正吉が、目覚めるとそこはいつもの部屋の香りとは違っていた。家に居る時のような土の香りも木の匂いもなかった。身体に掛けられていた布団からは涼しい中にも甘い金木犀のような仄かな香りが感じられた。まだ、多少アルコールが体に残っていたが、昨日は量こそかなりであったが、いい酒を飲んでいた所為だろうこの前程気分が悪くはなかった。腕時計を見ると六時を指していた。朝でないことは確かであった。
見知らぬこの場所にどうやって辿り着いたのか、何故、こうして眠っていたのか不安を感じないでもなかったが、正吉はそれよりも尿意をもよおしていることの方が気になっていた。時間からすると朝立ちならぬ夕立ち状態というところか。身体は、さすがにだるかったが、命の源だけは意に反して脈打っていた。
―トイレ…… と思いながら、布団から起き上がると何も着ていないことに始めて気付いた。
辺りを見回しても、着ていた筈のスーツも見当たらなかった。それよりも膀胱が破裂しそうな位に下腹部が張ってきていた。正吉は布団から起き上がり、シーツを剥がして下半身に巻くと見慣れない部屋のドアを恐る恐る開けてみた。次の間には、ソファーがありリビングのようであったが、誰も人影が見当たらなかった。その奥には、キッチンが見えており、その横にドアがあった。正吉は、前を押さえながら、そちらに向かい、二つ抱えた生理現象に腰を引きながらドアを開けた。
「ヒャッ」
ドアを開けた時、そこにシャワーを浴びたばかりのようにベージュ色のコットンのバスローブを纏い、頭にタオルを巻いた女性がドアノブに手を掛けようとしていたところで声を上げた。驚いたのは、正吉も同じであったが、それよりも何よりも彼は切羽つまっていた。
「すいません。トイレは?」
正吉は、腰を引きながら切ない表情で彼女に訴えていた。
「そこです。そこ、そこ」
彼の状況を理解したその女性は、廊下の壁に背を預け、胸を押さえながら正吉に道を譲るようにした。彼は、見知らぬ女性の前で股間を押さえていることなど気にしては、いられなかった。
「すみません」 と言いながら、急いでトイレに駆け込むとシーツを落とし、自分のモノを押さえ、的を外さないように腰を引き、片方の手を壁に身体を支えながら漸く溜まったものを解放することが出来た。
「ふう〜」 っとため息を漏らしたところで漸く一心地着くことが出来た。
その時、ドアの向こうから、「ふふっ」という乾いたような弾んだ笑い声が聞こえてきた。
解放感から、落ち着きを取り戻したと同時に、正吉は、どういう状況に彼が今置かれているのかを考えることができるようになっていた。と言っても全く、記憶にない事態ではどのようにも考えようがなかった、ただ想像をするだけである。また、膀胱を解放した後にすぐに下半身が収まるという訳でもなかったため、正吉は水を流した後、向きを変え便座を下ろして座り、冷静に状況を把握しようとした。
すると、外から笑い混じりに
「間に合った?」 と幼稚園の先生が子供に対して訊ねるようにして声が聞こえてきた。
正一は反射的に、 「ハイッ」 と園児が先生に答えるように声を上げて答えていた。
「フフッ。若いから元気いいのね」 とどのようにも取ることの出来る返事が返ってきた。
「ハイッ」 また、正吉は反射的に答えていた。
「ハハハ、何か勘違いしてる?」
「えっ?」
「冗談よ。今、お兄さん。じゃなかった、あなたのお父さんが、着替えを取りに行ってるから心配しないで。もう帰ってくる頃だと思うわ。それまで着る物ないけど、そのシーツでよかったらつけてて」
そういう彼女の声の後にドアが閉まる音がした。どうやら、彼女はリビングに行ったらしかった。
―父さん?着替え?
彼女は、父のことを知っているらしかった。それに、ここへ来たのもどうやら一人でと言うわけではなさそうであったことに正吉は安心した。すると今度は、さっきの女性のバスローブ姿が思い出されてきた。急いで、トイレに駆け込んだのだが、彼女の横を通る時に仄かに漂っていた香り、風呂上りで化粧っ気のない艶々な肌、胸の膨らみをさりげなく押さえるようにしていた仕草が、妙に色っぽく思い出されてきた。正吉は、自らの意志とは関係なく胸と下半身の鼓動が音叉のように共鳴してくる妙な興奮を覚えていた。彼女に興味があるというよりも、女性という異性的な存在に彼の中の男性が呼応しようとしていたのかもしれなかった。
いつまで経っても彼の二つ目の心臓の鼓動は治まる様子はなかった。何か、他の事を考えなければと思っているとランチュウのことが頭に浮かんできた。昨日、池から選んであの部屋に置いてあるランチュウのことである。無作為に彼の感じるままに選んだ番いであるが、その一番いはあれでよかったのだろうかと考えてみた。ランチュウの交配を試みるとわかるのだが、ランチュウにも雄雌の相性はある。昨日、為吉は、そのことはまるで考えてはいなかったことに今になって気付いたのである。そしてまた、それが余計な妄想へと発展してしまった。
今、彼が置かれている状況はあの一番いのランチュウに等しかった。見知らぬ女性と一つ部屋の中に閉じ込められているという状況である。ちらとしか見てはいないが、彼女の素顔は中々美しかった。化粧をしていない女性の年齢は、割とわかりやすそうなものだが、十代でないことはわかっても、二十代なのか、三十代なのかもわからなかった。話し方からすれば、正吉よりも少し上だろうか、思い返すとドキリとした。相手は、この思いに応じてくれるのだろうかと考えると、頭の中で素赤のランチュウが彼女の腰の辺りをこちらに背を向け尾鰭を揺ら揺らと燻らせながら泳いでいる様子が想像されてきた。思わず、彼は手に力を入れ、“治まって”と願ってみたがこれは逆効果であった。
