彼には目の前で泳ぐランチュウがランチュウには見えていなかった。
すべて美しいと思われるものは、佳代の姿に重なって見えていた。異性に対して好きという気持ちを抱いたことはこれまでに何度かあった。告白をしたこともあった。まだ、幼かった所為かその時は、相手に自分の気持ちを伝えただけで満足感を抱くことができ、その先どうすることも、どうなることもなかった。それ以降、正吉は恋愛らしきものには縁がなくこの歳まで来ていた。彼のこれまでに見てきた鱗堂の家からすると、付き合うと言う意味は結婚を前提としか考えられなかったからでもあった。
「おい、聞いているのか……」 と彼は父から諌められ、ハッと我に返った。
「どうした、ぼうっとして。具合でも悪いのか」
「……、そうじゃないんだ」 と答えたところで、ごまかしを交え、ふと思ったことを口に出し、父に訊ねた。
「ねぇ、父さん。父さんはどうして母さんと結婚したの」
「どうした、急に……」
「どうもしないけど」
「けど、なんだ。……そうか、お前もそろそろ色気付く年頃か。言わば交配の時期が来たってことだな。ははは……。そうか、で、誰か好きな女でもいるのか」
「そういうわけじゃ、ないけど……」
「隠すな、お前の考えていることはちゃんとわかる。考え方もまた遺伝するからな。そうか、もうそういう年齢になったのか……。そういえば、俺もお前のように先代に聞いたことがあった。ちょうど、お前の歳と同じだったかもしれん」
「……」
「そうそう、俺が先代に同しように聞いた時に言われたことがあった」
父は、そう言うと改めて視線を息子に向けた。
「……なんか聞きにくいな……。先代はどうしてあんなにさらっと言えたのかな……」
「なに、父さん」
「なにって、そう改まって聞かれるとますます言いにくくなるな……」
なにを言おうとしているのか、十四代目はいつになく口が重い。普段から口数の多くはない父であったが、その時は、指先を池の縁に水面を揺らしながら、何か躊躇している様子であった。子供のようにする父の様子に、正吉はどこかむずがゆい妙な可笑しさを感じた。そして、しばらく無言で舟に泳ぐランチュウを二人して眺める事になった。 その舟にはランチュウが一匹だけ飼われている。舟というのは、大きな金魚鉢、小さな池のようなもので今ではFRPで作られたものが主流になっている。ランチュウも二人の姿を水の中から見ているのだろう、何か話しかけるように口をパクパクさせていた。何事かを話した様子の後、ゆっくりと方向を変え尾ひれをヒラヒラさせながら二人の前から泳ぎ去って行った。すると父が金魚に説得されたように何かを決心し口を開いた。
「ええぃ、わかったわかった」
それは、先のランチュウに向けて話した言葉であった。この家ではこうした光景はよくあることで一人前になると金魚が話しかける声が聞こえると信じられていた。そう認められると代を継ぐ準備が始まるのである。この頃、正吉には一向にランチュウの声は聞こえてはいなかった。『もし、一生声が聞こえなかったらどうなるのだろう』という不安を感じないでもないが、どう考えてもランチュウの言葉など聞こえる筈はないとしか思われない。この時もそうであった。彼はただ、父の次の言葉を待つしかなかった。
「正吉、あのな……」
「なに、父さん」
「お前、もう女を知っているのか?……違った。その子ともう寝たのか」
それは父からの唐突な質問であった。
「えっ……」
父も正吉の顔をまじまじと見つめていた。すると照れ笑いと共に言葉を継いだ。
「そりゃ、えっ、しか言葉はないはな。俺が先代に聞かれた時も同じだった」
「……」
これは答えなければならない質問なのだろうか、それとも黙ってやり過ごすべきなのだろうかと正吉は考えていた。こうしたことは、隠すことでもなければ、公表すべきことでもない。もちろん、実際はそれどころかまだ、彼女の手にも触ったこともなかった正吉は黙ったまま視線を舟に向けていた。その時、もう十年近くその舟のヌシ的存在のひと際大きなランチュウがさわさわと正吉の方へ向かって泳いで来た。
んっと思った時、正吉はその金魚と目が合った。
ランチュウはなにやら、不敵に微笑んで父と同じように「どうなの」と語りかけてくるようであった。
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