それ以来、時々、佳代が家に遊びに来るようになっていた。雅さんの店や、有紀さんの店にも正吉と一緒に飲みに行くようにもなった。佳代は、他のところへ行くことを拒むようにもしていた。
「正ちゃんが、変なこと考えないようにって……。雅さんも、有紀さんも女として大切なものをちゃんと守りなさいって言ってくれたから、二人の所だったら安心でしょ……」
こうして正吉は、やんわりと監視をされるように佳代との交際を始めるようになった。
手を握ることはあっても、それ以上進むことはなかった。
根が真面目な正吉は、時折、突き上げるような自然の感情に襲われることもあったが、佳代のことを大切にするということはこういうことを我慢することなのかと思い無意識に身体の底から反応してくる血に耐える日々を送っていた。
そんな毎日を送っていた正吉であったが、二月も終わりになって、ランチュウを冬眠から起こす時期が来ていた。まだ、水温も上昇しているという時期ではないため暖炉を使って徐々に室温を上げ、自然に水温も上昇させなければならない。これは、年末の品評会に向けて必要なことでもあった。品評会までにランチュウに十五センチ以上の魚体を造るには、この時期に交配をさせなければならなかったからだ。孵化の時には針先のように細く三ミリほどの稚魚を約八ヵ月かけてそこまでの大きさに仕上げるためだった。正吉の儀式が行われる金魚部屋では、ヒーターが使えないため、室温、水温の緩慢を一定に保つよう昼夜を問わず暖炉の火を保たなければならない。そうなると、正吉はその部屋に籠もらなければならなくなった。
佳代はそんな正吉に会いに毎日、鱗堂に来るようになっていた。為吉の許しもあって、部屋に入って正吉の手伝いをするようにもなっていた。部屋に入ると正吉がするように神棚に手を合わせる佳代の姿を見て、正吉の中には、恋愛以上の感情が芽生え始めていた。恋愛という感情は、失うことの不安、相手の見えないことに対する不安といつも戦うことにあると雅さんや有紀さんから聞かされたことを思い出していた。そういう恋愛は、男のエゴ、征服欲の表れと諌められたこともあった。男も女も相手の気を引く為に、色々な手を使うことがあるが、それでは本当の愛情は生まれない。ましてや、身体を結ぶことで相手を自分のモノとするなんてお互いを慈しむなんていう気持ちは生まれないと言われた。
「本当の愛ってなんだろう……」
と正吉が聞いたとき、雅さんは、
「本当なんていうものはないって思った方が、いいんじゃないかしら。離れていても、相手が見えなくても不安を感じない存在、相手の大切にしているものを同じように大切に思うことの出来る。そう思うことができる相手と巡りあえたら幸せね……」
佳代が、この話を聞いたことがあるのかどうかはわからないが、例え、聞いていたとしてもいなかったとしても、こうして甲斐甲斐しく仕事を手伝ってくれる佳代の姿を見て、神棚に手を合わせている姿を見てこの人しかいないと正吉は思うようになっていた。
番いの金魚を一緒のタタキ池に入れてから約一ヵ月、産卵はまだ行われてはいなかった。三月の初めになって、夕方から大雨が降り、雷が鳴り出した。
「春雷か……。どうだ池の方は」 と為吉が訊ねた。
「まだ、産卵は始まらない。今年は、駄目かな……」 と正吉が言うと、佳代は横に立って淋しそうな顔をしていた。
「大丈夫だろ、二人で一生懸命世話してるんだから、今日あたりかもしれないぞ。春の雷は命を芽吹くというからな。部屋を明るくして、新水に替えて暫く待ってみてみろ……。しまった、余計なアドバイスをしちゃったな。まぁ、いいか、佳代ちゃんの悲しい顔は見たくないもんな。正吉、大切な女の子を悲しませるようなこと言うな。全ては天命だ。愚痴を言わず、言い訳をせず、ただ、やるべきことを一生懸命に心を込めてだ。いいな……」
父は、そう言うと出掛けていった。
