「為ちゃん……」 と雅と言う女性は父のことを呼んだ。
二人が付き合い始めたのは、ニ十六年前、正吉がまだ生まれる前の頃からであったと聞かされた。父と母が結婚をする前から付き合っていたことになる。
「本当はね、為ちゃんと一緒になるつもりだったの。この人もきっとそうするって約束してくれてたし……。でもね、鱗堂さんは金魚屋さんって言っても格式のある家柄でしょ、それに……」 といって雅さんは、父の方を見つめながら言葉を選んでいる様子であった。
「いいよ、今日は身内の会話だから。それに、こいつもこれから色々と知っておかなけりゃならんことが沢山あるから、それを教える為に呼んだんだから。やっぱり、俺の時もそうだった。親父に呼ばれて、行ってみたら親父の彼女が沢山居て、色々と聞かされたもんだった」
「そうね、それが鱗堂にとって私のお役目みたいなものですものね」 正吉には、父の母との間にある男女の距離と似通った間合いが、この二人にもあるように感じられた。
「あのね。こういう関係って世間では、不倫っていうでしょ。でもね、説明しにくいんだけどそういうのとは違うのよ。それに、昔のおめかけさんとも違うの……。何がっていうと……」
甘えたように父を見つめる雅さんの瞳に天井から射しているピンライトが反射して、歳の差に関係なく正吉は思わずドキッとしてしまった。父は、正吉の表情の微妙な変化を感じ取ったのか、余裕のある表情で彼を見つめて微笑んでいた。
「正吉さんって、恋愛してるの?」
唐突な質問であった。父から、ある程度のことは聞いていたのかもしれない。
「恋愛って、言われると……。どう答えたらいいのか分からないけど。気になっている女性はいます」
「そう、それはいいことね。それじゃ、その彼女とはまだ付き合っているっていうわけじゃないんだ?」
「そうですね。まだ、付き合っているっていうわけじゃないです」
「……私もね、それ位の時に為ちゃんのご両親やおじいさん、おばあさん、それに親戚の人達に紹介されたの。まだ、手も握ったことのない時だった。鱗堂では、選別っていうのかしら。何も聞かされずに、家へ遊びにおいでよって言われたの。そうしたら大勢でお出迎えでしょ。それが、済んだら場所を変えておじいさんの彼女さん達とお酒も飲みに行ったの。初めてよ、そんな経験。昔のことだから、家族親戚一同っていうのはあっても、お義父さんの彼女さんもよ。本当に、驚いたわ。為ちゃんは、その前に一度だけ彼女さん達と会ってたみたいだけど、そんな話しできないでしょ。服着せてもらえなくなるし。でも、笑っちゃうわね、家の中のことを外でしゃべったら、服が着られないなんて」
雅さんは、と言いながら隣に座っている父の膝をトンと叩くと口元を隠し微笑んでいた。それは同じ笑うという仕草にもこれほど人によって違うのかと感じさせるほど品のあるものであった。同じ水でも、銘仙の湧き水は、人の心に綺麗と思わせるように印象に残るという感じの笑顔である。
「笑い事じゃないんだよ、当人にとってみたら……。俺も何度、家出をしたか」
「え、父さんも?」
「当たり前だ、いい歳をした若者に、素っ裸で一週間過ごせって無理があるだろう。でも、出る度に連れ戻されて、結局は仕来たりに従うことになる。一度は、一ヶ月くらいだったか、家を出て住み込みでバイトをしながら過ごしたこともあった。でもな、その時思ったんだ、生きてるって思うから、歴史を否定してしまうんだって。多くの人は、何故、今此処に居るのかっていうことを考えられないほど色んなことに追われている。自分がここにいるという事実と、因縁というか、歴史を切り離してしまっているから……。人っていうのは、ランチュウと同じで自然にどこからか湧いて生まれてくるもんじゃぁない。親が居て、その親にも親が居て、また親が居る。ずっと続いて来ているから自分がここにいるっていう当たり前のことを忘れてしまう。だから、親を知り先祖に学び伝えていかなきゃならないことが本当は沢山あるのにそれができずに死んでいくんだ。もしかしたら自分が何ものなのかを知らずに考えもせず、死んでいく人間の方が多いのかもしれない。生き物の中で人間の唯一誇れることは何だと思う……。俺は、自らの意志で自分の存在や自分の血の中に生きる先祖のことを次の世代に伝えてゆくこと、繋ぐことの出来ることだと思う。俺は、別の仕事を経験したことは一度きりしかないが、その時感じたよ。皆自分のことだけでも精一杯なんだと。鱗堂は、歴史のある家だから精神的に束縛されることも多いことは確かだ、だが、次の世代に伝えてゆかなくてはならないという使命がはっきりしているからそれは当たり前のことだと。そのことがあるだけでも、十分幸せなことだといつか気付くことが出来た。それで、親父に頭を下げて家に戻った。その時は、一ヶ月、俺が家出した期間と同じだけ裸でいさせられたけどな……」
その懲罰が明けた頃、父と雅さんは出会ったらしい。
雅さんのお母さんは、日本舞踊のお師匠さんで、小さい頃から彼女も稽古をしていたらしい。お父さんは、彼女が小学校にあがるころ離婚をして、もう顔も憶えていないということだった。それから、お母さんが再婚をしたが、義父とは反りが会わず余り話しもすることはないという。
