も備えられているというものだ。人の慢心からだろう、たかが虫と思うことも在ろうが、実際には、虫にも劣る品格のない人がどれ程多いことか。悲しいことだがそれが現実だ。鱗堂家はな、そういったことをランチュウの飼育を通じて代々学んでいるのだ。だからこそ、この家の一員になるためには、選別をしなければならないんだ。』
それは、初めて、見るのかもしれない父の重々しい表情であった。
『駄金にも命、駄人にも命、どちらもこの世に縁あって生を受けたことには変わりない。それをこの家は金魚達の命を通じて学ばせてもらってきたんだ。この家にはな、不条理で不合理に思うことも沢山在るには違いない、だがな、高々何十年しか生きてはこなかった人生より、四百年間“命”と懸命に向き合ってきたご先祖の見識を越えることは出来ないとこの歳になって漸く思うことが出来るようになった。己、一つの命なんていうものはどこまで行ってもたかが知れたもんだ。つらいこともあるかもしれんが、お前も我慢しなければならない時が近づいて来たんだろう。遊ぶのはいくら遊んでもいい、だがな、お前の遺伝子を残すことは、優れた魚系を遺すことに繋がっていることを忘れるな……』
回りくどくて解りにくい言葉ではあったが、彼女を披露するということに対して、相当な覚悟をもってしなければならないことだけはどうにか理解できた。
「……、連れてきた彼女は、選別に掛けられるってことだよね。」 と問いかけた言葉に、父は 「心配するな。お前が本当に必要とする人(女性)は、例えどんなことがあろうとも何かが繋がっているもんだ。お前の感情ではまだ、理解できないかもしれないが、伴侶とはそうしたものだ」 と池の水面を見ながら、どこか懐かしそうに答えた。その姿は、妙に哀愁が漂い、十四代目という重圧の掛かった父の人生の中で、鱗堂の家から心が僅かに離れた一瞬を垣間見たようでもあった。
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