「でも、俺なら。あんな綺麗な人と働けるんなら。仕事の合間見て、バイトしてもいいな、ハハハ」
「まだ、そんなこと言ってる。裕也は……」
二人の話しが続き、小さい頃からという言葉にはそれから誰も触れる事はなかった。そして、有紀さんは、ランチュウの餌を取ってくると声を掛け、笑いながら少しずつ与えていた。正吉は、その姿を見ながら『小さい頃から……』と考えていたが、餌をやりながら無邪気に笑う有紀さんの姿を見ている内にどうでもいいことのように忘れてしまっていた。
その夜も結局は、酔いつぶれるほどに飲んだ。裕也もそれ程飲める方ではなかったが、有紀さんに勧められるままにグラスを重ねた。さすがになつみは、そこまで飲むことはなかったがいつもより顔が赤くなるまで飲んだようであった。
「気持ち悪い」 といいながら正吉は、カウンターから出てトイレに入っていった。
裕也も気丈なフリをしていたが、その内目を閉じて眠ってしまっていた。 有紀さんと、なつみはそれからも恋愛の話しをしながら二人の回復するのを待っていた。しばらくして、店の電話が鳴った。レジの向こうで楽しそうに話している有紀さんを見ながら、なつみは横で眠っている裕也を揺り起こしていた。ようやく裕也は、だるそうに顔を持ち上げた。
「あれ、正は?」
「まだ、トイレ。眠っているのかな……」
「あいつ、大丈夫かな」
「ちょっと、見てきてあげたら」
そんな話をしていると有紀さんが戻ってきた。
「もう直ぐ、正ちゃんのお父さんが来るって。連れて帰ってもらうから、安心して。二人も飲み疲れたでしょ。後は、大丈夫だから、帰ってもいいよ。ここは、正ちゃんのお父さんにおごってもらうから、また、遊びに来てね。」 の言葉に、 「そうですか、じゃ。お礼だけ言って帰ります」 と裕也が言うと 「今日は、お客さんと一緒みたいだから、今度にしたら。私から、ちゃんと言っておいてあげるから。心配しないで。正ちゃんのお父さん、自分が酔った姿、親しい人以外あまり見られたくない人だから、誰かいるっていつも電話かかってくるの。今日も、今、帰りましたって言ったら、じゃ、少しだけ寄るよって。荷物預かってるから、早く来てくださいねって言ったら、なんだか、わかったみたい。だから、ほんとにまたいらしてね」 と二人をドアへと送り出した。 手を振り、 「気をつけてね〜」 と笑顔で二人を送り出した後、「やれやれ」と彼女はため息をついていた。そして、店に戻るとドアの鍵を掛け、スタンドライトの明かりのスイッチを切った。
カウンターに座り、目の前に泳ぐ二匹のランチュウを見ながらボトルに残ったサンテミリオンを自分のワイングラスに注ぐとバカラの曲線にワインが揺らぎまるで黒褐色のランチュウの尾鰭が水面を舐めるようにも見えていた。
―これでいいのかな……。
彼女は、水槽に泳ぐランチュウに訊ねていた。
二匹のランチュウは、彼女の声に答えたのかどうか、いつまでも寄り添うようにして泳ぎ続けていた。
暫くして、ドアを叩く音が聞こえてきた。有紀がドアスコープを覗くと、姉の雅と為吉が立っていた。
ドアを開け、二人が入ってくるとまた鍵を閉めた。
「いつも仲いいですね。羨ましい……」
有紀の言葉に二人は、何も答えずただ笑いながらカウンターに座った。
「正吉は?」
座るなり為吉が訊ねた。
「まだ、トイレの中。随分、長くいるから眠っているんじゃないかしら」
「酒を覚えたばかりのころは、俺も、よくやった。申し訳ないけど、そのまま寝かせておいてやって。こういうこともその内に、できなくなるから」
すると、雅が笑いながら、 「これも遺伝なんじゃぁない。あなたなんか、最近でもよくあるくらいだから。きっと、治らないわよ……」
「……、そうか、遺伝か。そうかもしれんな、先代も死ぬまでそうだったし、変なところは、教えなくとも似てくるもんだ……」
