「あなたにとって、若は、初めての人?」
「……えぇ」
「そう、それはよかったわね。いいご縁を持つことが出来て」
「はい、そう思います」
「私もね、そうだった。それにね、私もあなたと同じ、子供を生むことができないの。本当はね、一緒になるつもりだった。でもね、やっぱりそれはできないと思ったの。子供を生むだけが、女の役目じゃないって思うけど、でも、やっぱり、子供は女でないと生めないものね。それでね、やっぱり、こうして話をしたの先代の彼女さんと。その時にね、言われたの。『あなたが彼のことを本当に愛しているのなら、結婚は諦めなさい』って、ハッキリ言われた。ショックだったけど、スッキリもしたわ。余りにもハッキリしすぎててね。それでねこうも言われたの『それでも心から愛している。彼の幸せを願っていると言えるのなら。子供を生む役割は、誰かに任せて、彼の背負っている荷物を一つでも持って一緒に歩きなさい』って、どういう意味だか始めはわからなかったけど、結局こういうことになったのね。これでよかったのかどうかは、わからないけど。伝えるっていうやり方には、幾通りもあって家系を伝えるのを大切な仕事、その中にも血筋を伝えることと同じように心を伝えること、というのも大切な仕事としてあるの。肉体を繋ぐことが出来ない分、心を繋いで行くことが私に与えられた大切な仕事。その人はね『身体の繋がりが、肉体を遺伝させるように、心の繋がりは魂を遺伝させることができる。魂は、目に見えない分、しっかりとしていればいくらでも多くの人に伝える、繋いでゆくことが出来る。そして、そうすることを通じて、本当に心から愛する人のお手伝いが少しでもできれば幸せじゃない?それに、結婚はしていないにしても、皆に認められて一緒にいられたら、本当に幸せじゃない?』って言ってくれたの。私もね、普通に結婚して、家庭を持ってって思ったこともあった。けど、それも人生だし、また、これも人生。好きになった人が、そういう人だった。その人を諦めて、次って言う風にはどうしてもなれなかった。でも、これで意外とよかったのかな……」
祖父の彼女さんからその話を聞いて暫くして、雅さんは、鱗堂を訪ね家族の居る前で、全てを話した。心に固く決めたことであったことと、同情を買うような真似をしたくなかったこともあり、話をしながらも涙は出なかったという。しかし、彼女の話を聞きながら父が隣で、嗚咽しながら泣いているのを見たときには、目の前が霞んで来たらしい。
今また父は、正吉の目の前で雅さんの話を聞きながら、涙を流していた。
「どうもこの話は目によくないらしい……」
そう言いながら、父はまたグラスを空にした。それから、背筋をシャンと伸ばしてソファーに座りなおすと目は濡らしながらも再び笑顔に戻って言った。
「この話しはな、鱗堂の者は皆知っていることだ。でも、誰も口にすることはない取って置きの内輪話だ。俺も親父からあの部屋の鍵を渡された時に色々と話を聞かされた。驚くことも沢山あった。でもこうして、自分のことをお前に話してみると変な話しだが、この歳になって漸く大人になったんだなと思うよ。鱗堂の者の生き方は少しばかり世間からずれているかもしれんが、お天道さまから外れるようなことは一切ない。俺も、親父も、ご先祖さまもだ。」
「わたしも今だから、こうしてあの時のことを懐かしく話すことが出来るけど、覚悟を決めたとは言え随分と悩んだこともあったわ。それは、当たり前でしょ、私だって女なんだから。この人と一緒に居ても、ずうっと一緒って訳にはいかないじゃない。私のところもこの人にとって家なら、鱗堂も家。どっちが大切かって、泣いて迫ったこともあったわ。この人にとっては、鱗堂は何よりも大切な存在。でも、私が好きになったのは、鱗堂の為ちゃんじゃなくて、この人そのものだったんだから。為ちゃんが鱗堂だろうと、剣道だろうと私にとっては、為ちゃんでしかないんだから。悩んで、悩んで、自分で決めたこととは言え、たまには忘れちゃうのよね。でも、そんな時、為ちゃんは何にも言わないで、私の気持ちが落ち着くまで黙って聞いているの、どんな酷い事を言っても黙ってね……。きっと腹の立つことも一杯あったと思うけど……。今、見たいにね、涙を流しながら聞いて、最後に笑顔で『ありがとう、一緒にいてくれて』って言うのよ。いつもその言葉で、私はハッと我に帰って、これでいいって決めたのは私なんだって思うのよ。女の立場からするとね、きっと私よりも、為ちゃんの奥さんの方が、わかって結婚したとは言えつらいに決まっているもの。そうなのよね……、私も、奥さんも全部わかってのことだものね……」
