父から連絡があったのは、九時を過ぎてからであった。
名護屋の繁華街錦町、N三ビルの地下一階、クラブ花魁で待っているから直ぐに出て来いということであった。花魁といえば、錦町では有名な老舗で、超高級で知られるお店である。地元の人間なら、行ったことはなくても名前くらいは聞いたことがあるだろう程のところである。余り飲みには出歩かない正吉でも、その名前は聞いたことがあった。
場所が、その店だと聞いて、カジュアルなジャケットを着ていくつもりであったが、着慣れないスーツを着てゆくことにした。
家の近くでタクシーを拾い、錦町に向う車の中ではいささか緊張を感じた。
呼び出しの電話の時に、ちゃんと選べたかとランチュウのことを聞かれた所為かもしれなかったし、時折、テレビでも取材を受けて見たことのある超高級な店に向っている所為もあったのかもしれない。タクシーの運転手が、どこの店に行くのかと訊ねてきたので、花魁だというと高い声を上げて、「いや〜、若いのに豪勢だね……」とテンションが幾分上がり、昔摂った杵柄の自慢話を延々聞かされた。正吉が、父に呼び出されたと話すと、また、「いや〜、親子そろって豪勢なこった。あやかりたいもんだ」と三十分程そんな話が続けられた。普段なら、生返事で答えるところでもあるが、この日は、正吉も幾分大人の対応で相槌を打ち、運転手の話に付き合うようにすることができた。この日は、彼にとっては、成人式以上の意味を持つ、鱗堂家の大人と認められた祈念すべき日であったからかもしれない。
店に入ると、為吉が奥の方から手を振っている姿が見えた。父の隣には、父よりもかなり若く見える三十代くらいの品のよい着物姿の女性が座っていた。後から、聞いたことだがその女性は、店のチーママであったらしい。歳も父よりも三つ下で四十九歳だと聞いて驚いた。その時、彼女の横に座っている父の姿が、普段より幾分大きく見えたことが、正吉には、不思議に感じられた。いつもの父の表情とは違いこれまでに見たことのないような笑顔でいたこと、それに家ではめったに着ない何代か前から伝わる紺の大島紬を着ていたこともあったからかもしれない。
「おう、待ってたぞ。どうだ、いいのは選べたか……」
為吉は、上機嫌に話を始めた。
父に促されて、席に座ると乾杯をし、正吉は父が家を出てからのことを話した。そして、あの金魚部屋の使い方を訊ねたとき、それだけはあそこにあった先祖から伝えられてきた本を参考にして自分で考えろ。皆、自分で考えてやってきたとそれ以上部屋の使い方、ランチュウの飼育の仕方はなにも教えてもらうことは出来なかった。
「それより、今日は、お前に人を見る目があるのかどうかを見させてもらおうと思ってる。人というより女を見る目だな……」
そう言うと父は、グラスに注がれたウイスキーを一気に飲み干した。
「これも鱗堂の家に代々受け継がれてきたことだ。お前が、まだ、女を知らん内にして置かないと、余計な心情が入ると見えるものも見えなくなるからな。鱗堂のものは金魚も育てるが、人も見、育てる。人もランチュウと同じで生まれついて持った姿や品というものがある。それを教えてやらんといかん。これも鱗堂の仕来たりだ。お前がわかるかどうかだが、“人”と言ってもただ人だから、偉いというもんじゃぁない。お前も先代から、聞いたことがあるかもしれんが、世の中には、ランチュウにも劣る人もいるもんだ。中々、見分けのつきにくいことだが、悲しいかなこれが現実だ。だがな鱗堂の者は人のことをどうこう言おうと思ってはいかん。人のことをどうこう言うと、同じように言われるもんだ。だから、鱗堂はな、与えられた命でただ一心に芸術を成すだけなんだ。お前ももう呼んだだろう、あの本の最後に書かれてあったことを……」
「神様はなによりも芸術を好まれるっていうやつ?」
「そうだ。鱗堂の家はな、ランチュウを通して、芸術という奴に携わっているんだ。それも命という飛び切りの芸術にな。お前には、ランチュウと人を見続けてきた血が流れている。今風に言えば遺伝子が受け継がれている。親の目から見ても、見目は悪くないし、品性も備わっていると思う、だがな、世の中を生きていく間に、色々な人に出会い悲しいことに品格が失われてしまうこともある。素質は、あるが、ちゃんとした教育がなされないためと、方向付けができなかったために格が落ちてしまうことがある。それをな、そろそろお前にも教えなきゃいけない時期が来たようだ。なぁに、大したことじゃない。人を選別するには勇気が多少必要になるというだけだ。ランチュウを選別するのと同じことだ。ただ、ランチュウの選別とは違って、人を流すわけじゃない分、気は楽っていうもんだ」
