玄関の方からは、父の声と雅さんの声が聞こえてきた。笑いながら、廊下を歩いて来ているようであった。扉を開け、正吉のシーツを頭まで被っている姿を見ると三人は改めて笑い出した。
「二人っきりにしておいて、何かしてやしないかと心配していたけど、その様子じゃ何もなかったようだな。こんな綺麗な人を目の前にして、ちょっと失礼だぞ。ハハハ……」
「なに言ってるの兄さんは、彼だって、こんな小母さんじゃ相手にならないわよ」
「そんなことないわよ、有紀ちゃんは、歳こそいってるけど、まだまだ、二十半ば位かな、四十近いなんて見えないから。それに綺麗な身体してるし、ねぇ」
雅さんは、同意を求めるようにそう言いながら正吉の方を向いた。 正吉は、ちらと見えた有紀さんの胸を思い出しながら、「ハハハ」と恥ずかしそうに笑うことしかできなかった。
「正吉。それはそうと、昨日は、ちびるまで酒を飲むとはたいしたもんだ。俺も、かなり飲んできたが、まだ、気を失ってちびったことは一回もない。男が、酒を飲む時は、死ぬ気で飲むもんだ。いい根性を見せてもらった、これからもたまには付き合えや。これ着替えだ。シャワーでも貸して、もらって、着てこい。でてきたら、飯でも食いにいくぞ」
シャワールームに入るとさっき有紀さんが使っていたばかりであったからか、まだ湯気が立ち込めていた。気の所為か、ベージュのユニットバスの色が湯煙に淡いピンク色に見えるのは正吉の心のどこかに彼女に対する憧れの感情のようなものが湧き上がってきていたからかもしれない。正吉は、温かなシャワーを身体に流しながら、まだ、触れたことのない女性の体温を感じようとさえした。
その夜、四人で食事に行った後、再び花魁へ行った。二日連続で女性の目利きと父は言ったが雅さんに反対され、彼女も早上がりをするとそのまま直ぐに有紀さんの蘭ちうへと向っていった。
昨日のことは憶えていないが、店に入るとカウンターの向かい、グラスボックスの一番下の段は水槽になっており、座ると目の前に二十センチ程の黒ランチュウと白ランチュウが目に付いた。この色で、このサイズのランチュウはかなり珍しいものだった。バーに華やかな色は似合わないと父が送ったものだと言っていた。黒と白は、陰と陽。世の中の裏と表を表現したものらしい。
正吉が、水槽の中をまじまじと覗きこんでいると父が言った。
「お前、あんまりそうやって見てるとまた、こいつらにいやらしいって逃げられるぞ。それに有紀さんも少しは金魚と話ができるそうだから、変なこと考えてるとこいつらに告げ口されるぞ……」
父のその言葉に二匹の陰と陽のランチュウたちは、正吉の方を向いて並んで泳ぎながら頷いているようであった。雅さんも、有紀さんも父の話を笑いながら聞いていた。
正吉は、陰陽のランチュウを見ながら、父が言うこととは少し違うことを考えていた。
彼は、鱗堂の家に生まれ育ちながら、まだまだ、歴史を含めて、この家のことや家族のことを知らなかったことにこの二日間で気付くことになった。ただ、一緒に暮らしているだけでは見ることもなかった父の新しい一面も見た。そして、父に、家以外にも帰る場所があることも知った。そのことに対して、抵抗を感じたわけでもなければ、違和感を覚えることもなかった。鱗堂では、これまで当たり前のようにしてこういう人生が送られてきたと聞かされたからかもしれない。
その時であった。
黒のランチュウが、何かを言ったように感じた。
「なに、難しく考えているんだよ。似合わないよ……」
正吉が、えっと思い顔を上げるとカウンターの中の有紀さんと目が合った。
―いい笑顔で、綺麗な人だ……
これがいつか祖父に聞いた和顔施というものかしらと思っていると、
「それで、いいんだよ」 とランチュウがまた呟いた。
父は雅さんと話をしながら、横目で笑っていた。
正吉は、ランチュウの声が聞こえるようになるとこれまで以上に肩身の狭い思いをしなければならないのかと心配にもなってきた。
そう考えた時、
「そんなことないよ、気の所為…、全部気の所為よ」 と白のランチュウが言ったように感じた。
すると有紀さんが
「大丈夫?」 と声をかけて来た。
「えぇ、大丈夫です……」
彼女の声を掛けてきたタイミングに驚いてか、それだけ言うと正吉は、父のするようにしてグラスに注がれたウィスキーを飲み干した。彼は、鱗堂の人間が酒の強くなる理由が少しわかるような気がした。
―今日は、気をつけよう
そう思っていると、父が、横で、
「今日も、飲むか!」 と笑っていた。
その夜、正吉は二日続けて、漏らしてしまう予感を覚え、彼の予想通りの展開になってしまった。
|
|