雅さんが、そこまで話すと父が、
「さあ、これで俺の恋愛の話しは今日のところはおしまいだ。何がいいのか悪いのか、それは、お前がお前の頭で考えればいい。俺は、こうして生きてきたという本当の所を知ってもらえばそれでいい。後は、お前が彼女を連れてきてからまた、その彼女にも話してやる」 と言ってその話は終わった。
「それよりも、お前……」
正吉は、今度はどんな話を聞かされるのだろうという期待が膨らんでいた。まだまだ、総領と認められたわけではない彼には、鱗堂のことで知らないことが沢山あるようだからだ。
「お前、自分の境遇に不満をもったことはないか?」 と父は言った。
父が若かった頃、自分が家を継がなければならないことに反発をしていたこともあったらしい。若い頃は、自分の可能性や未来と言うものに夢を抱き色々なことに挑戦したがるものだからだ。その点では、正吉には特に不満を感じたことはなかった。彼は、何よりもランチュウの世話をすることが好きだったからだ。彼には、他の選択肢というものは必要なかったし、それを持とうともいう気持ちも起こらなかった。生まれながらにして、金魚屋というものを継ぐものだと決めていたからだ。
「そうか、それはよかった。なら、話しは早い」
父の話しは、未来とか将来とかいうものについての話であった。
「簡単にいうから、何かの時に考えろ。これも鱗堂の教えの一つだ。人の未来、将来は決まっているものじゃない。だから、やろうと思うことには何でも挑戦しろ。ただな、人にはこうとしか生きられない性根がある。未来は、具体的には決まっていないが、なにかこう定められた生き方が人それぞれあるものなんだ。俺が、親父に言われたことだが、『人というものがどういうものなのかハッキリしないからわかりにくいが、それをランチュウは教えてくれているもんだ。ランチュウは、ランチュウでしかないし、ランチュウ以外の何ものになることも出来ない。人も人でしかないが、人の中には、ランチュウのような、虫のような、鳥とりのような、犬のような、それに猫のような人もいれば、猿のような人もいる。でも、姿形は人なんだ。人というのはわかりにくい存在だ。だから、人は人に悩むし、自分が何ものかわからないから将来にも不安を持つ。お前は、人の中のランチュウになれ』ってな。その時は、将来や家のことやで悩んでいたからそう言ったのかもしれない。中々、今でもよくわからないが、色々な人を見てくるとな、確かに、人の顔をした虫も居れば、犬もいると思うこともある。自分は何者かって考えた時にこうだって言えるものになれたら悩むことはないだろうと思うようにもなってきた。仕事がうまく行って金持ちになっても、不幸な奴は、どこまでいっても不幸になる。金が無くて生活も儘ならないのに幸せな奴も居る。不幸な性根をもった奴は、金があってもなくても、仕事がうまくいっても行かなくても、家庭がうまくいっても行かなくてもどこまでいっても満足できないで、不幸な儘。その反対に、幸せな性根を持った奴は、うまくいっても行かなくても幸せでいられるもののようだ。世の中ってのは、不思議なもので、そうしたものらしい。その内、お前が人のことで悩むことがあったときにでも思い出してくれ」
そう言うと、父はまたグラスを空けた。
「さあ、難しい話は、ここまでにして、今日は、お前の選別眼を試させてもらうために呼んだんだ。店を変えようか」
そう言うと巾着から財布を出し、雅さんにそのまま渡した。チェックを済ませ、店を出る時にその店のママが見送りに来た。
「かあさん、また、来るね」
父は、そう言って店を出た。
―かあさん?
後から気付いたことだが、花魁という店は祖父の彼女さんがやっている店であったと雅さんが話しの中で言っていた。「かあさん」という言葉は、父の親父の彼女に対する真心から出た言葉だったんだと正吉は思った。
花魁を出てから、正吉は父とキャバクラを何軒かはしごをした。どういう女をいい女というのか、どういう女がいい女になる素質を持っているのかを女の子が入れ替わるたびに、店を替わるたびに話をした。父のいういい女という意味は、良くわからなかったが、雅さんと会って、花魁のママを見た後だけにどこか信憑性を感じながら正吉は話を聞いた。その日は、というより翌朝まで、足をふら付かせながら二人して飲み歩いた。
「正吉、次、行くぞ……」 という父の声がその日の記憶の最後であった。
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