「正吉、起きなさい」 と母に起こされたのは、九時近くになっていた。
それでも四時間位は寝られたことになる。頭は意外に冴えていた。 顔を洗い、朝食を済ませると、父が待っているというヌシのいる池へと向っていった。
父は、椅子に座り池を眺めながら、なにやら頷いていた。時折、顎に手を当てながら、思案もしている様子であった。
正吉が、父の後ろに立つまで、父は正吉の存在に気付かなかった。
「おう、来たか。まぁ、座れ」 と言って父は、正吉を丸椅子に座らせた。
「今日は、陽気もいいから水温も幾分高い。こいつも自分から起きてきた。取りあえず何も考えんでいいから、この池を見ててくれ。俺は、一時間程、出掛けてくる。池の底に糞が溜まっているみたいだから、浮いてきたら掬ってやってくれ、こいつが手伝ってくれるから」 と言い残し、どこかへ出掛けてしまった。
正吉は、父の言いつけどおり、椅子に座って池を眺めていた。
―ランチュウが自分で、池の底の糞を浮かせてくるなんて…… と思いながら眺めていた。
すると、父の言葉どおりヌシが浮き上がって来た。長い糞を口に咥え、水面近くに来るとそれを掬えと言わんばかりに正吉の目の前に離して、また、潜っていった。この時期、池は青水状態になっており、底の方は上からではわからない。すると、また、もう一つ長い糞を咥えて、正吉の前でそれを離し、潜っていった。正吉は、ヌシの行動に感心してその様子を見ていた。また、父の「こいつが手伝ってくれるから」という父の言葉に驚いていた。ヌシは、次々と底から、糞を拾い上げてくる。正吉は、何回目かの時漸くその糞を網で救い上げた。正吉のその様子を見てなのか、ヌシは、「フン」と言ったかのようにして、クルッと向きを変えるとまた底へ潜っては糞を拾い上げてきた。後は、その繰り返しであった。正吉は、出来る限り、水をかき回さないようにして、網で糞を吸い上げる。ヌシは、底から拾い上げる。三十分位して、漸くヌシが、底へ潜らなくなって、水温の温かい水面をゆっくりと旋回するようになった。
―もう、ないのか と正吉が思った時、ヌシが正吉の正面でホバリングを始めた。
―そうか、もう、ないのか と正吉が考えた時、ヌシは、満足そうに頭を上下に振っていた。
その様子になんの抵抗も無く、“そうか”と正吉が思えたのは彼が、鱗堂の跡取りであったからと言うだけではない。知らず、知らずの内に意識せず彼も、ランチュウと会話ができるようになっていたからでもあったのかもしれない。
―水の中って寒い と彼が思うと、ヌシはブルッと身を震わせた。
―お腹は空いてないの? と思うと、ヌシは水面に浮いている小さな浮き草を食べて見せた。
―そうか、浮き草はランチュウにはサラダみたいなものだっていうからね こういう会話をあれこれとしている時、為吉が戻ってきた。遠くから、正吉が池に向って頷いたり、網を手に糞を取ったりしている姿を満足そうに眺めながらの帰宅であった。
「どうだ、調子は……」
無心でランチュウと会話をしていた正吉は父が後ろに立っていることに気付かなかった。話しかけられて、漸く気付いたところである。
「調子って……、言われたようにただ糞をとっているだけだよ。調子も何もないじゃない」
「そんなことあるか。俺が聞いてるのは、こいつとの話のことだよ。何か話をしていたんじゃないのか?」
正吉は、まったく意識もせずにヌシとあれこれ会話らしきことをしていたことに父に言われて改めて気付かされた。
「そういえば……」
「なにが、そういえばだ。俺の時は、嬉しくて嬉しくて、漸くこれで一人前の鱗堂の家のものになれたって喜んだもんだ。お前は、話をしながら何も考えてなかったのか」
「うん、全然。なんか普通にしてた」
「普通にか……。そういえば、三代目も、小さい頃から普通に意識せずランチュウと話をしていたと記録に残っていたな。もしかして、お前、小さい頃からなんとなく話ができていたのかもしれんな……。それなら、話は早い。お前、家の裏の成魚用の金魚田に行って年明けに起こす番いを一組選んで来い。今日なら、陽気がいいから水面に浮いてきてる奴がいるだろう。あれこれ余分なことを考えずにな、お前の感じたところで選べばいい。わかるか……。お前の始めての、チャレンジだ。来年の品評会へ向けて、当歳を出品するんだ。今のお前の飼育技術でどこまでいけるものかわからんが、ことのついでだ。やってみろ……」