為吉は、そう言うと新しくグラスに注がれたウイスキーをまた煽った。
父は、そう酒を飲める方ではないと思っていたが、それこそ水を飲むように何杯も何杯も飲んでいる。表情は、多少緩るんではいるが、背筋をシャンと伸ばしていかにも酒豪という雰囲気をかもし出していた。
その飲み方を心配して、 「そんなに飲んで大丈夫?」 と正吉が聞くと、 「これくらいは大丈夫だ、普段ならウィスキーの二本くらいは一人で軽くいける。お前には、見せたことないがな。お前も、そのうちいくらでも飲めるようになるさ、酒に関しても鱗堂は超一流の酒豪の血筋だからな……」 と言ってまた、注がれた酒を飲み始めた。
豪快というわけではないが、なんとも情緒ある姿に満面の笑みを浮かべている父の人と成りは、家にいる姿とは似ても似つかないほどに男の性を感じさせた。それは格好がいいとかいうのではなかった。男に色気と言うものが、もしあるとすればこういうことをいうのだろうと正吉は思っていた。人を引きつける包容力とでもいうのだろうか、その姿を見ているだけで、こちらまで思わず笑みを零してしまうような表情がそれであった。
「ところで、お前に紹介しておくが、この人は……」 と父が、隣に座っていた着物の女性の方を向いた。
「世間では、あまりこういうことは言わないんだと思うが、俺も先代から同じように紹介されたから、お前にも言っておく。この人はな、俺の女だ、雅という名前だ……」
恥ずかしそうに、そう言うとまた酒を飲み、空いている方の手で女性の手を掴んだ。
「えっ!……」
正吉には、一瞬父の姿が急に遠くへ行ってしまったように周りが暗く見えていた。気が遠くなるというのはこういうことをいうのだろう。少し廻り始めていた酔いも一気に醒めてしまった。為吉は、何故かそんな息子の姿を見てそれまで以上に嬉しさを表情に湧き上がらせていた。そして、隣の女性に向かい、 「ほら、言った通りやっぱり同じだろう……、俺も親父に聞かされた時『え!』しか言えなかったからな、はっはっは」 と笑っていた。
正吉には目の前に居る二人が、画面の向こうの昼メロの芝居を演じているように現実からは離れた人に見えていた。いくらなんでも、自分の息子にこれは自分の女だということなど考えられなかった。
正吉がそんな風に考えていることがわかったのだろうか、
「信じられないかも知れんが、本当のことだ。それに、これは母さんも婆さんも叔母さんも親戚中皆知っていることだ。俺なんかは、まだまだ可愛い方だ、先代にも彼女は居たが五人までは俺も知っている、その先はわからんがあと二、三人はいただろうな。さすが俺の親父だ。はっはっは……」 とまた笑い始めた。
「こんなことは、世間ではそうそう許されることじゃないが、隠し事をしてもつまらんからな。ウチの家系は代々こういうものだ。正直に生きるということだ。ただな、お前にも同じようにしろと言っているんじゃぁない。これも選択の一つということだ。これも、俺が同じように言われたことだがな、この先お前がどうするのかはこれから自分で決めればいいさ……」
それから、父の女だと紹介された雅さんも一緒に飲み始め、三人で色々と話をすることになった。
いかに成人しているとはいえ、子供の立場で父の母以外の女性と同席をして話をすることにそれ程抵抗を感じなかったことは、女性に対して奥手で、生真面目な正吉にしては自身でも意外であった。それどころか、却って父に対して見直したという気持ちが湧き上がってきてもいた。普段は、白シャツに古い破れた麦わら帽子をかぶって、ランチュウの世話をしているどちらかと言えば冴えない雰囲気の父に、正吉の知らない一面があったことが嬉しくもあった。それ以上に、何よりも母も祖母も、この雅という女性の存在を知っているということの方が驚きであった。家族の中で知らなかったのは、正吉だけであったのだ。もしかすると古くからいる従業員の人たちも知っているのかもしれない。何しろ鱗堂のものは、例え従業員であっても守らなければならない掟があるからそう簡単には家内のことが外に洩れる心配はないのだから。
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