その時、
「随分、長いトイレね?」 と遠くの方から、さっきの女性の声が聞こえてきた。
「すいません。もう直ぐ出ます」
「スープ温めたから、テーブルの上に置いておくね。二日酔いには、丁度いいでしょ。それから、為さんから電話があって後十分位で来られるって……」
父が来ると聞いたとき、正吉は我に返って自分を握り締めていた手を離した。すると局部に滞っていた血液が身体の中をゆっくりと流れ始める感覚に漸く落ち着きを取り戻してきた。そして、もう一度、水を流し、シーツをサリーのようにして身に纏い全身を隠し、シーツの隙間から顔だけを覗かせるようにして狭い空間から自らを解放した。
リビングには、さっきの女性がタバコに火をつけるところであった。彼女の向かいの席にはカップに入ったスープが置かれていた。正吉は「どうぞ」と促されるままに、彼女の前の椅子に腰を下ろした。
「昨日、大分飲んだ見たいだったけど大丈夫?」
「えぇ、大丈夫です。でも、記憶がなくて……」
「そりゃそうでしょ、あんな飲み方だったら。ウチのお店に来た時にも、もうかなり酔ってたけど、あなた、為さんに対抗して、飲み比べしてたのよ……」
「お店……?」
陽が昇りかけていた頃、雲が太陽に反射して綺麗なランチュウのようにして空を泳いでいたことまでは、彼も覚えていた。記憶にないのはそこからである。
「もう一件……」 と父が言っていたような気もしてきた。
彼女は、小さな“蘭ちう”と言う名のバーを経営しているということであった。名前は、有紀。年齢は三十八歳、正吉よりも一回り以上年上ということになる。しかし、見た目は相当に若い。また、驚いたことに、花魁の雅さんの妹だということであった。
昨日、父は、雅さんに有紀さんの店で待っているようにと約束をしており、蘭ちうに二人が辿り着いたのが五時前であったという。それから、また、飲み始め、どちらが酒に強いか競い合うようにして飲んで、結局、正吉がその場で倒れ、店のソファーに寝ながら漏らしてしまったらしかった。有紀さんは、店の直ぐ隣にマンションを借りていたため、人気の少ないうちにということで正吉を皆で部屋に運び、服を脱がせ身体を拭き寝かせたと聞かされた。それから、父と雅さんと有紀さんはリビングで寝て、一時間ほど前に正吉の着替えを取りに二人で鱗堂へ行ってくると出掛けたらしい。
「久しぶりに、見たわ、お兄さんのあんなに楽しそうな姿。あんなにお酒に強い人が、珍しくかなり酔ってたみたいだったけど。嬉しかったのねきっと、息子さんとあんな風に飲めて……」
笑いながら話すその姿は、姉妹だけあって花魁の雅さんとどこか似ていた。
―綺麗な人だ 彼女の話を聞きながら、正吉は、スープを啜り考えていた。
有紀さんによると、彼女も昔、花魁で働いていた。そこで知り合った男性と結婚もしたが、三年前に離婚。子供はいないということだった。それから、何もしないで姉の雅さんを頼って一緒に住んでいたが、為吉の勧めで、資金も出してもらい“蘭ちう”を始めたらしい。最後に寄る店が欲しかったからというのが、父に似合わず、為吉には可笑しかった。
笑いながら、あれこれ話をする有紀さんの姿に、『綺麗な人だ……』と正吉は彼女に見とれながらまた考えていた。彼女の屈託のない笑顔にどことなく恥ずかしさを感じたためか、正吉の視線が胸元に落ちた。すると、彼女は、何気なくバスローブの前を押さえながら、一口タバコを吸って、灰皿に火を消した。お互いに何を意識したというわけではなかったが、歳の差があるとは言え、ほぼ初対面の男女が裸に近い格好で向かい合いながらの状況では、澱まないまでも普段とは違った空気が流れることも自然の成り行きかもしれなかった。ほんの僅かな沈黙の間が、次の一言を遮ることもある。正吉は、どうすることも出来ずにカップを両手で回しながら、くるくると小さな空間に滞りながら渦を巻くようにして回っているスープの動きを見つめていた。彼女も、手持ち無沙汰加減に消したばかりの灰皿から細い糸のように立ち上る煙を眺めていた。
その時、神様が助け舟を出したかのように来客を知らせるチャイムがなった。
「お父さんじゃない……」
彼女は、その声と共に以前の笑顔を取り戻していた。
彼女が、立ち上がろうとテーブルに手を着こうとした時、バスローブの襟元に指が引っかかり、少し、胸がはだけるようにして見えてしまった。
「きゃ」 と彼女は、小さく叫ぶと、正吉の表情を確かめるようにして、 「見たな〜」 と昔のテレビの怪談ものの台詞のようにしておどけて言うと、胸元を直しながら玄関の方へと向っていった。
彼女がドアの向こうに消えた後、正吉は水中から漸く顔を出したときのように大きく息を吸い込んだ。
それが、ネットや雑誌でしか見たことのなかった女性の胸を正吉が始めて目の前で見た時であった。その胸は、透明な卵嚢に包まれたランチュウの卵のように、そっと触れるだけでもはじけてしまいそうなくらい儚く波を打っているように彼には見えた。
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