ことのついでというのは、為吉のでかけてきた用事との兼ね合いからの言葉であった。その用が、どういうものであるか、正吉はまだ知らされてはいないが、品評会への出品が許されたということで鱗堂の家督を継ぐ儀式の始まりであることは理解できた。 「それからな、今夜は一緒に出掛けるから、飯喰ったら、直ぐに風呂に入って支度をしておけ。ジーパンは止めろよ。キチンとした格好でな」
そう言うと為吉は正吉を伴って、錠のしてある儀式用の金魚屋へ向った。その場所は正吉にとって、また、鱗堂家の嫡男にとっては憧れの一角である。四百年の間、守り続けられてきたその場所は鱗堂の男が一人前になるために設えられた神聖な金魚家屋である。重厚な土蔵造りの外観、入り口には家紋が大きく掲げてあった。
二人はその扉の前に立つと神前に捧げるようにして二礼二拍手一礼を行った。そして、為吉は、扉を開ける時に、
「先代も言っていたが、こうしてここの扉を開けるのは親として、鱗堂家の一番の幸せだってな。ワシも代々続くとはいえ金魚屋というものに反発していた時期があったが、こうしてみるとやっぱりいいものかもしれん。子孫に伝えていける何かがあるだけでも、随分と幸せなことなんだと思う……。俺の時は……。まぁ、いいか。とにかくお前も今の気持ちを忘れずに立派な金魚を創れるようここを使え。今日から、ここがお前の仕事場だ。後は、何もしなくていい。これからの一年、ここだけに集中しろ」
為吉は、そう言うと安堵の笑みを浮かべながら重々しい南京錠と鍵を正吉に手渡した。そして、 「それじゃ、俺はまた出掛けてくるから。母さんには、わかっていると思うけど俺の晩飯はいらないと言っておいてくれ」 と言ってまた出掛けて行った。
正吉は、今、子供の頃には近づくだけでも叱られたことのある憧れの家屋の前に感慨深げに立っていた。この扉が開かれたということは、一歩、鱗堂の大人として認められたということであった。鱗堂の家督を継ぐものにとっては、非常に大切な一歩であった。外の地面と中の地面に何か特別な違いがあるというわけではない。それでも、丸に三鰭の家紋が入り口に掲げてあるというだけで、鱗堂の家のものにとっては、鳥居の中の神殿のように神聖な場所であった。尚、扉の前で一呼吸すると、正吉はゆっくりと足を進めた。中には、昔ながらの和紙の張られた格子戸があり、建物は二重扉になっていた。重々しい、格子戸の見た目とは裏腹に、手を添えると力を掛けないでも扉は木のレールの上を音もなく滑るようにして開けることができた。余程、手入れがされているらしかった。
室内は天窓からの光が眩しい程に明るかった。窓から差し込む光の先には水の張られていないタタキ池が三面並んでいるのが目に付いた。その奥の壁には幅高さが五、六十センチの神棚がこの場所を守るようにして掲げられていた。正吉は、自然にその方へと歩いて行った。自身の鱗堂家の成人として、晴れの門出を祈念し、深々と頭を下げ、拍手を打ち、幼い頃から聞かされていた祝詞を自然に上げていた。
―どうか、ご先祖さまの築き上げた鱗堂の屋号に恥じることなく、いい個体を世に出すことができますように と祈りを捧げた。
そうして、神棚の供えられている式台を見ると年季の入った古く薄い一冊の本が目に付いた。それは今のように糊で装丁がしてあるものではなかった。背は丁寧に細い紐で装丁されていたが、表紙の文字は陽に焼けたものか、墨で書かれた文字は読み取れないほどであった。しかし、中を開くと、黄色く変色した紙片に書かれた墨字はハッキリと読むことができた。絵入りで、ひらがなの楷書で綺麗な文字が書かれてあった。その本は、代々伝わるランチュウ飼育の解説書であった。三十ページ程のその本には、電気などなかった時代の飼育方法が書かれてあった。今では、電気を使えば、ヒーターで冬眠中の魚をいつでも起こすことも出来るし、ポンプを使って空気を水中に送り込むことも出来る。太身のある個体を創るために水流を起こさないようなろ過装置も備えることも出来る。その本にあったのは、タタキ池の水を循環させたり、空気を送り込む為の水車の使い方であったり、室内や水の温度を一定に保つ為の炉の使い方が解説してあった。また、餌の赤虫や糸ミミズ、サシ(蛆虫)の飼育法、水草の与え方などが書かれていた。
最後のページにはこう記されていた。
『神サマハ、ナニヨリモゲイジュツヲコノマレル。鱗堂ノモノハ、ランチウヲモッテゲイジュツトナシ、神ニササゲテモハズルコトノナイ名魚ヲツクリソダテルコト。コレ鱗堂ヲナノルモノノ使命ト心得ルベシ』
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