「その罰の話を、出会って暫くして聞かされたの。本当は喋っちゃいけないことだったのね。でもそれを聞いて笑っちゃったら、この人に叱られてね。でも、羨ましいなって思ったの。家のことや、両親のことを大切に思えるって。私のところは、そういった繋がりってなかったし。どちらかというと母と義父が疎ましかっただけだから……。早く、こんな家を出たいとばっかり思っていたから。そんな時だったのね、為ちゃんに、両親に会って貰いたいっていわれたの。まだ、出会ってそれ程経っていたわけでもなかったし、もちろん結婚なんて考えてもいなかった時期ね……。それが、親戚一同、彼女さん一同でしょ。ビックリしちゃって……」
それでも、雅さんは父への想いもあって、家にも出入りするようになった。父のこと家のことを理解しようと一生懸命になった。そして、いよいよ結婚という話しになってきた頃、生理不順で体の調子が悪く病院へいった。その時、もしかしたら子供が生めないかもしれないと彼女は医者に告げられた。それは、結婚を意識しだした頃であっただけに、彼女には余りにもショックな宣告であった。四百年続いた家系を守らなければならない立場の父、百パーセントではないにしろその子供を生むことが出来ないかもしれないということは自分から身を引く以外にはないとそれから少しずつ自ら鱗堂から遠ざかるようにしていった。鱗堂の家族も、彼女さんたちも雅さんのことを気にかけていたが、家が家だけに決心がつかないのかもしれないとあまり急かすことはなかった。容姿といい気品といい、何も申し分のない女性などそうそういるものではなかったこともあったのかもしれない。ただ、一つ難があるとすれば彼女の生い立ち位のものであった。
離婚をしたという両親、親の愛情というものを十分に受けて育ったわけではなかったことが、鱗堂の教えからすると思案のしどころということだった。
暫く彼女が、鱗堂を訪れなくなった頃、十三代目の彼女さんの一人が、雅さんを訊ねた。
「随分、顔を見なかったものだから。どうしてるかなと思ってね……」
その人は、彼女さんの中でも特に雅さんによくしてくれていた人で、今、彼女が働く店のママであることを後になって聞かされた。
それから、近くに来たからと言ってはコーヒーを飲みに行ったり。買い物に行ったりと姉妹のいなかった雅さんにとってその人は歳の離れた姉のような存在になっていった。そして、ある日、結婚についてどう考えているのかを訊ねられた時、隠し事をしていても仕方が無いと思い、絶対に口外しないことを約束に雅さんは彼女の体のことを告白した。
「そう、そういうことだったの。それで、もう決心はついたの?」
―そんなこと位で…… という言葉は、雅さんも期待をしてはいなかった。
「……はい」
戸惑い気味にか細い声で雅さんは答え、笑いながら涙を零した。
「そう……、それで若さんとは話しをしたのそのこと」
「いいえ、まだ。どうやって話したらいいのかわからなくて……」
「そうね。……できれば、そのことは話さない方がいいのかもしれないわね……」
「わたしもそう思って」
「それで、諦められるの?」
「……」
「そうよね。あんなに好きあっていたんだものね。そう簡単に、その気持ちを抑えるなんてできないわ。……実はね。私もそうだったの、いいえ。私だけじゃなくて。他の姉さんたちの中にもね、あなたと同じようなことで悩んだことがあったの……。その時にね、思ったんだけど、本当に人を好きになるってどういうことなのかって……」
雅さんが、聞いたことは人それぞれ抱えているものが違う、好きになるっていうことはただ子供のように一緒にいるっていうことではなく、好きになった人が抱えている荷物を一緒になって担いで歩いていくことだということであった。為吉は、生まれながらにしてそうした荷物を抱えている。それも家という解りやすい荷物を。その人には、その命を使って果たさなければならない使命がある。その使命の一助を担ってあげることが、その人を好きになったものの使命のようなものだと。鱗堂の家では、ランチュウを通して命を伝え、繋ぐということが家業になっていることを考えると、一緒になるにしても身を引くにしても覚悟をもってしないと彼に荷物をまた一つ課すようなものになる。小説やドラマのように感情的に、感傷的にことを運ぶなんていうことは、現実問題として、絶対にしてはならない。
「この歳になってもね、未だにわからないことが沢山あるわ……」
「えっ……」
「愛とか、愛情とかもその一つ。世の中には、一つの恋が終わって、また、次にっていう風潮があるけれど、覚悟をもって人を愛するということはそんなに簡単に次にっていう訳にはいかない筈なのよ。特に、女はね初めての時に痛い思いをして、一生忘れることのできない経験をするんだから。神様がそういう風に創ったのよ。人として大切にしなくちゃいけない心を神様は、女にだけ授けたの。そんなこと男の都合のいい身勝手な言い訳って思ったこともあったけど、やっぱり、人を心から愛するっていうのは女にしか出来ないことなのね……」
雅さんは懐かしそうに父の顔を見ながら話していた。
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