この日、為吉はそれ程酔っていなかった所為か、しんみりとした口調であった。 為吉が、カウンターに座ると水槽の中の白・黒のランチュウが元気良く泳ぎ出していた。
「毎日、あの部屋に籠もっているから、ストレスも溜まっているんだろ。ところで正の友達は?」
「お父さんが来るからって、帰しました。その方が、ゆっくり飲めるでしょ……。変に気を使わなくていいし」
「さすが、有紀ちゃん。ありがとう……」
「どういたしまして。それに、正吉くんが、後から、二人のこと友達になんて説明するのかって考えたらそれが一番いいかなと思って。鱗堂さんでは、当たり前のことかもしれないけど、中々世間では理解されないことだものね。でも、いつも仲良さそうで羨ましい。私も誰か、いないかな……。離婚して、気楽になったのはいいけど、やっぱり誰か好きになる人がいないと寂しいものね……」
「そうね、でも人間って可笑しなものね。いなければいないで、寂しくなるし、誰か好きになれば、それが疎ましくなることもあるし」
そう言いながら雅の目線は水槽に反射して映る為吉を見ていた。
「そうだな……」
隣の雅の視線に気付いた為吉が口を開いた。
「人間には選択の自由があるからそうなのかもな……。このランチュウ達みたいに、先のことや他のことを考えずに、今、目の前にいる相手を真剣に愛すことだけに集中できたらどれだけ幸せなのかもしれないな。自由っていうのは、不自由の裏返しだ。生きている限り、何かに縛られるのは当たり前のことなのに、人はそのことを当たり前と思わずにいるから。束縛されれば自由が欲しくなり、自由になれば何かに束縛されなければ気が済まない。これが、人の性なのかもしれん」
「お義兄さんの言うことって、なんか納得して聞けるけど。後から考えてみるといったい何を言おうとしてたんだろうって思うこと多い……」
「そうか、ハハハ」
「そう言えば、前から聞こうと思ってたんだけど、聞いていい?」
「いいよ、有紀ちゃんは身内だから。何でも聞いていいよ」
「有紀ちゃん、あなた、なんか変なこと聞くんじゃないの?」
「そんなことないよ。素朴な疑問……」
「なに?」
「あのね、鱗堂さんって金魚屋さんでしょ」
「そうだ……」
「いい金魚を創るのに色々苦労して血統だか、なんだかご先祖代々してきていることは わかるの。でも、人に対しても同じようにしてるでしょ。それって何のためにそうしているのかなって思って……。人間って金魚と違って、何代も先までを見るってできないでしょ。それに、人間の血統って言ったって大した意味なんて無いって思うの。だから、鱗堂の人がやってる人の血統を守るって、いったい何を守っているんだろうって。前から不思議に感じてたの……」
有紀の疑問は尤ものことであった。血を守るということは、今の時代にどんな意味があるのだろうと考えてみたところで、大した意味など見出すことはできない。ところが、鱗堂では、新しい血を迎えるためにランチュウにするように選別という名のハードルがあるのである。有紀の姉の雅もその洗礼を受けた一人である。彼女の場合、子供ができないかもしれないということで自ら身を引く形にはなったものの、今もこうして公に認められた夫人のような形で続いている。鱗堂の家の選別というのはいったいどんな意味をもつものなのか有紀には多いに疑問であった。
「選別か……。難しい質問だなそれは……」 と為吉は、答えを持っているには違いないが、中々その先の口が開かなかった。
彼は、水槽の陰陽のランチュウを見ながら、どのように話したらよいかを考えていた。その様子は、ランチュウ達に相談をしているようにも有紀にも雅にも見えていた。
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