「正ちゃん、お父さんに言われたようにやってみよ」 という佳代の言葉に引っ張られるようにして、二人で部屋に戻って、父に言われたように池の水を新水に入れ替えランチュウに刺激を与えるようにした。水に慣れるまで暫くじっとしていた二匹だったが、遠くの方で一際大きな雷が轟いた。音の振動でかすかに水面が揺れるほどであった。佳代も驚いて、思わず正吉の腕にしがみ付いていた。
その時、池の中の二匹に変化が現れ出した。
二匹が寄り添うように泳ぎ始めたのである。
普通、ランチュウの繁殖行動は、雄が雌を産卵巣に追うようにして池の中を泳ぎ回る。追い行動である。しかし、この二匹は、追い追われるというよりも身体をこすり合わせるようにして池の中を泳いでいる。お互いの気持ちを確かめるように、寄り添いながら泳ぎ、時折雄が身体を小刻みに動かしている。雌はその横でゆったりと泳いでいる。時計とは逆周りに池の中をクルクルと回りながら何周も何周も身体を擦り、また、時には離れながら泳いでいる。上気と言う言葉が金魚に当てはまるものかどうかはわからないが、幾分、朱の身体の色が濃くなったようにも見える。薪とろうそくの明かりに照らされている所為かもしれなかったが、声の無いランチュウの愛の旋律、語らいを伝えるように水面も柔らかに揺れていた。
雄が小刻みに身を震わせる度に、水面を走る波の輪が重なる様子を正吉も佳代も無言で見入っていた。
どれくらい、そうした行動が続いたのだろうか、雌が雄に誘われるように産卵藻へと近づいていった。すると雄が、雌の背後に回り生殖器を刺激し始めた。産卵藻の上で、二匹は小さく円を描くようにクルクルと回っていた。ランチュウのこの行為は、産卵、繁殖という言葉を超えた人に似た愛を表現する行為のようにも思われた。佳代は、その二匹を見ながら正吉の腕を握る手に思わず力が入ることを感じていた。何回かそうして回った後、雄が雌の横に並びこれまで以上に激しく小刻みに震えると二匹が水面に向って口を開け叫ぶような仕草を見せた。それから、また、藻の上を回り、そして寄り添い、天に向って叫びを繰り返した。これまでランチュウの産卵は毎年のように経験している正吉であったが、実際に目の前で産卵・受精の瞬間を見たことは無かった。大抵、明け方に行われる為、藻に残された卵を見るだけであったのだ。
産卵直後の卵は、藻から湧き出た気泡のように透き通っていた。
愛の結晶は無垢であるかのように教えているようであった。
正吉は、安堵の気持ちから笑みを零した。佳代も正吉を見上げ微笑んでいた。そして、求め合うというよりも、自然に惹かれるようにして唇を重ねた。どうして、そうなるのか、二人にもわからなかったが、何も誰にも教えられずに産卵を行ったランチュウのように自然に二人は始めてお互いの身体に眠っていた本能を目覚めさせたのであった。
池を覆う葦簾を床に引き、正吉は着ていた服をその上に敷いた。
「これから、毎年、こうして一緒に新しい命を育ててくれる?」 正吉が、佳代に言った誓いの言葉であった。
佳代は、黙って頷いて、正吉をその身体に受け入れることとなった。
その年の品評会。
多くの期待を背負った正吉のランチュウであったが、関脇に選ばれたものの残念ながら横綱には選ばれなかった。
しかし、一ヵ月後の十二月二十五日。ランチュウの横綱以上に嬉しい男子を授かることになった。
家督を継ぐには至らなかったもののその年の春、佳代と正吉は結婚をしていた。鱗堂の仕来たりにより、横綱を取る前に結婚をした正吉には、これまで以上に厳しい家法に縛られることになったが、心から愛する人と一緒になり、どんな厳しい戒律にも耐えてゆく決心を固めていた。
神は芸術を愛する。
神に捧げても恥ずることのない芸術的なランチュウを創るために正吉は佳代とランチュウにその身を捧げる覚悟を決めたのだった。
鱗堂では、例え父親になったところで、家督を継ぐまでは嫡男としての仕置きは続く。それは、ランチュウの気持ちを知り、感謝を忘れることのないようにとの仕来たりである。鱗堂には、子供が出来た今でも、正吉のために玄関には衣服を入れる籠が置かれてある。
|
|