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作品名:鱗堂家の生き方 作者:宮本野熊

第13回   13
 正吉は、これを読んで初めて父が常々言っていた“鱗堂のランチュウには、代々受け継がれてきた信念がある”と言う言葉の意味が少し理解できたような気がした。巷では、献上金魚と持て囃されてきたものの、たかがランチュウと侮るなかれと十四代続いた金魚屋としての誇りの原点を垣間見たようで脊髄に流れる血の熱くなるような思いを感じていた。

 本を閉じ、改めて屋内を見渡すと、本にあった通り細い水路には水車が回っていた。三面あるタタキ池の向こうには暖炉のような火焚き場があった。その横には、タタキ池より一段と低い囲いが三面あり、水の張ってある囲いに赤虫、その隣の泥のようなところにサシ、最後の囲いの土の中にはミミズが飼われていた。どうやら、これも代々こうしていつでも使うことの出来るように設えられていたものらしい。正吉が知る限り、あまり開けられたことのないこの部屋であるが、どこを見ても塵も埃も見当たらなかった。土の床も綺麗に整えられており、相撲の本土表のようにきめ細かな土が床一面を覆っていた。タタキ池も今のようなコンクリートブロックで作られたものではなく、綺麗に磨かれた黒曜石が使われていた。水車の回る水路は綺麗に切り取られた自然石が敷かれ、その周りには分厚いコケがびっしりと張り付き、狭いながらも小学生の頃社会見学に行った苔寺を思い出させるような優美さを感じさせた。そこを流れる水の水脈がどこから来るものか、床下から湧き出しているようであるが、地下深い鍾乳洞に湛えられた自然にろ過された水のように柔らかく澄んでいるように見えた。こうしてこの室内の様子を改めて見渡してみると、普段は誰も入ってはいない筈のこの場所を父が、見えないところで手入れを欠かさずしていたことは明白で、正吉にはそれが嬉しく感じられた。

 部屋のすべては、本に書かれてある通り電気のない昔ながらの造りになっている。ここでは、電気に頼ることなく鱗堂家の伝統に基づいた飼育方法で品評会に出す個体を育てなければならないことは本を読んでも、室内を見渡しても明白であった。正吉は、これまでに経験のない方法で飼育をしなければならない戸惑いを感じもしたが、代々受け継がれてきた方法で父も、祖父も、祖祖父も通って来たであろう道に挑戦しようと思いを新たにした。

 一通り室内を確認し終えると正吉は、裏の池に向っていた。次にしなければならないことは、そこに沢山飼われているランチュウの中から、たった一匹の雄と雌を選ばなくてはならないことである。これまでの経験から、優れた個体を選ぶだけの目利きは正吉にも十分にあった。しかし、父が言った言葉が気になっていた。

―あれこれ考えずに、お前の感じたところで選べばいい……

 池には、他の養魚場と比べてもいい個体がいることは間違いない。鱗堂がその名を掛けて創り出してきたランチュウは、大げさに言えば、例え選別をしなかったとしてもどれも十分に通用するだけの素質は生まれついてもっている。ただ、ヌシのような上質な品格となるとそうそういるものではない。父に言われた、“あれこれ考えずに”という言葉に正吉は却って迷いを感じてしまった。色、柄、鱗、頭、尾張り、泳ぎ……とどうしても色々なポイントが脳裏を掠めてしまう。池に泳ぐ、ランチュウを見る前に、頭の中を整理しなくてはとの思いもあって、正吉は池に近づくと背を向け、後ろ歩きに池の端まで進んでいった。選ぶのは、一番い(つがい)のランチュウであった、しかし、その一番いが、正吉の将来を左右することになるのである。迷うのは当然のことであった。雄の池にも雌の池にも数百匹はいる筈である。その中からどうやって、一匹ずつを選ぶのか……。正吉はどのようにして選んだらよいのかをしばらく決められずにいた。

 その時、正吉の幼い頃祖父がよく言っていた言葉を思い出した。

“縁あって”
という言葉である。

 祖父は、ことある度に、縁あってという言葉を使っていた。いい事も、意にそぐわない事も縁あってそうなるのだから、それを受け入れてその先どうしようかと考えなさい。それが、お前に与えられた縁だからとよく言われたことを思い出した。

 祖母も、
「親も兄弟も先生も友達も何かのご縁で結ばれて出会ったんだから、いい事も悪いことも学ばせてもらう気持ちで居れば、腹の立つこともなかろうに……」
とよく言っていた。

 正吉は、あれこれ悩んで見ても仕方ない事なのかもしれないと漸く腹を決めることができるような気になっていた。そして、父の言った「お前の感じたように……」と言う言葉に従い色形にこだわらず“これ”と心に感じたものを選ぼうと決心した。

 そう思っても緊張からか、心の落ち着かない感覚を抑えるため大きく深呼吸を何度かした。そして、さっと池を見ると何匹かのランチュウが背干しのためか水面をゆっくりと泳いでいた。正吉が動いた為、殆どは驚いて水の中に潜って行ってしまったが、雄池の方も、雌池の方も一匹ずつ他のランチュウ達に惑わされずに優雅に泳いでいるものが居た。池は青水になっており、上からでは柄も、形もハッキリとは判らなかったが、正吉は、
―これが、縁かな……
と感じた。

 するとそれぞれが、正吉の方へと向って泳いできた。よくよく考えると、池の端の方は少し浅瀬になっており、その辺りは陽が指すと水温が高いために寄ってきたに違いない。しかし、正吉は、タタキ池でのヌシのこともあり

―通じたのかな……
と確信に近いものを感じていた。

 それも縁、これも縁というものなのかもしれなかった。

 正吉は、こうして一番いのらんちゅうを選び、盥に入れ他の個体と区別をして、その盥を池に浮かせておいた。

 ランチュウは、環境の変化、特に水温の変化には敏感である。急激な一度の温度の違いで体調を崩してしまうこともある。それに水質も問題になってくる。正吉は、水を天秤桶に汲み室内のタタキ池へと運ぶことから始めなくてはならなかった。ポンプを使ってくみ出すこともできるが、そうしてしまうと水をかき回すことになり、泥や糞まで一緒に汲み上げることになってしまう。正吉は、金魚田の水を極力混ぜまわさないように気を使いながら、表面の比較的澄んだ水だけを桶に汲みそれを担いでタタキ池へと運び込んだ。かなりの重労働であった。三時間ほど掛けて漸く、三面のタタキ池に水を運び終えることができた。そして、雄雌を別々の池へと離し、本格的に起こす日まで再び冬眠できるように池の表面を葦簾で覆いをかぶせた。陽の暮れる頃、正吉は儀式に向けた初仕事を漸く終えることができた。

 正吉は、なれない天秤で重い水を担いだ所為か体中の節々、筋肉に震えを感じた。しかし、些細ではあるが目標に向って一歩進んだ達成感のようなもので心地よい疲れに満足することができた。

 家に入ると食事を済ませ、父に言われた通り風呂にも入り疲れを癒すと出掛ける支度をして父の帰るのを待っていた。


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